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【最終章】第四十一話『閲覧席の面々』

 御前槍試合の前日の夜。


 静まり返った私の部屋に、甘く妖しい香りが流れ込んできた。扉の影から現れたのは、夜の闇を纏ったような艶やかな姿──淫魔、サキュバスだった。長い髪が揺れ、唇には人を惑わせる笑み。その瞳は、私の奥底まで覗き込むように艶やかに光っていた。


 彼女は扉を静かに閉めると、くすりと笑いながら肩をすくめた。

「明日からは、もうフリードリヒの相手はしないわ」


 私は片眉を上げ、視線を細める。

「理由を聞いてもいいかしら?」


 サキュバスは紅い唇に指先を添え、わざとらしく長いため息をつく。

「簡単なことよ。あの人からは、もう吸うべき精気が一滴も残っていないの」


「……使い果たしたということ?」


「ええ。二か月近く、毎夜、愛と欲と精気の奪い合いを続けてきた結果よ。最初はなかなかの味だったけれど、今じゃもう……枯れ木に噛り付くようなもの」


 彼女の言葉に、私は脳裏にフリードリヒの変わり果てた姿を思い浮かべる。


 かつては端正な顔立ちに威厳を備えた男だった。それが今や、髪はほとんど抜け落ち、皮膚は土気色にくすみ、頬はこけ、背筋は丸まり……八十代の老人のような姿。だが、その眼だけはぎらぎらと輝き、王女の姿に化けたサキュバスを追い求める執念だけを燃やしている。


「それでも……まだあなたを求めているように見えるけれど?」


「求めてはいるわ。でも、それは飢えた亡霊が幻を追うようなもの。もう食べられないとわかっていても、目で追わずにはいられないの」


 その姿は、まるで干からびたミイラが動くかのようだ。


 だが、この異様な変貌ぶりに怪しむ者はいない。私はすでにマグダレーナに命じて、段階ごとに「病気による衰え」だと城中に広めさせているからだ。


「……そう。ならば、あなたの役目はここまでね」


「そういうこと。これ以上吸ったら、本当に命が尽きてしまうでしょうし、舞台は明日に控えている。少しは長持ちさせないと」


 サキュバスの艶笑の奥に、冷たい計算が覗く。その言葉を受け、私は静かに頷いた。フリードリヒに残された時間は、確かにもうわずかだ。


 窓の外では、夜風が城壁を撫でるように吹き抜けていた。


 私はその音を聞きながら、明日の舞台を思い描き、ゆっくりと息を吐いた。


 回廊を進む足音が、石造りの壁に鈍く反響していた。夕暮れの光が高い窓から差し込み、赤銅色の帯となって床を染める。その中を進むフリードリヒは、もはや一人で歩くことすら困難な様子だった。背筋は大きく曲がり、足取りは不安定で、かすかな息遣いが荒く、肩が小刻みに震えている。まるで一歩ごとに命の残り火が削られていくかのようだ。


 私はその背を見つめ、胸の奥で冷たい笑みを浮かべた。

(よくぞ……御前槍試合まで生き延びてくれた)


 二か月にわたり、彼をじわじわと蝕む策は着実に進行し、今の惨めな姿はその成果だった。それでも、明日までは生かしておかねばならない。なぜなら、あなたの役目はまだ終わっていないからだ。


(もうじき終わる……王を毒殺したその場で、レオンハルトを王家転覆の謀反の首謀者として処刑する命を言い渡すだけ)


 フリードリヒの肩越しに、中庭の光景が目に入る。明日の御前試合に備えて整えられた会場は、色鮮やかな旗が風に翻り、磨き上げられた観覧席が整然と並び、その全てが祝祭を装っている。しかし、その華やかさの裏で、血と毒の計画が静かに鼓動を打っていた。


(そうなれば、この国の支配権は……フリードリヒの死後、全て私の掌の中に落ちる)


 ふらついた彼が侍従に支えられる。その背中は小さく、かつての威厳の欠片もない。私は背後からその姿を見つめ、唇の端をわずかに吊り上げた。もはや哀れみも情けもない。ただ、駒としての最後の役目を果たさせるための冷徹な期待だけがそこにあった。


 明日の試合の結末と、その後に訪れる血塗られた未来を胸に描きながら、私は回廊の途中で歩みを止め、窓越しの赤い空を静かに見上げた。



 御前槍試合の会場は、朝からざわめきと期待に包まれていた。色鮮やかな旗が高く掲げられ、初夏の風を受けてはためき、観客席の上には天幕が張られている。石造りの観覧台の階段を上り下りする人々の足音、遠くから響く楽師たちの調べ、甲冑の金属が打ち鳴らされる音が混ざり合い、会場全体が好奇と緊張の入り混じった熱気を帯びていた。


 中央の最上席──まさに舞台の焦点には、国王と王妃が並んで腰掛けている。王は威厳を保ちながらも、どこか期待に目を細め、王妃は白い手袋をはめた指先でゆるやかに扇を動かしていた。そのすぐ横には、フリードリヒと私が座っている。フリードリヒの顔色は冴えず、やつれた頬が影を作っていたが、その瞳だけは前方をしっかりと捉えていた。


 さらにその隣、この日だけ特別に謹慎を解かれたレオンハルトが座っていた。整えられた礼装に身を包み、口元には薄い笑みを浮かべてはいるが、その奥の瞳には落ち着かぬ光が宿っている。彼の視線は時折、会場の端から端へと忙しなく動き、何かを探るようでもあった。


 席は左右に広がり、爵位の順に並べられている。煌びやかな衣装の貴族たちが談笑し、時に双眼鏡を覗き込んでは、今日の試合や出場者について語り合っていた。彼らの言葉の端々に、勝者への期待や噂話が交じる。


 余興としての華やかさを保つため、長いテーブルには豪華な食事や芳醇な香りのワイン、黄金色のエール、甘いリキュールなどが並べられていた。磨かれた銀器に盛られた果物や肉料理の皿が並び、香辛料の香りが風に乗って鼻をくすぐる。グラスの中で揺れる赤いワインが、陽光を受けて血のような輝きを放っていた。


 私は視線を前に向けながらも、横目で周囲の動きと表情を観察していた。ここはただの観戦席ではない──明日へ繋がる、そして誰かの運命を決定づける舞台でもあるのだ。


 私はちらりと視線を貴族席に滑らせた。陽光が差し込む高い窓の下、色鮮やかなドレスや礼服を纏った貴族たちが整然と並ぶ。その最上位、侯爵家の席には長女と次女──私が復讐の炎を燃やす標的たちが揃っていた。長女は相変わらず傲慢な笑みを浮かべ、視線をこちらに向けるでもなく、周囲を値踏みするように眺めている。次女はワイングラスを細い指で回し、その紅い液体を口に運ぶ仕草さえも計算された優雅さを纏っていた。


 胸の奥で、冷たい炎がじりじりと燃え広がる。私は隣に控えるマグダレーナへと視線を向け、声を潜めた。

「……三女はどうしたの?」


 マグダレーナはわずかに顎を引き、貴族席を一瞥すると、低い声で答えた。

「顔に大怪我を負って以来、侯爵家の屋敷で治療を受けていたようですが……数日前から姿を消したそうです」


「消えた?」私の声がかすかに硬くなる。


「ええ。最後に見た者の話では……まるで化け物のように変わり果てた顔で、ふらふらと森の方向へ歩いて行ったと。恐らく、自ら命を絶つ場所を探していたのかもしれません」


 私は目を細める。「つまり、もう……」


「この世にはいない可能性が高いでしょう」とマグダレーナは淡々と告げた。その口調に感情はなく、事実をそのまま報告するのみ。


 私は短く息を吐き、視線を再び長女と次女へ戻す。あの哀れな三女──結局、生かしておいても、犬に食い裂かれた無残な顔では、生き抜くことはできなかったのだろう。


 私の胸に同情のかけらはない。ただ、駒の一つが盤面から音もなく消えた、それだけのことだった。マグダレーナの無表情な横顔が、私の冷たい思考を映す鏡のように見えた。


 私はニールを伴い、石造りの廊下を抜けて控室へ向かった。壁の松明が揺れ、光と影が交互に流れるたび、石の冷たさと鉄の匂いが鼻を刺す。厚い扉を押し開けると、そこにはゴリアテが椅子に腰掛け、鎧の留め具を丹念に締めていた。革のきしむ音が静寂に混じり、試合前の緊張感が部屋を満たしている。


「調子はどう、ゴリアテ?」


 私が声をかけると、彼は鋭い眼差しをこちらへ向け、不敵な笑みを見せた。

「大丈夫に決まってるだろう。俺を誰だと思ってる」


 その声は岩のように揺るがない。私は軽く頷き、隣のニールへ視線を送る。すると、彼はにやりと口元を歪め、わざとらしく咳払いをして一歩前へ出た。

「まあまあ、お耳の穴かっぽじって聞いてくださいよ。ミハエルってやつ、槍試合って言っときながら槍は握らないんですわ。剣でちょろちょろ逃げ回って相手を疲れさせてから、異国仕込みの足技でドーンと転ばせる。で、最後にドスンと止めを刺すってわけ」


 ゴリアテは片眉を上げ、興味深げに鼻を鳴らす。

「なるほどな……じゃあ、その戦術に乗った振りでもしてみるか」


 ニールは肩をすくめ、大げさに手を振った。

「おっと、その時はぜひ派手にやってくださいよ。観客が腰抜かすくらいに」


 私は冷ややかな笑みを浮かべ、ゴリアテの肩に手を置く。

「忘れないで。侯爵家長女の目の前で、容赦なく葬るのよ」


 ゴリアテは唇の端を吊り上げ、大きく頷いた。

「任せろ。これで俺も近衛隊長様の椅子だ」


 その声には、勝利の確信と血の匂いが混じる高揚があった。私はその眼光を見て、この計画が必ず成功すると確信した。





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