第116話 名前のない仕事
ベルクに戻ったとき、雪は解けはじめていた。広場の石畳が黒く濡れて、露店の主が声を張っている。冬が長かったぶん、春は急に来るらしい。
書庫の一室で、施行の準備が進んでいた。半年後に、修正案が動きはじめる。二十か国の書式を揃え、台帳の様式を作り、閲覧の手続きを決める。条文が五つでも、実務は五十になる。トマスは、その真ん中にいた。
「氏名台帳の様式、三案まで絞りました」
彼は、机の上に紙を並べた。
「一行の項目は、氏名、区分、年月、それから――」
彼は、四つ目の欄を指した。
「〈判明していない事項〉の欄を、作りました」
アレンは、その欄を見た。
「なぜです」
「空欄のままだと、埋め忘れと区別がつきません」
トマスは、そう答えた。
「分からなかったことと、まだ書いていないことは、違います。違うものを同じ空白で書くと、いつか同じものとして扱われます」
アレンは、しばらくその紙を見ていた。
「――採用します」
「はい」
「どこで思いつきましたか」
「ヴァイセンです」
トマスは、少し笑った。
「四十七行に、分かっていることだけ書いた日です。あのとき、名前の欄は空でしたけど、他の欄は埋まっていました。だから、あの紙は人の形をしていました」
二百三十一行の紙は、その週のうちに機構の台帳へ綴じられた。様式は、まだ暫定だった。だから、紙はそのままの形で綴じた。ヴァイセンで使った罫線のまま、実務班の字のまま、消した三行の薄い線もそのまま残した。
分類は、〈保存年限・永年〉。閲覧の区分は、〈検証目的に限る〉。
台帳の背に、書記官が題名を書いた。――アウストリア東部ヴァイセン地区・第三十九〜四十年度・死亡者氏名台帳。その下に、小さく一行が添えられた。――うち四十七名、氏名不詳。
アレンは、その一行を見て、書記官に言った。
「一語、直していただけますか」
「どこでしょう」
「〈氏名不詳〉を、〈氏名未確認〉に」
書記官は、少し考えてから、うなずいた。
「不詳ですと、もう分からないという意味になりますね」
「はい」
「未確認なら」
「まだ、確認できていない、という意味です」
書記官は、その一行を書き直した。
施行の実務が一段落したのは、春が本格的になってからだった。その日の夕方、アレンは書庫で、綴じ終えた台帳の前に立っていた。トマスが、後ろから来た。
「一つ、お願いがあります」
「どうぞ」
「五年後の再検証まで、ヴァイセンの担当を、私にください」
アレンは、振り返った。
「担当というのは」
「四十七行です」
トマスは、はっきりそう言った。
「証言が二つ以下だった三十一人は、まだ手があります。近隣の三つの村に、あの冬に移った人がいます。名簿には出てきませんが、いるんです。訪ねれば、思い出す人がいるかもしれません」
「五年かかります」
「かかると思います」
「一人も増えないかもしれません」
「増えないかもしれません」
彼は、それでも引かなかった。
「ですが、探している人がいるあいだは、あの四十七は〈未確認〉です。誰も探さなくなった日に、〈不詳〉になります」
アレンは、その言葉を聞いた。自分が十七年、うまく言えなかったことを、この若者は二十日と半年で言葉にしていた。
「――トマスさん」
「はい」
「あなたがやめたくなったら、いつでもやめて構いません」
「はい」
「ただ、やめるときは、記録に残してください。〈ここまで探した〉と」
「分かりました」
「その記録を読んだ誰かが、続きから探せます」
トマスは、深く頭を下げた。
「まだ探します」
その夜、機構の月報が刷り上がった。最後の頁に、次回総会の議題が載っている。一、修正案の施行状況について。二、加盟国の議決方式に関する付帯提案(継続審議)。
二番目の一行を、アレンは長く見ていた。廃案にはならなかった。継続審議というのは、機構では「まだ死んでいない」という意味だ。
多く払う者が、多く決める。その理屈に、彼はまだ、一言で返せる言葉を持っていない。いずれ、また出てくる。次は、もっと精緻な形で出てくるだろう。ロートは、そういう仕事をする人だ。
窓を開けると、夜気が入ってきた。もう、冷たくなかった。
王国からの月次報告が、今日も届いていた。備蓄は基準を満たしている。北方三州の労役は続いている。ガルドは逃げていない。南からは、何も届かない。
アウステルの鐘は、今夜も正確な時刻に鳴っているはずだった。あの街の掲示板の前には、あの日、女が一人立っていた。指で行を追っていた。読んでいる人が、そこにいた。それだけが、四日間の聞き取りで彼が持ち帰った、数字にならないものだった。
アレンは、机の上の台帳の写しに手を置いた。二百三十一行。名前が入った行、百八十四。氏名未確認、四十七。
この紙は、今日から永年で残る。彼が死んでも残る。トマスが探すのをやめても残る。誰も読まなくなっても、そこにある。
それは、勝利ではなかった。四十七人は、四十七人のままだ。名前は戻っていない。制度が変わっても、あの冬は取り返せない。
それでも――この紙があれば、五年後の誰かが、この四十七を見つけることができる。見つけたその人は、たぶん、アレン・クロウという名前を知らない。知らなくていい。
戦後処理官は知っている。
人の名前を残す仕事に、自分の名前は要らないということを。
そして、その名前のない仕事だけが、次の冬に間に合うということを。
続編第2部、ここで一区切りです。ヴァイセンの四十七行は、まだ空欄のまま残っています。
機構の議決方式をめぐる付帯提案は、廃案になっていません。継続審議のまま、次の総会に出てきます。
多く払う者が、多く決める――その理屈に返す言葉を、アレンはまだ持っていません。




