第114話 非効率になりました
三日目の朝、王国から書簡が届いた。リアーヌの字だった。北方三州の冬越しは、去年より軽い。備蓄は基準を満たしている。復興作業の労役に、監視付きで従事している者が三十七名。そのうちの一人について、ベルナールが一行だけ添えていた。
――ガルドは、逃げていない。
それだけだった。アレンは、その一行を二度読んで、書簡を戻した。いずれ、あの男のことも書かなければならない。だが、今日ではない。
四日目の午後、アウステルからの報が入った。エレナが、扉を閉めずに入ってきた。閉める余裕がなかったのだと、あとで分かった。
「アウストリア財務総監、ヴェルナー・クライスト。本日付で解任」
アレンは、書きかけの条文から顔を上げた。
「――解任」
「はい。後任は、財務総監代理ディーター・ロート。臨時代行としての就任です」
「理由は」
「発表されています」
エレナが、写しを差し出した。アレンは、それを机の上で開いた。文書は短かった。三行だった。
――東部ヴァイセン地区における配給行政について、承認手続きに重大な確認不足が認められた。
――当該手続きの承認者は、財務総監ヴェルナー・クライストである。
――以上により、同職を解く。
名前が、書いてあった。アレンは、その三行目を長く見ていた。
この国の文書に、個人名が理由として書かれるのは、珍しいことだった。彼らは普段、そうしない。制度の不備、体制の見直し、機構との調整——そういう言い方をする。今回だけ、名前が書かれている。
「エレナさん」
「はい」
「この文書を、誰が起草したか分かりますか」
「財務総監府の、文書課です」
「課の上は」
「――総監代行です」
アレンは、写しを閉じた。窓の外は、晴れていた。三日ぶりに雪がやんで、ベルクの屋根が光っていた。
夕方、クラウスが来た。彼は椅子に座らず、扉のところに立ったまま言った。
「聞いたよ」
「はい」
「あんた、勝ったんだぞ」
「勝っていません」
「向こうの総監が飛んだんだ。案は通る。付帯は削れるかもしれん。どこが勝ちじゃないんだ」
アレンは、机の上を見ていた。条文の草稿。エリオットの試算。王国からの書簡。そして、三行の解任文書。
「クラウスさん」
「おう」
「あの方が飛んだ理由を、もう一度読んでください」
クラウスは写しを取って読み、途中で止まった。
「……確認不足」
「はい」
「あんたが持ってきた名簿が、それを可視化した」
「そうです」
「じゃあ、あんたのせいってことか」
「違います」
アレンは、そう答えた。
「私は、告発していません。因果も証明していません。総会でも、あの方の名前を一度も出しませんでした」
「じゃあ、なんで飛ぶんだよ」
「――記録が残ったからです」
彼は、机の上の三行を、指で示した。
「あの方は、二十数年前に、名簿が判断を歪めるのを見ました。だから、判断の場から名前を外した。国家は人格を持たない。個人の事情で制度を曲げてはならない。それが、あの方の原則です」
「知ってる」
「その原則を、あの国は今日、あの方に適用しました」
クラウスが、顔を上げた。
「有能だったから残す、長年の功績があるから庇う、というのは、個人の事情です。あの方が二十数年かけて、あの国から取り除いてきたものです」
「――」
「取り除いた結果、庇うための仕組みが、一つも残っていませんでした」
クラウスは、動かなかった。
「あの方は、自分の原則を、最後まで撤回していません」
アレンは、そう続けた。
「撤回しないまま、その原則で処理されました。これは、誰かが仕組んだことではありません。私でもなく、ロートさんでさえ、たぶん半分だけです。残りの半分は、あの方が自分で作りました」
クラウスはしばらく黙り、それから、低く言った。
「因果応報ってのは、こういう静かな顔してんのか」
「私は、留飲を下げていません」
「本当か」
「――少しだけ、下げました」
アレンは、正直に言った。
「王国に追放されたとき、私は同じことを言いました。戦後は管轄外にする、と。あのときの私は、あの国が自分の仕組みで壊れるのを、正しいことだと思っていました」
「今は」
「今も、正しいと思っています」
彼は、写しを引き出しにしまった。
「ですが、正しいことが起きたとき、私は毎回、同じことを考えます」
「何を」
「――次に同じ形で処理されるのは、私かもしれない、と」
クラウスは、それには答えなかった。答えるかわりに、扉を閉めて、はじめて椅子に座った。
「明日だな」
「はい」
「採決だ」
「はい」
「あんた、明日勝ったら、どうする」
アレンは、少し考えた。
「南へ行きます」
「――は?」
「アウステルへ行きます」
「あんた、何しに」
「記録を取りに」
クラウスは、口を開けたまま、しばらく閉じなかった。
「……あんた、あの人を助けに行くのか」
「助けません」
アレンは、そう答えた。
「助けに行くのなら、行きません。あれは、あの方が二十数年かけて選んだ結果です。私が横から救えば、あの方の原則を私が否定することになります」
「じゃあ、なんでだ」
「あの方の設計思想を、書き残す人間が必要だからです」
彼は、机の上の草稿を、そっと揃えた。
「一・二という数字を作った人は、あの方です。修正案の第一条は、あの方の条文をそのまま使っています。作った人の名前が、〈確認不足の承認者〉という三行だけで残るのは――正確ではありません」
クラウスは、長く息を吐いた。
「あんた、たまに怖いって言ったよな」
「言われました」
「訂正する。あんたは、いつも怖い」
戦後処理官は知っている。
人が自分の作った仕組みに殺されるとき、その仕組みはたいてい、正しく動いているということを。
そして、正しく動いた記録もまた、誰かが残さなければ消えるということを。
ヴェルナー・クライストは、自分の原則によって処理されました。
次回、採決と、南への旅です。




