第106話 検証者
ベルクに戻ったのは、六日後の夕方だった。総会まで、六日。雪はもう積もっていて、広場の石畳は白かった。木箱を本部の書庫へ運び入れ、封を解かずにそのまま置いた。開けるのは総会の場でいい。
翌朝、検証部会の報告があった。会議室には、九人。加盟国の代表が四人、機構の職員が五人。卓の中央に、エリオット・ハーグの報告書が置かれている。厚さは、議案の半分ほどだった。
「結論から申し上げます」
エリオットは、前置きをしなかった。
「アウストリア提出の再編案について、四十日間の検証を行いました。試算の前提、計算過程、実測値の出所、いずれにも重大な瑕疵は認められません」
誰も、驚かなかった。
「費用の削減幅、通常時の二・一倍から一・二倍への低下は、簡略方式を採用した場合、おおむね達成可能と判断します。加盟国の財政負担は平均で四割強、軽くなります」
彼は、頁をめくった。
「加えて申し上げます。現行方式を維持した場合、五年以内に監査費用を負担できなくなる加盟国が、少なくとも三か国あります。十年では、六か国です」
誰も、口を開かなかった。
「つまり」
加盟国の代表の一人が、確かめるように言った。
「現状のままでは、制度そのものが保たない」
「はい」
「アウストリアの案を入れれば、保つ」
「費用の面では、保ちます」
「――エリオットさん」
カタリーナ・ホルツが、そこで口を挟んだ。
「費用の面では、というのは、どういう意味ですか」
エリオットは、報告書を閉じた。
「私が検証したのは、費用と、その削減の実現可能性です。制度が何のためにあるのかは、検証の対象ではありません」
「対象にしなかったのですか」
「できません」
彼は、はっきりと言った。
「〈何のために〉は、数字になりません。数字にならないものを、私の名前で保証することはできません。それをすれば、私は検証者ではなくなります」
カタリーナは、何か言いかけて、やめた。彼女には分かっていた。この男は五年前、その線を踏み越えて全体最適を語り、辞任動議の筆頭に立った。そして戻ってきたとき、自分の仕事の範囲を、自分で狭く引き直した。狭く引いた線を、彼はもう動かさない。
「アレンさん」
エリオットが、こちらを見た。
「東部の調査結果を、伺ってよろしいですか」
アレンは、卓の上に一枚だけ置いた。二百三十一。百八十四。四十七。三つの数字だけが書いてある紙だった。
「ヴァイセン地区の、二年間の死亡者数です。うち、氏名を確認できたのが百八十四人。四十七人は、確認できませんでした」
「死者数の増加は、簡略方式に起因しますか」
「因果は、証明できません」
アレンは、正直に答えた。
「区分の機械的更新によって受給から外れた世帯があり、その世帯で死者が出ている、という事実関係までは確認しました。ですが、それが唯一の原因だと示す資料はありません。私が持ち帰ったのは、名前です。原因ではありません」
エリオットは、その紙を一分ほど見ていた。
「……四十七」
「はい」
「この四十七を、あなたは費用に換算しますか」
「しません」
「では、私の報告書に対する反証にはなりません」
「はい」
アレンは、そう答えた。誰も、次を言わなかった。窓の外、ベルクの街に雪が降っている。卓の上には、正しい報告書と、正しい紙が一枚ずつあった。二つは、同じ卓の上で、まったく噛み合っていなかった。
「アレンさん」
カタリーナが、静かに言った。
「一つだけ、伺わせてください」
「どうぞ」
「あなたは、この案の第二条に反対しておられます。記録の保存年限を、二年にはできない、と」
「はい」
「では、何を守るのですか」
アレンは、顔を上げた。
「記録を守る、というのは、答えになりません。記録は手段です。手段を守れと言えば、必ず〈より安い手段があります〉と返されます。そして、実際にあるのです」
カタリーナの声は、責める調子ではなかった。彼女は、五年前から一貫して同じ場所に立っている。倫理監査を設計し、それが高いと言われるたびに、高くても必要だと説明してきた人だ。
「守るべきものを、一言で言えますか」
アレンは口を開いたが、言葉が出なかった。
名前です、と言えば、それは感情論です、と返される。エリオットではなく、自分自身がそう返すだろう。人の尊厳です、と言えば――それは、四十七行の紙が持っている重さより、はるかに軽い。
沈黙が、長くなった。カタリーナは、待っていた。
「……申し訳ありません」
やがて、アレンはそう言った。
「今は、答えられません」
カタリーナは、うなずいた。
「分かりました」
「分かりました、ですか」
「はい」
彼女は、書類をまとめながら言った。
「あなたが、その場しのぎの答えを出さなかったことは、記録しておきます」
会議が終わり、部屋が空になっても、アレンはしばらく座っていた。卓の上に、三つの数字の紙が残っている。二百三十一。百八十四。四十七。これを持って帰ってきたのに、この紙が何を意味するのかを、自分の言葉で言えない。
戦後処理官は知っている。
正しいものを持っていることと、それを説明できることは、別だということを。
そして、説明できないものは、会議の卓の上では存在しないのと同じだということを。
アレンは答えられませんでした。
次回、答えられない理由の話をします。




