第109話 同じ結論
ヴェルナー・クライストがベルクに着いたのは、総会の二日前だった。随行は三人。荷は少なく、宿は機構が用意した部屋をそのまま使った。到着の翌日、彼は加盟国の代表と個別に会い、夕方までに七か国を回った。
その夜、アレンのところへ使いが来た。――一刻、お時間をいただけますか。
書庫の一室を借りた。長机が一つ、灯りが二つ。壁一面の棚には、機構が発足してからの記録が並んでいる。まだ十年に満たないので、棚の上のほうは空いていた。
「よい部屋です」
ヴェルナーは、入ってきてそう言った。
「静かで、暖房がない」
「ここは書庫ですので」
「紙は寒いほうが長持ちします。理に適っている」
彼は椅子に座り、外套を脱がなかった。
「東部の件、報告を受けました」
「ロートさんから」
「はい。〈非効率でしたが、精緻でした〉と」
ヴェルナーは、机の上で指を組んだ。
「二百三十一。百八十四。四十七。この三つで合っていますか」
「合っています」
「四十七の内訳を、伺ってよろしいですか」
「内訳、というのは」
「氏名が判明しなかった理由の内訳です」
アレンは、少し驚いた。その質問をした人間は、彼が二人目だった。
「証言が二つ以下だったもの、三十一。証言が食い違ったもの、十四。何も残っていなかったもの、二」
「最後の二人は」
「埋葬記録に骨だけが残っていました。誰も覚えていませんでした」
ヴェルナーは、その数字をしばらく反芻するように黙っていた。
「私は、その二人の存在を知りませんでした」
「私も、二十日前まで知りませんでした」
「知ったことで、何が変わりましたか」
「何も変わりません」
アレンは、そう答えた。
「次年度の予算も、区分の更新方式も、あなたの試算も、一つも動きません」
「では、なぜ数えたのですか」
その問いは、カタリーナのものと、ロートのものと、同じ形をしていた。三度目だった。
アレンは、灯りの芯を少しだけ上げた。
「話が長くなります」
「一刻いただいております」
だから彼は、二晩前にクラウスに話したことを、もう一度話した。ゲルツ谷。六つの集落。五つぶんの配給。エルツという名の村。三日泊まった村長の家。上の子に字を教えたこと。書き換えた割当表。〈輸送上の事情による調整〉という一行。二つの配給所が襲われたこと。四百人を超える死者。翌年に消えた村。廃棄目録に並んだ、冊子の題名。
ヴェルナーは、一度も口を挟まなかった。話し終えたとき、灯りは少し暗くなっていた。
「――名前を知っていたから、選んだ」
やがて、彼はそう繰り返した。
「はい」
「そして、その選択は、より多くを殺した」
「はい」
「だから、判断の場に名前を持ち込まない仕組みを作られた」
「そうです」
ヴェルナーは、組んでいた指を解いた。
「アレン殿」
「はい」
「私の話をしてよろしいですか」
アレンは、うなずいた。
「私が財務府に入った年、アウストリア東部で麦が枯れました。戦の前です。まだ王国が滅びる気配もなかった頃です」
彼の声は、いつもと同じだった。
「配給の対象を決める必要がありました。当時の方式は、地区ごとに詳細な世帯名簿を作り、それを見て一件ずつ判断するというものでした。丁寧な方式です。実際、書式は今より遥かに手が込んでいました」
「――」
「名簿には、家名が入っていました」
アレンは、そこで動きを止めた。
「家名を見れば、誰の縁者かが分かります。分かる人には分かる。判断の卓に名簿を置いた瞬間、それは選別ではなく、陳情の場になりました」
ヴェルナーは、机の木目を見ていた。
「三か月で、配給の三割が、名簿の上のほうに固まりました。上のほうというのは、書式の並び順ではありません。地位の順です」
「……」
「私は、その配分表を作った班にいました。二十四歳でした」
書庫の空気は、冷たかった。
「その年に亡くなった数は、公式には千二百人です。実際には、もっといたと思います。名簿から漏れていた家は、はじめから数えられていませんので」
「あなたは、その名簿を」
「翌年、廃止しました」
ヴェルナーは、顔を上げた。
「判断の場から、名前を消しました。区分だけで決めるようにしました。誰が誰の縁者かが分からなければ、陳情は成立しません。実際、成立しなくなりました。翌々年の配分は、それ以前のどの年よりも均等でした」
「均等」
「均等です」
彼は、少しだけ声を落とした。
「そのかわり、誰が死んだかは、分からなくなりました」
沈黙が、長かった。二人とも、動かなかった。
アレンは、自分が今、何を聞いているのかを、正確に理解するのに少し時間がかかった。この男は、名前を軽んじて記録を捨てたのではない。名前が判断を歪めるところを、自分の手で見たのだ。二十四歳のときに。そして、歪ませない方法として、名前そのものを制度から追い出した。
――同じだ。自分と、同じ結論に立っている。
どちらも、名簿のせいで人を殺した。どちらも、判断の卓から名前を退けた。どちらも、その原則を十七年と二十数年、一度も曲げていない。
「クライスト殿」
アレンの声は、少しだけ乾いていた。
「あなたは、それを誰かに話したことがありますか」
「ありません」
「なぜです」
「私の理由であって、制度の理由ではありませんので」
アレンは、思わず短く息を吐いた。二晩前、自分がクラウスに言ったのと、一字も違わなかった。
ヴェルナーは、その反応を見て、はじめて眉をわずかに動かした。
「――なるほど」
「はい」
「同じことを、言われたことがありますね」
「言いました。二晩前に、私が」
灯りが、一度揺れた。ヴェルナーは、椅子の背に身を預けた。天井を見上げるでもなく、ただ、まっすぐ前を見ていた。
「アレン殿」
「はい」
「我々は、同じ結論に立っています」
「そのようです」
「同じ失敗をし、同じ原則を立て、同じ理由で誰にも言わなかった」
彼は、そこで一度だけ間を置いた。
「では、我々の違いは何です」
戦後処理官は知っている。
最も遠い相手が、最も近いところから来ていることがあるということを。
二人は同じ失敗をしていました。
次回、違いを一つだけ言葉にします。




