第108話 救って、失敗しました
「王国の戦後処理官になって、二年目のことです」
アレンは、湯の器を両手で包んだまま話しはじめた。
「南部に、ゲルツ谷という土地がありました。細い谷が三つ集まったところで、集落が六つ。戦のあと、二年続けて麦がとれませんでした」
「飢饉か」
「飢饉です」
クラウスは、口を挟まなかった。
「王都から回せる配給は、五つの集落ぶんでした。六つには足りない。どこを外すかは、王都の官房で決まりました。人口が最も少なく、街道から最も遠い集落――エルツ。百三十人ほどの村です」
「決めたのは、あんたじゃないんだな」
「私ではありません」
「じゃあ」
「私は、その決定を現地で執行する側でした」
アレンは、そこで一度、息を置いた。
「ですが、私はその半年前に、六つの集落全部の名簿を作っていました」
「――名簿」
「はい。配給の準備のために、一軒ずつ回って、世帯と人数を書き取りました。エルツにも三日いました。宿がないので、村長の家に泊めてもらいました。名前を、全部書きました」
クラウスは、湯を飲むのをやめた。
「エルツの名簿は、私の字でした」
アレンは、卓の木目を見ていた。
「執行の日、私は割当を書き換えました。五つの集落から少しずつ削って、エルツに回るようにしました。総量は変えていません。誰も飢えない、と計算しました」
「計算違いか」
「計算は合っていました」
彼は、静かにそう言った。
「合っていたのは、紙の上の話です」
少しずつ削るということは、五つの集落の側では、去年より減るということだ。減った理由は、書けなかった。第六の集落に回したとは書けない。それは決定に反する行為だからだ。だから理由の欄には、〈輸送上の事情による調整〉とだけ書いた。そこから先は、早かった。
「削られた集落のうち、二つで配給所が襲われました」
アレンは、抑揚を変えずに続けた。
「理由が書いていないものは、疑われます。疑われた配給は、奪われます。奪われた配給は、次の便で埋めなければならない。埋めるために、別の谷から回しました。回された谷も、また足りなくなりました」
「連鎖したのか」
「三か月で、ゲルツ谷の配給計画は機能しなくなりました」
湯が、冷めていた。
「その冬、四つの集落で欠配が出ました。死者は、記録に残っているだけで四百人を超えます」
クラウスは、何も言わなかった。
「エルツは、無事でした」
アレンは、そこではじめて、少しだけ言葉を選んだ。
「その冬は、一人も死にませんでした」
「……なら」
「翌年、エルツは消えました」
クラウスの手が、止まった。
「麦は三年目もとれませんでした。谷全体の輸送が壊れていたので、翌年の配給はどこにも十分には届きませんでした。エルツの人たちは、村を出ました。近隣に散って、そのあとは追えていません」
「追えていない」
「はい。名簿は、私が作ったものが最後です。それ以降、あの村の名前を書いた人間はいません」
部屋が、静かだった。窓の外は、雪だった。
「四百人と、百三十人だ」
やがて、クラウスがそう言った。
「数だけ見りゃ、そうだな」
「数だけ見れば、そうです」
「あんたは、数だけ見てないだろ」
アレンは、湯の器を卓に置いた。
「私が知りたかったのは、なぜ自分がエルツを選んだのか、ということでした」
クラウスが、顔を上げた。
「人口が少ないからではありません。街道から遠いからでもありません。可哀想だったからでもない――と思っていました。長いこと、そう思っていました」
「違ったのか」
「違いました」
彼は、はっきりと言った。
「私は、あの村の人たちの名前を知っていたのです。それだけです」
「……」
「削った五つの集落にも、同じだけ人がいました。私はその名簿も作っています。ですが、エルツには三日いました。村長の家に泊まって、粥を食べました。子どもが二人いて、上の子が字を覚えたがっていたので、書き方を教えました」
アレンは、そこで一度、言葉を止めた。
「他の五つには、一日ずついました」
クラウスは、目を伏せた。
「私は、公平に見捨てるべき立場で、三日いた村を選びました。選んだ理由は、情です。情で選んだのに、それを〈輸送上の事情〉と書きました」
「――嘘を書いたんだな」
「嘘を書きました」
彼は、そこを一言も飾らなかった。
「そして、その嘘が、四百人を殺しました」
沈黙が長かった。クラウスは、しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「あんた、それを――」
「誰にも言いませんでした」
「なんでだ」
「言えば、慰められるからです」
アレンは、そう答えた。
「情で選んで四百人を死なせた人間が、慰められてはいけません。慰められると、次も同じことをします」
クラウスは、何かを言いかけて、やめた。彼は、この男の隣に何年もいた。泣きましょう、と言ったこともある。だが今夜だけは、その言葉が使えないことが分かっていた。
「……それで」
彼は、話の続きを促した。
「それで、あんたは何を変えた」
「二つです」
アレンは、指を二本立てた。
「一つ。基準を、先に公開するようにしました」
「先に」
「はい。誰を外すかを決める前に、どういう基準で外すかを全員に見せる。そうすれば、私が三日いた村を特別扱いしようとしたとき、それが基準に反すると、私以外の誰かが気づけます」
「自分を、疑わせる仕組みにしたのか」
「私が一番信用していないのは、私です」
クラウスは、短く息を吐いた。
「二つ目は」
「名簿を、必ず残すようにしました」
アレンは、卓の上に手を置いた。
「エルツの名簿は、王都の書庫にありました。三年後に廃棄されました。保存年限が過ぎたからです。私が最後に見たのは、廃棄の目録に並んだ、冊子の題名だけでした」
彼は、その手を、静かに握った。
「〈ゲルツ谷第六集落・世帯名簿〉。一行です」
クラウスは、動かなかった。
「あの村の人たちが、その後どこへ行ったのか。何人が生き延びたのか。名前は何だったのか。私が知っていたことは全部、私の頭の中にしかありません。私が死ねば、消えます」
アレンは、顔を上げた。
「――だから私は、基準を先に公開するようになりました」
彼の声は、いつもと同じ高さだった。
「そして、名簿を捨てない仕組みを作ろうとしてきました。十七年、そればかりやってきました」
クラウスは長いこと黙っていた。それから、湯の器を持ち上げて、一息に飲み干した。
「明日、カタリーナに同じ話をしろ」
「しません」
「なんでだよ」
「これは、私の理由です。制度の理由ではありません」
「あんたな」
クラウスは、器を卓に置いた。
「制度の理由ってのは、たいてい誰かの理由から始まるんだよ」
戦後処理官は知っている。
人が最も強く守ろうとする原則は、その人が最も大きく失敗した場所に立っているということを。
ゲルツ谷の話でした。「救って、失敗しました」の中身です。
次回、南から総会の客が来ます。




