第107話 何を守るのか
総会まで、四日。
その夜、アレンは執務室で意見書を書こうとして、三度失敗した。
一度目は、四十七という数字から書き始めた。二枚書いたところで、これは告発になっていると気づいて破いた。告発は、相手を悪者にすることでしか成立しない。ヴェルナー・クライストは悪者ではない。悪者でない相手を悪者にすれば、その主張は嘘の上に立つ。
二度目は、制度の理念から書き始めた。一枚も進まなかった。三度目は、費用の再試算から書き始めて三枚書けたが、読み返して、これは第二条を守る理由になっていないと分かった。安くする方法を並べただけだ。
紙が、床に落ちていた。窓の外で、鐘が十一時を打った。
扉が叩かれた。
「まだ灯りが点いていたので」
トマスだった。手に、湯気の立つ器を二つ持っている。
「粥です。厨房に残っていました」
「ありがとうございます」
二人は、しばらく黙って食べた。トマスは、床の紙を見た。
「進んでいませんね」
「進んでいません」
「今日の会議、聞きました。カタリーナ様の問いのことも」
「そうですか」
「私だったら、何と答えたか、ずっと考えていました」
アレンは、匙を止めた。
「どう答えますか」
「〈名前です〉と答えます」
トマスは、まっすぐそう言った。
「それで負けると思います。負けると思いますが、他に言うことがありません」
「……そうですね」
「アレンさんは、負けたくないんですか」
思ってもみない問いだった。アレンは、少し考えた。
「負けたくない、というのとは違います」
「では」
「その答え方をすると、四十七行の紙が、私の感傷の証拠になってしまいます」
トマスが、器を置いた。
「感傷ではないと思います」
「私も、そう思っています。ですが、思っているだけでは、あれは感傷です。感傷は、次の判断を作れません」
彼は、床から一枚拾い上げた。二度目に書きかけて、一枚も進まなかった紙だった。
「トマスさん。あの村で、私たちが三人の確定を取り消した日のことを覚えていますか」
「覚えています」
「あのとき、あなたは名前が入るほうを選びたがりました。私は取り消しました。どちらが正しかったと思いますか」
「……取り消したほうが」
「なぜです」
トマスは、答えようとして、詰まった。
「間違った名前は、記録じゃないから、です」
「それは私の言い方です。あなたの言い方でお願いします」
若者は、長く黙った。やがて、絞り出すように言った。
「間違った名前を書いたら、本当の名前を探すのが、そこで終わるからです」
アレンは、その言葉を聞いた。器の中の粥が、少し冷めていた。
「――ありがとうございます」
「え」
「近いところまで来ました。まだ、届いていませんが」
トマスは、器を二つ重ねて立ち上がった。戸口で、一度だけ振り返る。
「あの村の写しは、役場に置いてきましたよね」
「置いてきました」
「二年後に、捨てられますか」
「規程どおりなら、捨てられます」
「……そうですか」
若者は、それ以上は言わなかった。言わずに出ていった背中のほうが、言葉より長く残った。
トマスが帰ったあと、彼はもう一度、白い紙に向かった。書けなかった。書けない理由が、少しずつ分かってきていた。この問いに答えるためには、自分がなぜ「基準を先に公開する」という方式に辿り着いたのかを、説明しなければならない。その説明を、彼は十七年間、誰にもしていない。
扉が、また叩かれた。今度は、返事をする前に開いた。
「まだ起きてると思った」
クラウス・フェルナーが、瓶を二本ぶら下げて入ってきた。片方をこちらに投げてよこす。受け取ると、中身は葡萄酒ではなく、ただの湯だった。
「厨房に酒がなくてな」
「助かります」
「嘘つけ。飲めよ、たまには」
クラウスは、椅子に逆向きに座った。床の紙を見て、卓の上の白い紙を見て、それから、こちらの顔を見た。見て、少しだけ眉を動かした。
「……ああ」
「何ですか」
「いや」
彼は、湯を一口飲んだ。
「あんた、前にも同じ顔してたな」
アレンは、答えなかった。
「ずっと昔だ。あんたが機構を作る前だよ。俺が、無条件の救援を諦めて、条件付きの配給に切り替えた日があったろう」
「境界の東で、雨の日でした」
「そんなことまで覚えてるのか」
クラウスは笑って、すぐに笑いを引っ込めた。
「あの日、俺は泣いた。あんたは泣かなかった。かわりに、今と同じ顔をしてた」
「どんな顔ですか」
「〈これは前にもやった〉って顔だ」
湯の器が、卓の上に置かれた。
「あんた、あのとき言ったよな。〈救って、失敗しました〉って。俺はてっきり、比喩か何かだと思ってた」
クラウスは、そこで言葉を切った。窓の外で、雪が降りはじめていた。ベルクの冬は、今年に限って長い。
「――比喩じゃなかっただろ」
アレンは、湯の器を見ていた。器の中に、灯りが小さく映っている。
十七年、誰にも言わなかった。言う必要がなかったからだ。あれは自分の過去であって、制度の話ではない。そう思ってきた。だが今、制度の話ができなくなっている。できない理由が、そこにある。
「クラウスさん」
「おう」
「長くなります」
「明日は非番だ」
戦後処理官は知っている。
説明できない原則には、たいてい、説明していない過去があるということを。
次回、アレンが十七年間伏せていた話をします。




