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第三十八話『罠にかかった獅子』

 寝室には重苦しい静けさが漂っていた。厚手のカーテンの隙間から差し込む月明かりが、床に淡く揺れる影を落としている。私はベッドの端に腰掛けるフリードリヒを見つめた。かつての精悍な面影は薄れ、そこにあるのは疲弊しきった男の顔だった。


「来月、御前槍試合が決まった」


 その声は低く、かすれていた。勝利を誇る王子の響きではなく、重い倦怠を引きずった声音だ。


「ゴリアテの相手は……やはりミハエルだ」


 私は瞬きもせず聞き入る。予定通りだ。しかし、それは同時に、計画の終盤戦が迫っていることを告げていた。


「老齢の近衛隊長が辞退した。代理を立てる。代理が勝てば現状維持だが……負ければ王がゴリアテを近衛隊長に据えると認めた」


 淡々と説明する彼の肩は、言葉を紡ぐたびに僅かに落ちていく。視線を向けた私は、思わず息を呑んだ。三十代半ばのはずの顔は、五十代後半にも見えるほどやつれ、目の下には濃い隈、頬は削げ、皮膚は乾ききっている。


 ――サキュバスに精気を奪われている。


 確信めいた考えが胸を刺す。このままでは彼は後ろ盾としての力を失い、私の計画は根底から揺らぐだろう。


「……急がなければ」


 思わず零れた呟きに、フリードリヒは反応しない。ただ薄く笑みを浮かべ、窓の外の赤く染まった月を見上げていた。胸の奥で、焦燥がじわじわと熱を帯びていくのを感じた。



 夜風が薄いカーテンをやさしく揺らし、テラスの欄干に置かれたワイングラスが月明かりを受けて淡く煌めく。庭の奥からは、小さな噴水が絶え間なく水音を立て、その音が私の思考を深く沈ませていた。冷えた夜気が頬を撫で、葡萄酒の芳醇な香りが鼻腔に満ちる中、私は一人、計画の次の一手を頭の中で繰り返し描いていた。


 その静寂を破るように、背後から規律正しい靴音が近づく。重く、しかし迷いのない足取り――マグダレーナだ。


「……殿下」


 低く押し殺した声とともに、彼女の腕に抱かれて現れたのは、泣きじゃくる少女だった。ソフィア――私が王女として伴ってきた女官。その姿は見る者の胸をえぐる。乱れた亜麻色の髪が涙で頬に張り付き、腫れぼったい瞳からはまだ光が失われきっていない。頬には乾きかけの涙の跡が細い筋を作り、薄布の袖は無惨に裂け、肩口から白い肌が覗いていた。その生々しさが、つい先ほどまでの惨事をありありと物語っている。


 マグダレーナは無言で私の前まで進み出て、ソフィアをそっと立たせた。少女の肩は小刻みに震え、吐息は途切れ途切れだ。夜気よりも冷たい怒りが、私の胸の奥を鋭く掻きむしった。


 ソフィアはマグダレーナの腕から離れ、よろめくように私の前へ進み出た。月明かりが彼女の顔を照らし、その蒼白さと、噛み切られた唇の赤が際立つ。亜麻色の髪は乱れ、涙で濡れた頬には生々しい傷跡が見えた。


「……レ、レオンハルト殿下の……別荘に……誘われて……」


 声は途切れがちで、夜気の中にかすかに震えて響く。


「……別荘に行こうと言われて……そこで……嫌がる私を乱暴して……用が済むと……外に……置き去りに……」


 すすり泣きに飲まれた最後の言葉は、しかし十分に意味を伝えていた。マグダレーナは無言で彼女の肩を支え、私を見据える。その視線には、怒りと無言の訴えが混ざっていた。


「殿下……この事、どうなさいますか」


 私は短く息を吐く。胸の奥に冷たい確信が広がった。――獲物が、自ら罠に足を踏み入れたのだ。


 だが、その瞬間、胸の奥で疼く古傷が疼いた。あの日、私はレオンハルトに市場で甘い言葉を囁かれ、油断して別荘へ足を運び、そして無力にベッドに押し倒され、処女を奪われた。窓から差し込む夕陽の色、耳元で響いたあの嘲り笑い、そして身体を貫く痛みと絶望――全てが鮮やかに蘇る。あの時の屈辱と恐怖、そして何もできなかった自分の悔しさが、今のソフィアの姿と重なった。


 ――同じだ。あの男は、変わっていない。


 この事実は計画にとって最高の好機だ。しかし、心を満たすのは歓喜ではなく、凍りつくような怒りだった。


「……必ず、後悔させる」


 低く呟いた声は、自分でも驚くほど冷ややかだった。握りしめたワイングラスの脚が、ぎり、と音を立てる。月光は私の眼差しを鈍く反射し、復讐の炎を静かに燃やし続けていた。


 テラスに吹き込む夜風が、蝋燭の炎をゆらりと揺らした。その薄明かりの中で、私はマグダレーナをまっすぐに見据える。彼女の瞳は、何かを察したように静かに細められていた。


「……女官や従者のおしゃべりな連中に、この話を広めろ。おひれをつけても構わない。いや、つけろ」


 低く、噛みしめるような声で告げる。言葉の先には、冷たい鋼のような意志が滲んでいた。マグダレーナは眉一つ動かさず、ただ一歩、私に近づく。


「承知いたしました」


 その声音は氷の刃のように短く、確信に満ちていた。彼女は命令の意味を完全に理解している。噂は刃物だ。使い方ひとつで相手を血まみれにできる。


 私は小さくうなずくと、視線を夜空へと向けた。雲の切れ間から月が顔を覗かせ、銀色の光がテラスの石畳を染める。その光景が、これから広がる炎の前触れのように見えた。


「静かに、だが確実に……燃やせ」


 私の言葉に、マグダレーナは口元に微かな笑みを刻む。その笑みは、感情を持たぬ人形のようでありながら、内に潜む冷徹な情熱を感じさせた。


「ええ、殿下。必ずや、跡形もなく」


 その瞬間、夜の空気がひやりと冷たく感じられた。炎はまだ見えない。だが、もうすでに油は注がれている。


 王宮の長い廊下を歩くたび、耳に入る囁きが、まるで毒の蔓のように形を変えて絡みついてくる。


 最初は「殿下が別荘で女性を泣かせたらしい」という控えめな噂だった。だが数日も経たぬうちに、その色は濃くなり、「殿下は女官を弄び、捨てた挙句に嘲笑った」という残酷な物語へと膨れ上がっていた。


 女官たちは茶の席でわざと声を潜め、しかし確実に耳に届く距離で笑いを混ぜる。従者たちは詰所で、「あれは殿下の趣味だ」「いや、もっと酷いことを――」と互いに尾ひれを競い合う。中には、身振り手振りを交えて“再現”する侍女まで現れ、その滑稽さと生々しさに周囲は眉をひそめている。


 私は廊下の奥から、そのさざ波のような囁きを拾い集め、心の中で順序立てていく。


 ――噂は、真実よりも速く走る。感情を揺さぶるほどに、尾ひれは華やかに、そして容赦なく成長する。怒りを帯びた言葉は笑い話以上に鋭く、人の心に突き刺さるのだ。


 いい。実にいい流れだ。


 まだ公然と殿下を非難する者はいない。だが、笑いと怒りが入り交じるこの空気は、評判をじわじわと腐らせる毒そのもの。閉ざされた宮廷という器の中、一度混ざった毒は逃げ場を失い、濃度を増してやがて致命的に彼を蝕む。


 私は窓辺で足を止め、庭園に視線を投げた。陽光に映える花々のように、噂は鮮やかに根を張り、密やかに広がっていく。


 唇に浮かんだ笑みは、自分でも抑えられなかった。


 ソフィアが受けた屈辱を知った瞬間、胸の奥で氷のような怒りが固まった。鉄は熱いうちに叩くべき――その思考が、全身を駆け巡る。迷いは一切なかった。


 私はすぐにフリードリヒの執務室へ向かった。扉を開け放ち、低い声で告げる。


 「殿下、今すぐ王への謁見の手筈を整えていただきます」


 椅子に腰掛けていたフリードリヒは、わずかに瞬きをしただけで、抵抗の色を見せなかった。もはや彼は、私の言葉に逆らうことのできない“操り人形”だ。その瞳の奥に浮かぶのは、迷いではなく、私の意志をそのまま実行する覚悟。


 「分かった……すぐに段取りを付けよう」


 その声は低く、だが従順だった。私は彼の返答を確認すると、さらに付け加える。


 「糾弾の場には、できるだけ多くの耳を集めてください。宮廷で働く者たち――侍女も従者も兵も、皆が聞けるように」


 フリードリヒは一瞬だけ口角を上げ、頷いた。彼もまた、この機会の意味を理解している。レオンハルトの評判を、ただ地面に落とすのではない。人々の前で叩き潰し、二度と拾い上げられぬようにするのだ。


 その夜までに、彼は私の望んだとおりの場を整えてくれた。玉座の間は普段よりも多くの者で満たされ、囁きと視線が交錯する。そのざわめきは、これから始まる“公開処刑”の前触れのように、空気をじりじりと熱くしていた。


 私はゆっくりと立ち上がり、深く息を吸い込む。舞台は整った。あとは、刃を振り下ろすだけだ。



 玉座の間に向かう廊下は、朝の光を受けて淡く輝き、しかし私の胸中は冷えたままだった。歩みはゆっくりと、しかし迷いはない。今日の糾弾は、ただ感情をぶつけるだけでは終わらせない――そのための準備は、すでに整えてある。


 足音が石床に響くたび、私は頭の中で計画を繰り返す。レオンハルトの反論を封じるための質問、答えれば自ら矛盾を晒すような巧妙な問い。加えて、彼の行いを裏付ける証言者も、すでに控えさせてある。王宮の女官の一人、そして別荘近くの従者――いずれも口は軽くないが、私に恩を負っている者たちだ。


 廊下を抜ける直前、背後からフリードリヒの視線を感じた。彼の存在は、私にとって政治的な盾であり、同時にこの場を仕切るための切り札でもある。王太子の後ろ盾を得た上での糾弾――その意味を、レオンハルトも理解せざるを得ないだろう。


 扉の前で一度だけ深く息を吐く。感情に任せて怒鳴るのではなく、冷徹に、逃げ道を与えず、退路を断つ。その方が、彼にとっては何倍も恐ろしいはずだ。


 私は静かに扉を押し開け、玉座の間へと踏み入れようとする。きっと視線が一斉に私へと注がれるだろう。私は胸の奥で小さく決意を呟く――これは罠ではない、処刑の舞台だ。


 やがて、重厚な扉が音を立てて開く。玉座の間は静寂に包まれ、陽光が高窓から射し込み、床に長い影を描く。その中心、絢爛な玉座に腰掛ける国王が、重々しい視線を場全体に放っていた。


 私はゆっくりと進み、フリードリヒの気配を背に感じながら、視線を正面に据える。左右に並ぶ貴族たちは、息を呑んだまま私の一歩一歩を見つめ、囁き声が水面下で交わされている。


 やがて、私の視線はレオンハルトを捕らえた。彼は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに薄笑いを浮かべる。しかし、その口元の硬さと瞳の奥の焦りを、私は見逃さない。


「陛下。この場で、王女の名を汚し、忠実な女官を辱めた者の行いについて、申し上げるべきことがございます」


 私の声は静かだが、空気を切り裂くように響いた。場内の視線が一斉に私とレオンハルトを行き来し、緊張が高まる。


 「ソフィアは、私が王女として連れてきた女官です。その彼女を、殿下は別荘へ誘い、乱暴し、用が済むと捨て置いた――これは事実でございます」


 ざわめきが走り、数人の貴族が顔を見合わせる。国王の瞳が鋭く光り、レオンハルトを射抜く。その瞬間、私は背後のフリードリヒの気配をさらに強く感じ、口元に冷ややかな笑みを宿した。これは第一手――ここから、彼の評判を根底から崩していくのだ。


 玉座の間には、怒りと嘲笑が入り混じった声がこだましていた。私の告発は、宮廷の空気を一変させたのだ。あちこちから「恥さらしめ」「王家の面汚し」といった罵倒が飛び、レオンハルトの顔色は蒼白に沈んでいる。


 私は玉座に座す王を見据え、次の言葉を待った。場のざわめきが薄れていく中、王はゆっくりと口を開いた。


 「……お前の顔は、しばらく見とうない。命があるまで、自室で謹慎しておれ」


 低く響くその声は、玉座の間全体に重くのしかかる。レオンハルトは唇を噛み、何も言い返せずに深く頭を垂れた。


 私はその様子を、冷ややかな眼差しで見つめながら、胸の奥で別の炎を燃やしていた。これで第一段階は終わり。だが、これはまだ序章にすぎない。


 ――反逆者として、処刑台に立たせる。その絵図を描き切るまで、決して手を緩めない。


 頭の中では、次なる一手が静かに組み上がっていく。謹慎中の彼に、どのような罪を着せ、どのように証拠を積み上げるか。忠実な駒を動かし、噂と事実を巧みに織り交ぜ、逃げ場のない罠を完成させるのだ。


 玉座の間を包む張り詰めた空気の中で、私はただ一人、冷静に未来の処刑の光景を思い描いていた。





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