第三十九話『毒薬の使い道』
昼下がりの陽光が、重厚なカーテンの隙間から細い筋となって差し込み、私の執務机の上に淡く伸びていた。
室内は静寂に包まれ、わずかにインクと古い紙の匂いが漂っている。その静けさが、これから仕掛ける計画の重みをいっそう強く感じさせた。
私は机の引き出しをゆっくりと開け、小さな銀の小瓶を取り出す。中には、かつて侯爵家三女シャルロッテに使うはずだった毒薬の残りが、透明な液体となって揺れていた。
陽の光が反射して、まるで氷の刃のような冷たい輝きを放つ。それを見つめながら、胸の奥に静かだが鋭い熱が灯るのを感じる。
私は唇の端をわずかに持ち上げ、卓上の小さな鈴を鳴らした。高く澄んだ音が室内に響き、すぐに扉が静かに開く。
軽やかな足音とともに、ニール=スティッチが姿を現した。
「お呼びですか、ご主人様?」
その声は、いつものように軽く冗談を含んだ響き。私は椅子から立ち上がり、小瓶を指先で転がしながらゆっくりと彼の方へ歩み寄る。
「ニール。侯爵家に忍び込んで、次女マリーベルの寝室にこれを置いてきなさい。見つけられにくい場所に、気づかれぬように置くのよ」
わざと間を置き、じっと彼の目を覗き込みながら低く言葉を重ねる。
「できるかしら?」
ニールは片眉をわずかに上げ、口角をゆっくりと吊り上げた。
「ご主人様……私が誰だかお忘れですか? ご主人様の使い魔ですよ。そんなの、朝の散歩より簡単です」
私はその軽口に薄く笑みを返す。
「じゃあ、その簡単な仕事を、完璧にやってきなさい」
「もちろんです。私に任せてください。爪の先ほどの痕跡も残しません」
彼はそう言って、深く頭を下げ、小瓶を丁寧に受け取った。その瞬間、瓶の中の液体がわずかに揺れ、光がきらりと瞬いた。
なぜか空気が一瞬、冷たい刃で撫でられたように感じる。
私が瞬きをした次の瞬間には、ニールの姿は影も形もなくなっていた。
残されたのは、カーテンをわずかに揺らす風の気配だけ。
私は机に戻り、ゆっくりと腰を下ろす。指先で鈴を弄びながら、瞳の奥には氷のような光が宿っていた。
(これで、盤石の布石は打たれたわ。あとは駒が動くのを待つだけ)
静まり返った部屋に、私の胸の内だけが、鋭く燃えていた。
ニールが消えた後、部屋には再び静寂が戻った。カーテンの隙間から差し込む光は、さきほどよりも角度を変え、床に長く伸びる影を作っている。空気はひんやりとして、外から聞こえるのは遠くの衛兵の足音と、かすかな鳥の声だけだった。
私は机に肘をつき、ゆっくりと鈴を鳴らした。澄んだ音が室内に溶け込み、やがて扉が静かに開く。
マグダレーナが入ってきた。背筋を真っすぐに伸ばし、無駄のない動きで私の前に立つ。その表情は石像のように冷たく、感情の影は一切見えない。
「ご用でしょうか、王女殿下」
抑揚の少ない低い声。私は椅子から立ち上がり、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「マグダレーナ。城内に少し風を流したいの」
彼女の瞳がわずかに細められる。私は机の端に手を置き、ゆっくりと歩みを進めながら続けた。
「侯爵家の三姉妹とレオンハルト……あの連中が、メイド絡みの醜聞を抱えているという話よ。あくまで噂に見せかけ、しかし確実に人々の耳に残すの」
マグダレーナは微動だにせず、わずかに首を傾げた。
「内容は?」
私は口元に笑みを浮かべ、低い声で囁くように言った。
「こう広めるのよ──『あの三姉妹は、気に入らない女中やメイドを拷問し、レオンハルトの性のはけ口に斡旋する女衒だ』と。真偽なんてどうでもいい。人の口は、勝手に尾ひれをつけるものよ」
その言葉を口にすると、部屋の空気がわずかに冷えた。マグダレーナの瞳が、薄暗い光を宿す。
「承知いたしました。発信源を悟られぬよう、複数の経路を使って城中に流します。侍女たち、下働き、兵舎……すべてに浸透させましょう」
私は満足げに頷いた。
「ええ、それでいい。夜が明ける頃には、この城のあらゆる隅でこの話が囁かれているように」
「御意」
短く、力強い返答。マグダレーナは深く頭を下げると、影のように音もなく部屋を後にした。
扉が閉まると、再び静寂が戻る。私は椅子に腰を下ろし、指先で鈴を弄びながら心の中で呟いた。
(これで、さらに盤は整った……あとは崩れる瞬間を待つだけ)
窓の外、傾いた陽が城壁を赤く染め、長い影がゆっくりと敷石を覆っていった。
■
夜の帳が城を包み、蝋燭の炎が私の執務室を淡く照らしていた。窓の外では、風が木々の枝を揺らし、微かなざわめきが響いている。その音さえも、今の私には心地よい舞台の幕開けのように思えた。
机の上には、地図や書簡、密かに集めた証拠品が整然と並べられている。侯爵家や宮廷の関係図が線で結ばれ、その中心にはレオンハルトの名が赤いインクで書き込まれていた。彼を追い詰めるための道筋は、すでに私の中で幾重にも描かれている。
私はペンを置き、椅子にもたれながら深く息を吐いた。そして、ふと唇の端がゆるむ。
「……レオンハルトに会わないとね」
その声は自分でも驚くほど静かで、しかし底に鋼のような決意と冷たい愉悦が混じっていた。頭の中では、彼の表情が浮かぶ。困惑、恐怖、そして抗いきれぬ屈辱——それらを一つずつ味わわせる日が近い。
指先で机の端を軽く叩く。蝋燭の炎が揺れ、その光が私の頬を照らし出す。鏡の中でその顔を見れば、間違いなく微笑んでいるはずだ。それは人に向けられる温かさではなく、獲物を前にした捕食者の笑みだった。
(すべては地獄への案内状……逃げ道など与えない)
翌日の昼、私は部屋の扉を開け、ゆっくりと廊下へと歩み出た。陽光が差し込む回廊を進むたびに、胸の奥の炎は静かに、しかし確実に燃え上がっていった。
レオンハルトの謹慎部屋は、金銀の装飾が施された家具や絹張りの椅子が並び、見た目は豪奢だが、漂う空気は淀みきっていた。厚手のカーテンが昼の光をほとんど遮り、薄暗い室内には重苦しい匂いが漂っている。部屋の隅には未開封のワイン瓶が転がり、椅子や床には脱ぎ捨てられた衣服が無造作に散らばっていた。
私は扉の前に立ち、軽くノックをしてからゆっくりと開ける。蝶番の軋む音とともに入った瞬間、椅子にふんぞり返っていたレオンハルトがこちらを振り向き、顔を真っ赤に染めた。
「……何しに来た」
吐き捨てるような声。瞳には怒りと苛立ちが混じり、拳は机の上で固く握られている。
「お前のせいで、俺はこんな目に遭ってるんだぞ!」
机を叩く音が響く。言葉には恨みとプライドの傷が滲んでいた。私は黙ってその怒声を受け流し、一歩、二歩とゆっくり歩み寄る。
「私が来たのは──」
囁くような声と同時に、私は左眼を発動させた。冷たい光が視界を満たし、レオンハルトの瞳が驚きで大きく見開かれる。その表情が一瞬固まり、やがてその光は瞳から意志を抜き去り、虚ろな色に染めていった。
「……な、何を……」
かすれた声を最後に、彼の肩の力が抜け、怒りの色は跡形もなく消えた。代わりに、糸の切れた人形のような従順さが全身を包み込む。
「ご命令を……殿下」
さっきまでの攻撃的な声音は消え、滑らかで低く、私の耳に心地よい響きに変わっている。
(やはり……性欲にまみれ、自己中心的な輩ほど操るのは容易い)
私は静かに微笑み、机の引き出しからペンと革張りのノートを取り出して差し出した。
「これに、私が言う通りのことを書きなさい。……これは、あなたのためでもあるのよ」
「はい……殿下」
彼は迷いもなく頷き、ペンを握る。その手つきには先ほどの荒々しさはなく、しっとりとした従順さだけが残っている。ペン先が紙を走り出すと、部屋の空気はさらに重く、そして私の支配の色に濃く染まっていった。




