第三十六話 『二本の刃──近衛隊長と女官長』
あれから毎晩、フリードリヒは私の自室を訪れるようになった。
王城の回廊に並ぶ燭台が揺れる影を壁に落とし、その向こうから近づく足音は、もはや夜の定刻を告げる鐘のように正確だった。扉が静かに開くと、金糸の髪を揺らした彼が現れる。その青い瞳には、抗う意思などとっくに消え失せている。
サキュバスとしての力と、私の左眼に刻まれた依存の印。その二つが絡み合い、彼の理性をじわじわと侵食していった。最初は王子としての威厳を保とうと努めていた彼も、今では私を求めるだけの囚人と化し、甘い牢獄に自ら閉じこもっている。
今宵も、行為を終えたフリードリヒはベッドの上で大きく息を吐き、蕩けた笑みを浮かべていた。額に貼り付いた金髪、熱を帯びた潤んだ瞳。その表情には王族としての影はなく、一人の男として私に縋りつく姿だけがあった。
「今夜も、離したくない……」
掠れた声で囁く彼の頬を、私は指先でそっとなぞる。その瞬間、彼は目を細め、安堵の吐息を漏らした。けれど私の胸にあるのは、愛情ではなく冷ややかな計算。
「そのまま、ずっとここにいればいいわ」
柔らかな声色の奥に潜む棘を、彼は知る由もない。私の望みは、愛でも情でもなく、あなたという“駒”を完全に掌握し、盤上に置き続けること。それこそが、私の勝利への道筋だから。
行為の余韻がまだ室内に漂っていた。薄闇に包まれた自室、開け放たれた窓から忍び込む夜風が、カーテンを静かに揺らす。ベッドの上で、フリードリヒは目を閉じ、深い呼吸を繰り返している。額に貼り付いた金の髪が汗に濡れ、光を吸って鈍く輝いていた。
私は枕元に身を寄せ、指先で彼の頬をそっと撫でる。その温もりを確かめるように、ゆったりとした動作で。
「ねえ、フリードリヒ……」
囁くように声を落とすと、彼は半ば夢の中のようなとろんとした眼差しを向けてきた。抗う気配など、微塵もない。
「お願いがあるの」
私は彼の耳元に唇を寄せ、ゆっくりと、ひとつずつ言葉を落としていく。
「ゴリアテを……近衛隊長に推挙してほしいの」
わずかに眉が動いたが、私は続けた。
「あの人は私の盾になる。武力で守る者が、この国でもっとも強い地位にいれば……私たちに刃向かう者は減るでしょう?」
言葉の端に柔らかな笑みを乗せたまま、もう一つの願いを告げる。
「それと……マグダレーナを女官長にしてほしい」
今度は瞼の奥に一瞬の思案が見えた。私はその視線を逃さず、さらに低く囁く。
「あの人は私の目と耳になるわ。情報は剣より鋭いもの……そうでしょう?」
フリードリヒの喉が、ゆっくりと上下した。答えを迷っているのか、それとも私の言葉を噛み締めているのか――どちらにせよ、この空気の中で否定はしづらい。
私は指先で彼の唇をなぞり、優しく微笑んだ。二人がその地位につけば……盤は整うわ。あとは、駒を進めるだけ。
フリードリヒは、しばらく無言のまま天蓋越しの暗がりを見つめていた。やがて、重たげにまぶたを持ち上げ、私へと視線を向ける。その瞳には、まだ甘い熱が残っているが、現実の硬さが徐々に滲み始めていた。
「……マグダレーナの件は、なんとかなるだろう」
低く、確信を含んだ声だった。女官長の任命は彼にとって大きな障害ではないのだと、その響きが物語っている。
けれど、次の言葉には一拍の溜めがあった。
「だが、ゴリアテを近衛隊長に据えるのは……容易くはない」
私はゆっくりと首を傾げ、続きを促すように彼の瞳を覗き込む。
「この国では、血筋より腕だ。王の面前で槍試合に勝たねば、その座は得られん」
その言葉には、この国の誇りと掟が滲んでいた。華やかな宮廷の陰に潜む、武の力を何より重んじる鉄則――それが、彼の口から語られると一層の重みを帯びる。
私はわずかに視線を伏せ、考え込むふりをした。だが、胸の奥では確かな自信が灯っている。
──槍試合なら、ゴリアテは必ず勝てる。
闘技場で幾多の強者を屠り、生き延びてきた男だ。王の前であろうと、その槍が鈍るはずがない。
私は口元にわずかな笑みを忍ばせ、フリードリヒの頬へと指先を伸ばす。その温もりを感じながら、心の中で舞台の輪郭を描く。答えは、もう決まっている。あとは、その瞬間を引き寄せるだけだ。
私はフリードリヒの手を、愛おしい宝物を撫でるようにそっと包み込んだ。淡い蝋燭の光が、絡み合う指の影を壁に揺らめかせる。
「この二つの座が揃えば……殿下のお立場も、盤石ですわ」
耳元に落とした囁きは甘く、肌をかすめる風のように優しい。それでいて、その奥には鋼のような意志が潜んでいる。私が欲するのは飾りではない。ゴリアテの武力、マグダレーナの情報網——その二つが揃えば、盤は完全に整うのだ。
フリードリヒはふっと笑みを浮かべ、満足げに頷いた。
「……確かに、それならば余の立場も揺るがぬ」
その瞳には疑いの色はなく、自らを勝者だと信じ切った光が宿っている。だが、彼は知らない。この国において、もともと彼に敵など存在しないことを。いるとしたら、病床の身の王妃。だが、今のところさしたる動きは見せていない……いつの間にか、私の言葉が“仮想の敵”を作り上げ、それを信じ込ませているのだ。
私はその幻想を壊すつもりはなかった。むしろ、さらに深く根付かせるために柔らかな微笑を見せる。
だが、その笑みの奥では、冷たい計算が静かに脈打っている。
──殿下、駒はもうあなたの手を離れ、私の盤上にあるのですよ。
フリードリヒが部屋を去り、扉が静かに閉じると、暖炉の残り火がわずかに揺れ、部屋は静謐な空気に包まれた。甘く残る香水の匂いが、つい先ほどまでここにいた男の存在を思い起こさせる。
その静けさを破るように、クローゼットの陰から黒猫のニールが音もなく現れる。艶やかな毛並みが月明かりを受けて鈍く光り、金色の瞳が細く笑った。
「……駒がまた増えましたね、ご主人様」
低く、含みのある声。揺れる尾は、期待と好奇心を隠そうともしない。
私は窓辺に歩み寄り、闇に沈む庭園を見下ろす。月光がレースのカーテン越しに差し込み、床と壁にくっきりとした光と影の線を描いていた。
「ええ……これで、レオンハルトを追い詰める布石は揃いつつあるわ」
私の声は冷ややかでありながら、甘美な調べを帯びていた。ニールはその言葉を聞くと、さらに尾をゆっくりと揺らし、金の瞳に獰猛な輝きを宿す。
「次の一手が楽しみです」
「焦ることはないわ。獲物は、逃げ道をなくしてから仕留める方が確実よ」
暖炉の火がぱちりと弾け、影がわずかに形を変える。その影は、まるで私とニールが一つの獣に変じたかのように、壁際で静かに身じろぎしていた。
窓辺に立ち、私はそっと瞼を閉じた。暖炉の残り火が赤く脈打つように揺れ、壁には不規則な影が滲んでいる。空気は静まり返り、ただ薪がはぜる音だけが部屋を満たしていた。
脳裏に浮かぶのは、二つの駒――いや、鋭く研がれた二本の刃。
ゴリアテが近衛隊長となれば、その武力は王宮の盾にも矛にもなり得る。彼の腕は無骨でありながら確実で、いざとなれば王の命さえ左右する切っ先となる。
マグダレーナが女官長となれば、宮廷に渦巻く全ての情報は私の掌の内に落ちるだろう。囁かれた甘言も、闇に紛れた密告も、彼女を通して網のように絡め取れる。
力と情報――二本の刃が揃えば、第三王子レオンハルトを破滅へ導く道筋は、もはや盤上に描かれているも同然。
「……ワクワクしますね、ご主人様」
背後から聞こえた低く愉快げな声に振り向くと、月明かりに金の瞳を輝かせたニールが、影の中から姿を現していた。尾をゆっくりと揺らし、その先端が期待に震えている。
「ええ。あとは、この刃をどう突き立てるか……」
私がそう答えると、ニールは唇を吊り上げ、さらに一歩近づく。その気配は、闇に溶け込みながらも確かに熱を帯びていた。
その時、窓の外の月が雲に隠れ、部屋の中の光がひとつ、またひとつと静かに消えていく。最後に残った暖炉の火がぱちりと弾け、漆黒の闇が全てを包み込んだ。胸の奥で研ぎ澄まされた二本の刃だけが、なおも鋭く光を放っていた。




