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第四十二話『悲劇の宮廷コメディ』

 御前槍試合の開始三十分前。石造りの階段を上るたび、硬質な踏み面が靴底を弾き、乾いた音が冷えた空気に溶けていく。吐息は白く、頬を刺す風が容赦なく肌を撫でる。私の隣を歩くマグダレーナは無言のまま、静かな足取りを崩さない。その沈黙は、まるで嵐の前の湖面のように張り詰めていた。


 侯爵家長女イザベラと次女マリーベルが陣取る席が近づくにつれ、上段の高位貴族たちの視線が鋭利な刃となり、一瞬で私の肌を切り裂くように感じられた。すぐに逸らされるその冷淡さは、冬の風がかすめる感覚によく似ている。


 イザベラは形ばかりの笑みを浮かべ、瞳は氷の結晶のように冷ややかだった。


「まあ、ごきげんよう。御前試合の前にご挨拶とは……ずいぶんと余裕ですこと」


 穏やかな声色の奥には、確かな棘が潜んでいる。


 私は微笑を崩さず、視線を逸らさずに応じた。


「三女の姿が見えませんが、今日はご一緒では?」


 イザベラは扇子で口元を隠し、肩をわずかにすくめた。


「あの子は流行り病で臥せっておりますの。お可哀そうに」


 ――嘘ね。脳裏には、森の奥で冷たい縄に吊られるか、獣の餌となっている三女の姿がよぎる。その想像が胸の奥で黒い愉悦となってゆっくり広がった。


 私は視線をマリーベルに移し、低く囁く。


「お前は血を見ると、王にワインを渡しに行く。ただ、それだけだ」


 その一言は、確実に彼女の耳を射抜いた。


 短く会釈し、背を向けた私の耳元で、ニールの軽い声が忍び込んでくる。


「いやぁ、まるで宮廷コメディの開幕だね。ご主人が主役で、悪役は氷の姉妹コンビ。あとは毒入りワインで華々しいフィナーレ……ってやつ?」


 私は口元にかすかな笑みを浮かべ、マグダレーナへ小声で告げた。


「マリーベルが動いたら、さりげなくそのワインに毒を入れて渡して」


 マグダレーナは石像のように動かず、ただ一度だけ静かに頷いた。ニールは肩をすくめ、口笛を短く鳴らす。


「おっと、ぼくの役目は舞台袖から眺めるだけ。仕掛けはすべて、ご主人の思惑どおりに動くさ」


 胸の奥で、冷たい歯車が確かに噛み合う音が響いた。すべての駒は所定の位置につき、盤面を赤く染めるその瞬間を、静かに待ち構えていた。


 御前槍試合が始まろうとしていた。空気を震わせるような華々しいファンファーレが鳴り響き、観覧席の観客たちは一斉に立ち上がり、視線を中央の槍試合場へと注いだ。


 私は観覧席の最前列に腰を下ろし、その光景を静かに見つめていた。胸の奥がざわめき、手袋をはめた手が膝の上で自然と握りしめられる。


 まず紹介されたのは、男爵家のパラディン貴公子──ミハエル。陽光を受けて輝く金髪、澄んだ青い瞳、誰もが憧れるであろう整った顔立ち。観客席から黄色い声が飛び交い、その人気ぶりに場が一層華やいだ。


 そしてもう一人の挑戦者、巨体を誇る戦士ゴリアテ。かつては奴隷だったが、闘技場での圧倒的な戦績によって現在の地位に上り詰めた男。その鎧越しにも分かる筋肉の隆起に、観客たちは一瞬息を呑む。


 ミハエルは盛大な拍手と歓声の中、赤いバラを手に取り、観覧席へと向かってくる。その足取りには一切の迷いがなく、私の視線は自然とその先を追った。彼が向かった先は侯爵家の長女イザベラ。彼女の前に立ち、真っ赤なバラを差し出し、その手の甲に優雅に口づけを落とす。


「この戦いの後、私はイザベラ様と結ばれ、侯爵家の婿養子、そして近衛隊長となることでしょう!」


 高らかな宣言が会場に響き渡り、再び歓声が爆発した。私はその光景を見つめながら、胸の奥に冷たい感情が広がっていくのを感じる。


 一方、槍を手にしたゴリアテは、イザベラを鋭く睨みつけていた。(真っ赤なバラの代わりに、その貴公子を血に染めてやる)──その目がそう物語っていた。


 やがて試合のルールが告げられる。「参った」の一言で試合は終了。しかし成り行きで命を落とした場合、その責任は問わないという内容だ。その瞬間、場内には不安と興奮が入り混じったざわめきが走った。


 私は唇を引き結び、手元の扇を静かに閉じる。これから始まる一撃一撃が、ただの見世物ではなくなる予感がしていた。


  耳をつんざくような重低音の銅鑼が、闘技場全体を震わせた。振動が足元から伝わり、私の胸の奥まで響く。観客の熱気が一気に爆発し、声援と怒号が渦のように押し寄せた。


 ゴリアテはその巨体をゆっくりと前へ進め、地面が低く唸る。握られた長槍の先端が陽光を受けて鈍く光り、まるで獲物を狩る獣の牙のようだった。私は拳を強く握りしめ、汗ばむ手のひらに爪が食い込むのも構わずに見つめ続けた。


 ミハエルは細身の体をしなやかに動かし、金髪が光をはじくたびに優雅さすら漂わせる。彼は槍の突きを紙一重でかわし、足さばきで間合いを崩す。刃が空を切る音が耳を掠め、観客からどよめきが上がる。ミハエルの剣が閃き、ゴリアテの鎧に小さな傷を刻むたび、私は無意識に息を止めていた。


 だが、運命は急転する。金属がぶつかり合う甲高い音と共に、ゴリアテの槍の穂先が折れ飛んだ。地面に突き刺さるその音が、私の鼓膜に鋭く響く。武器を失ったはずのゴリアテは、一瞬の迷いもなくそれを放り捨てた。


 その瞬間、ミハエルの剣が真っ直ぐに突き出され、ゴリアテの右肩の下へ深く食い込む。低い唸り声が響き、巨体がわずかに揺らぐ。私は「これで終わりか」と息を呑んだ。


 しかし次の瞬間、ゴリアテの大きな手がミハエルの足首を鷲掴みにし、雷鳴のような勢いで引き倒した。視界に土煙が広がり、私は咄嗟に身を乗り出す。二人の身体が激しく地面を転がり、鈍い衝撃音が続く。


 ゴリアテは即座に覆いかぶさり、太い腕でミハエルの片腕を極めた。その腕にかかる圧力は、見ているだけで骨が軋む音が聞こえそうだった。


「くっ……!」


 嫌な音が響き、ミハエルの腕が不自然な角度に曲がる。白く輝く骨が皮膚を突き破り、鮮血が地面に滴る。観客席から悲鳴と歓声が入り混じった波が押し寄せ、私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 視線を逸らすことはできなかった。この一戦が、ただの勝敗以上の何かを意味していると、直感で分かってしまったからだ。


 ミハエルが片手で土を叩き、「参った」とでも言うように指を開いた。その指先が小刻みに震えているのを見て、普通ならそこで全てが終わるはずだと一瞬思った。


 だが、ゴリアテは止まらなかった。私は胸の奥がざわめき、冷たい波が全身を駆け巡るのを感じながら、その巨体が影を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる様を凝視していた。


 裂けかけたミハエルの腕を、あの分厚い手が無造作に掴む。ぶちぶちと肉が裂け、腱が引き延ばされる不快な音が耳を鋭く刺した。ミハエルの喉奥から低く搾り出される呻き声が響くたび、私の胸に氷のような炎が燃え広がっていく。


 彼は獲物のように引きずられ、砂を擦りながら貴族席の方へと運ばれていった。その先には、蒼白になったイザベラが石像のように立ち尽くしている。


 私は王座席から静かに唇を吊り上げ、視線で命を送った。ゴリアテがわずかに振り返り、その瞳が「やる」と無言で告げる。


 瞬間、節くれだった指がミハエルのこめかみに深く食い込み、皮膚の下で骨を押し潰す感触が、まるで私の掌にも伝わってくるかのようだった。めきめきと骨が軋む音が観客席にこだまし、空気が凍り付く。


「やめてぇーーー!」


 イザベラの悲鳴が鋭く空気を裂く。直後、ぬちゃりと湿った音が響いた。頭蓋は無残に沈み込み、鼻から上が潰れた皮袋のように変形する。眼球がだらりと垂れ、灰色の脳が温かい飛沫となって床に散った。


 血と脂、脳漿が混じった生臭い匂いが立ち上り、喉奥に鉄の味が広がる。観客席では悲鳴が飛び交い、顔を覆う者、声を失って固まる者が入り混じる。


 私はその全てを視線の奥で貪るように見届け、胸の底に広がる冷酷な達成感と、甘く痺れるような昂揚を深く噛みしめていた。



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