第113話 召還
翌朝、アウストリアの馬車が、機構本部の前に着けられた。雪はやんでいた。石畳は凍っていて、馬が一度足を滑らせた。アレンは、階段の下でそれを見ていた。
ヴェルナー・クライストが出てきたのは、七時過ぎだった。外套の下は、昨日と同じ服だった。荷は、随行が運んでいる。彼自身は、書類の束を一つ抱えているだけだった。
「お発ちですか」
「召還です」
彼は、隠さなかった。
「財務総監として、本国での説明を求められました」
「五日後の採決は」
「ロートが引き継ぎます。既に、昨夜のうちに発たせています」
アレンは、その言い方に少しだけ引っかかった。
「――昨夜のうちに、ですか」
「はい」
「早馬が着いたのは、一刻前だと聞いています」
ヴェルナーは、答えなかった。答えないことが、答えだった。ロートは、召還状が届く前に発っていた。つまり、召還を知っていた。あるいは、それを起こした側にいた。
「クライスト殿」
「はい」
「説明を求められている件は、何ですか」
「東部ヴァイセン地区における、簡略方式の承認手続きです」
彼は、平坦に言った。
「二年前、私はロートの設計を承認しました。承認の際、先行運用地区における死亡率の推移について、追加の確認を求めなかった。その一点です」
「求めなかったのは、なぜです」
「求める理由がありませんでした」
ヴェルナーは、そこではじめて、少しだけ間を置いた。
「死亡率は、集計されていました。数字は上がっていました。ですが、上がったという理由だけでは、確認は求められません。寒い年は上がるからです」
「――」
「私は、二年前、あの数字を見ています」
馬が、石畳の上で身じろぎした。
「見て、通しました」
アレンは、何も言えなかった。
「アレン殿。誤解のないように申し上げますが、私は、あなたの名簿を恨んではおりません」
「そうは思っていません」
「そう思われても仕方のない立場です」
ヴェルナーは、書類の束を持ち直した。
「あの紙は、私の判断を裏づける材料にはなりませんでした。かわりに、二年前の私が何を確認しなかったかを、確認できる形にしました。それだけのことです」
彼は、そこで一度、こちらを見た。
「あなたの言葉で言えば――間違えたと、後から分かる状態になった」
アレンは、その視線を受けた。
「私の紙が、あなたを追い詰めています」
「追い詰めているのは、紙ではありません」
ヴェルナーは、馬車の扉に手をかけた。
「私の承認です」
扉が閉まった。馬車が動き出す直前、窓が少しだけ開いた。
「アレン殿」
「はい」
「四十七行の写しは、持って行きます」
窓が閉まり、馬車は南門へ向かった。
その日の午後、ディーター・ロートが総会の議場に現れた。昨夜のうちに発ったはずの男が、午後には席についている。つまり、彼はベルクを出ていない。発ったと聞かされていただけだ。
ロートは、アレンを見つけると、まっすぐ歩いてきた。
「引き継ぎました」
「伺いました」
「付帯提案について、五日後までに各国と個別に詰めます。修正案そのものには、反対しません」
「クライスト殿と同じですね」
「同じです」
ロートは、細い眼鏡の位置を直した。
「一点、申し上げておきます。東部の件について、我が国は本日、正式な見解を出しました。写しを差し上げます」
差し出された紙は、一枚だった。アレンは、その場で読んだ。
――本件は、簡略方式の設計上の欠陥ではなく、承認手続きにおける確認不足に起因するものである。
一行だった。設計した者の名前は、どこにも出てこない。承認した者の名前も、書かれていない。書かれていないが、この機構で誰が承認したかを知らない者はいない。
「ロートさん」
「はい」
「この方式を設計されたのは、あなただと伺いました」
「私です」
「二年前、ヴァイセンに三日おられたと」
「三日です」
ロートは、否定しなかった。
「区分の機械的更新も、保存年限も、書式も、私が引きました」
「では、この一行は」
「事実です」
彼はそう言った。声に、後ろめたさはなかった。言い逃れをしている人間の声ではない。本当に、そう思っている声だった。
「設計は、承認されてはじめて施行されます。設計に欠陥があったかどうかは、まだ検証されていません。検証されていないものを欠陥と呼ぶことはできません。一方、承認の際に確認が不足していたことは、既に確認されています」
「――確認されている事実だけを書いた、と」
「そうです」
アレンは、その紙を折った。
「一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「クライスト殿は、あなたの上官です」
「はい」
「あなたは、あの方をどう評価されていますか」
ロートは、少しだけ考えた。嘘をつくための時間ではなかった。正確に答えるための時間だった。
「有能な方でした」
「――でした」
「はい」
彼は、眼鏡の奥で、こちらを見た。
「クライスト閣下は、非効率になりました」
その言い方に、憎しみはなかった。侮蔑もなかった。机が斜めですね、と言うときと、まったく同じ調子だった。
戦後処理官は知っている。
最も冷たい言葉は、怒りからは出てこないということを。
それは、業務の報告として、正確に発せられるということを。
「非効率になりました」。
次回、その言葉が実行されます。




