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第三十五話『サキュバスの誘い』

 王宮の一角にある、王の側室のために用意された広々とした部屋は、夜の静けさに包まれていた。本来なら王の寵愛を受けるための場所だが、婚姻式の初夜を境に、フリードリヒは私と寝所を共にしなくなり、その結果、この部屋は私専用の自室として使われるようになった。望んで得たわけではないが、計画を進める上では好都合な状況だった。


 天蓋付きの寝台からは淡い香が漂い、壁の燭台が柔らかな光を放って鏡台に座る私を照らす。ゆっくりと髪を梳かしながら、鏡越しに自分の瞳を見つめる。あの婚礼の晩から、彼の心にはすでに「守らねばならない」「愛おしい」という感情の種が植え付けられている。左眼の幻惑と、淫魔を封じた黒曜石の指輪が、その芽を静かに育て続けていた。


 指先で指輪をなぞると、石の奥からわずかな温もりが伝わってくる。それは獲物を前にした肉食獣の心音のように、確かな鼓動を刻んでいた。


「来るのは時間の問題だわ」


 その言葉は、氷に包まれた甘露のように艶やかで冷ややかだった。


 窓際ではニールが美青年の姿で腰を下ろし、月明かりを背にして愉快そうにこちらを眺めている。その端整な顔には、余裕と期待の入り混じった笑みが浮かんでいた。


「ご主人様、魚は釣った後こそが肝心ですよ」


 私は鏡越しに彼へ視線を送り、口元をわずかに吊り上げる。


「ええ、今回は決して逃さないわ」


 燭台の炎がゆらりと揺れ、部屋の空気は一層濃く、重みを帯びた。夜はこれから深まり、仕掛けた罠が動き出す瞬間は、確実に近づいていた。


 夜更け、王宮の廊下を渡る柔らかな足音が近づき、静まり返った室内に控えめなノックが響いた。燭台の炎がわずかに揺れ、長く伸びた影が壁に歪んで這う。


 ニールは反射的に美青年の姿から黒猫へと変化し、滑るような動きでクローゼットの陰に身を潜めた。その青い瞳が暗闇の中できらりと光り、訪問者を観察する。


 私はゆっくりと椅子から立ち上がり、扉へと歩み寄った。金属の取っ手はひやりと冷たく、わずかな緊張が指先に走る。静かに扉を開けると、そこにはフリードリヒが立っていた。


 彼は淡く酒の香りを漂わせ、端正な顔をこちらに向けながらも、視線はほんの少し逸らされていた。金色の瞳の奥で、躊躇と何かを押し殺すような感情がかすかに揺れている。


「……ちょっと、話がしたくなってな」


 低く抑えた声が、冷えた廊下の空気と共に流れ込む。私は表情を崩さず、唇にうっすらと笑みを刻み、一歩下がって道を開けた。


「どうぞ、お入りくださいませ、殿下」


 フリードリヒはわずかに頷き、重厚な足取りで室内に入った。燭台の明かりがその横顔を金色に染め、影が床に揺れる。私は背後の椅子を指し示し、ゆったりとした声で続けた。


「お座りになってください。……お話を伺いましょう」


 声の奥には、ただの招待ではない、微かな支配の色が混じっていた。


 「いや、それと言った話ではないのだが」


 フリードリヒがそう口にした瞬間、私は確信した。――これは、私を求めている証だ。話など所詮は口実。その視線の奥に潜む熱は、隠すどころか今にも溢れ出しそうだった。


 私は机の端に置いた黒曜石の指輪へ、ゆっくりと指先を滑らせる。冷たい石の感触が皮膚を這い、その奥に封じられた異様な鼓動が脈を打ち、指先から胸の奥へと侵入してくる。左眼をわずかに細め、真正面のフリードリヒを射抜くように見据えた。


 視線が絡んだ瞬間、彼の金色の瞳が淡く霞み、焦点が溶けるように揺らぐ。その刹那、彼の世界から“私”が消え、そこに立っていたのは艶美な笑みを浮かべる“淫魔サキュバス”だった。


 月明かりが薄く差し込む室内で、サキュバスの輪郭がゆらめきながら形を成す。柔らかな曲線は闇に溶け込むようでありながら、そこから漂う熱は肌を刺す刃のように鋭く、男の理性を容赦なく削り取る。


 背から伸びる漆黒の翼は、羽一枚ごとに夜の闇を掬い取ったような艶を放ち、ゆるやかに動くたび空気が甘く震える。腰のくびれは指でなぞりたくなるほど滑らかで、そこから続く脚は熟れた果実のように豊かな曲線を描き、わずかな膝の動きでさえ挑発的だ。


 腰まで届く深紅の髪は、月明かりを孕んで濡れた絹のように輝き、振るたびに薔薇の花びらが散る幻を見せる。紅い瞳は深淵そのもので、視線を交わせば甘美な奈落へ引きずり込まれる錯覚を覚える。そこには陶酔と破滅が等しく宿っていた。


 胸元を覆うのは、かろうじて形を保つ薄布だけ。そこから覗く肌は雪のように白く、触れれば壊れてしまいそうな儚さを纏いつつ、同時に男を支配する力強さを放っている。唇は熟れた果実のように艶やかで、ほんの少し上がった弧が甘く冷たい嘲笑を刻んでいた。


 長くしなやかな指先は黒曜石の光沢を帯び、空をなぞるたび甘く濃い香りが漂う。その香りは肺の奥にまで染み込み、全ての理性を溶かしていく。


 それは淫魔の本質――美と恐怖、渇望と破滅を同時に孕み、抗う間もなく心と体を呑み込む、闇の化身だった。

 月光に濡れる滑らかな曲線。背からしなやかに広がる漆黒の翼。腰まで流れる深紅の髪が夜気に揺れ、紅玉のような瞳が妖しく輝く。その視線ひとつで、男の理性を容易く焼き尽くす熱を帯びていた。


「ふふ……今宵、その男の精力、たっぷりいただくわ」


 艶やかで甘い、しかし背筋に冷たい電流を走らせる声。その声は私にだけ届く。私は唇の端をゆっくりと吊り上げ、応じる。


「好きにすればいいわ。ただし、私の駒として仕上げることを忘れないで」


 サキュバスは艶やかに笑い、紅い瞳をフリードリヒに絡ませる。彼はまるで夢の中にいるように瞬きもせず、その姿を凝視していた。指輪の奥底で淫魔の力が蠢き、彼の心と肉体を確実に私のものへと変えていく――私はその感触を、ぞくりとするほど鮮明に感じ取っていた。


 寝室の扉が静かに閉じられた瞬間、空気は一気に粘りを帯び、外界から切り離されたような密やかな空間が広がった。


 やがて、ベッドの軋む音が低く響き、断片的な息遣いが交差する。最初は慎ましく押し殺された呼吸が、時を追うごとに熱を帯び、艶やかに湿り、部屋の温度を上げていく。


 クローゼットの陰、黒猫の姿をしたニールが金色の瞳を細め、尻尾をゆるやかに左右へ揺らした。


「ふふ……これは、しばらく続きそうだ」


 愉悦と冷静な観察者の視線が、その声音に混ざっていた。


 時間の経過とともに、フリードリヒの声は甘く蕩け、言葉という形を失い、ただ余韻だけを残す吐息に変わっていく。全身から力が抜け、抗う意思はすでに霧散していた。


 ベッド脇で、サキュバスが紅い瞳を細め、白くしなやかな指先をフリードリヒのこめかみにそっと置く。指先からは熱がじわりと流れ込み、彼の精神深部に、甘く絡みつく鎖のような刻印を焼き付ける――


「この女なしでは、生きられない」


 その囁きは声ではなく感覚として、彼の意識を満たし、逃れられぬ執着へと変わった。


 フリードリヒの瞼は重く閉じられ、頬にうっすらと紅潮が差す。その姿を、セリーヌは静かに見下ろし、勝者の余裕を漂わせる微笑を浮かべた。


 計画の歯車は、確実に音を立てて動き出していた。


 やがて、寝室の扉が静かに開き、そこから現れたフリードリヒは、髪も服も乱れ、頬は上気し、どこか力の抜けた足取りで歩み出てきた。


 瞳はまだ焦点を定めきれず、唇には夢見心地の笑みが浮かんでいる。まるで甘い幻覚の余韻に溺れたまま、現実へと戻ってきたようだった。


「エミリア王女よ……君は最高だ」


 低く掠れた声が、空気を震わせる。


「また……明日来てもいいか?」


 セリーヌは椅子に腰掛けたまま、ゆるやかに立ち上がり、静かに歩み寄る。指先で彼の胸元をなぞると、妖艶な微笑が唇に浮かんだ。


「もちろんですわ、殿下」


 その声は、柔らかくも底知れぬ支配を孕んでいた。


「好きにされて構いません。だって……私はあなたの妃ですから」


 わずかに首を傾げ、視線を絡め取る。


「明日は……もっと激しく楽しみましょう」


 その囁きは、熱を帯びた刃のようにフリードリヒの胸を貫き、心の奥底に新たな欲望と依存を刻みつけた。彼の運命が、完全にセリーヌの手の中に落ちた瞬間だった。


 王女の自室の扉が、静かに音を立てて閉じた。


 私は、わずかに熱を帯びた空気と甘い残り香の中で、ゆっくりと息を吐く。部屋の灯りは金色の薄膜を張り、壁を滑る影がゆらめく。その微かな揺れが、今しがたの光景を鮮明に呼び起こす。唇に残る柔らかな余韻と、指先に残った儚い温もりが、すべてを物語っていた。


 ふと視線を巡らせると、クローゼットの陰から黒猫の姿をしたニールが音もなく現れる。漆黒の毛並みが光を吸い込み、琥珀色の瞳が愉快そうに光った。


「……駒は、これで二つ目」


 私は静かに告げる。


「一つ目はソフィア。そして二つ目がフリードリヒ。これでレオンハルトを追い込める」


 その言葉には、冷たい鋼の芯と、燃えるような決意が混ざっていた。盤上に石を置くような確信と、獲物を仕留める刹那の高揚。


 ニールは尾をゆったりと揺らし、「これで王女様の包囲網も、だいぶ狭まってきましたね」と、からかうような声音で言った。


「ええ……後は詰めるだけよ」


 私が微笑むと、ニールの瞳はさらに細まり、捕食者が獲物を待つときの甘美な余裕を帯びた。


 これでフリードリヒは完全に私の手の中。糸は深く絡みつき、逃げる意思すら奪った。盤上の駒も、最初に抜き取った牙も、すべては私の指先の動きひとつで命運を決する――。



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