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第三十四話『次なる駒は王子』

 夜の静寂が、私室を包み込んでいた。窓辺から差し込む月光が机上の羊皮紙を淡く照らし、その上に記された文字と線を浮かび上がらせる。机にはヴァルデンシュタイン王国の地図、城の構造図、そして人脈や動向を細かく書き込んだ紙片が無造作に広げられていた。


 私は椅子にもたれ、指先で地図の一点をなぞる。それは王宮の第三居館――第三王子、レオンハルトの居所だ。


 「次は……お前よ」


 心の奥底で冷たい声が響く。あの傲慢な笑み、侯爵家の三姉妹の前で私を辱めた時の、あの誇らしげな目を、忘れたことなど一度もない。彼に対する憎悪は、今も鮮やかに胸を焼き続けている。


 その時、背後から軽い足音が近づき、窓辺の影からニールが姿を現した。美青年の顔に、愉快そうな笑みを浮かべている。


 「ご主人様、また面白い企みを考えておられる顔ですね」


 「ええ。次はレオンハルト。謀反の疑いを着せるわ」


 「ふふ……あの女好きな王子なら、餌を垂らせばすぐ食いつきますよ」


 私は机の端に置かれたインク壺を手に取り、羊皮紙に小さく記す。「謀反の疑い」という文字。赤いインクがじわりと染み込み、月光に妖しく光った。


 「まずは火種を撒く。それから燃やし尽くすまでが、計画のうち」


 ニールの銀の瞳が楽しげに細まり、唇の端が上がる。「ご主人様、本当に……この復讐劇は、見ていて飽きません」


 私は口元に冷たい笑みを刻み、再び地図に視線を落とした。駒は、次なる標的へと進み始めている。


 控え室には、ヴァロワ王国から同行してきた女官たちが静まり返って並んでいた。午後の陽光が高い窓から差し込み、磨き込まれた床に淡い金色の光を落としている。整然と並べられた椅子に腰掛ける女官たちの表情は硬く、まるでこれから行われるのが選抜ではなく、判決の読み上げであるかのような緊張感が漂っていた。


 私は静かに一歩踏み入れ、視線をゆっくりと巡らせる。誰もが礼儀正しく頭を垂れ、床を見つめている中、ひとりだけがわずかに顔を上げた。翡翠色の瞳が陽光を受け、宝石のように輝く。


 その女官――ソフィア。腰まで流れる栗色の髪が柔らかく波打ち、端正な顔立ちに微かな笑みが浮かんでいる。怯えの影はなく、むしろ好奇心と自負の光を宿した瞳がこちらを捉えていた。


「名前は?」


 私が問いかけると、彼女は真っ直ぐに見返し、澄んだ声で答える。


「……ソフィアと申します」


 その声は控え室の空気をわずかに震わせ、他の女官たちの視線を一瞬だけ揺らした。私は小さく頷き、意味深な微笑を浮かべる。


「あなたに決めたわ」


 その言葉が落ちた瞬間、室内に小さなざわめきが広がったが、誰一人として異を唱えない。選ばれた者が誰か、それだけがこの場のすべてを決定する真実だった。


 私は背を向け、扉に向かいながら左眼にそっと力を込める。見えない囁きがミリアの意識に染み込み、これからの役割と運命を静かに刻みつけていった。


 私は執務机の前に立ち、左眼ネクロサイトへと微細な力を注ぎ込む。視界が淡く揺らぎ、ソフィアの姿が霞の中に浮かび上がった。細い糸のような暗示が、彼女の意識の奥底へと静かに沈み込み、やがてその思考に馴染んでいく。


「……これからは、レオンハルト殿下の前では髪を耳にかけ、視線が合えば一瞬だけ逸らして頬を染めなさい。そして、何度も偶然を装って接触を試みるの」


 ソフィアはぼんやりとした表情で瞬きをし、ゆっくりと頷いた。翡翠色の瞳には暗示の残響が淡く揺れ、夢の欠片を映しているようだった。


 舞踏会の夜。豪奢なシャンデリアが揺れ、金糸を織り込んだソフィアのドレスが光を受けて淡く輝く。殿下の死角から歩み寄った彼女は、横をすれ違う瞬間、ドレスの裾をわずかに揺らし、甘い香水の香りを漂わせた。その刹那、レオンハルトの動きが止まり、目が無意識に彼女を追う。その一部始終は、黒猫となったニールが柱の影から見上げ、尾を小さく揺らしながら私へと逐一報告していた。


 数日後、長い城の廊下。ソフィアは書類を手に歩きながら、わざと一枚を床に落とした。拾い上げようと身を屈めた瞬間、角を曲がってきた殿下と視線が交わる。翡翠の瞳が小さく震え、すぐに伏せられる。頬はうっすらと朱に染まっていた。


「……おっと、失礼。君は――」


 殿下の声は低く、興味を滲ませていた。ソフィアは軽く頭を下げ、「申し訳ありません、殿下」と囁く。わずかな距離で交わる吐息が、空気を微かに震わせた。


 レオンハルトの視線が、猛禽が獲物を捕らえるように彼女へ絡みついていく。その目は、一度捉えたものを決して逃さぬという確信を宿していた。



 白い大理石の柱が連なる庭園の回廊は、夕刻の橙色の光を受けて柔らかく輝き、花壇の薔薇の香りが静寂の空気を満たしていた。薄く吹き抜ける風がドレスの裾を揺らし、ゆっくりと歩く私の足音を優しく包み込む。


 回廊の先に立つフリードリヒは、背筋を伸ばし、遠くの空を眺めていた。その横顔は彫像のように整い、冷ややかな威厳を放っている。表情からは感情の起伏が読み取れず、近寄りがたい気配が漂っていた。


「殿下……こんな場所でお一人とは、珍しいことですわ」


 私の声に、彼はゆるやかに視線を向けてきた。興味や驚きはなく、ただ王族として当然の礼儀と威圧感を湛えた目だった。


「……景色を眺めながら、少し考え事をしていただけだ」


 その声音には、自らがこの国の頂点に近い存在であるという確信が滲んでいた。私は微笑を浮かべ、半歩だけ距離を詰める。橙色の光の中で、わざと彼の瞳に自分の姿を映り込ませるように立ち位置を取った。


「……冷たいのですね。手が」


 指先がそっと彼の手の甲をかすめる。フリードリヒの瞳が一瞬だけ揺れ、無機質な光の奥に微かな動揺が生まれる。


「王子たる者、些細なことで体調を崩すわけにはいかん」


「ええ、ですから……殿下にはもっと温かい空気が必要ですわ」


「温かい空気、か……」


 彼は視線を外に戻すが、わずかな緊張が横顔に刻まれていた。それは、私の仕掛けた罠が着実に作用し始めている証拠だった。


 橙色の夕陽が差し込む回廊で、私はゆっくりと距離を詰めた。フリードリヒの横顔は依然として彫像のように冷たく整っているが、その瞳の奥に、ごくわずかな揺らぎを私は見逃さない。


 私は左眼をわずかに細め、《ネクロサイト》を発動させた。見た目にはただ視線を合わせているだけ。しかし、その奥底で彼の精神に微細な波紋を送り込む――「この女を守らねば」という、理屈を超えた本能の衝動を潜在意識に植え付けるために。完全に操ることはできなくとも、この感情の種は残るはずだ。


「殿下……」


 私は柔らかく声をかけ、指先でそっと彼の袖口をかすめる。わざと一瞬だけ不安げな表情を浮かべ、すぐに微笑みに変える。その演技の間に、幻惑は静かに彼の意識へと浸透していく。


 フリードリヒの眉が、ほんのわずかに動いた。冷ややかなはずの視線が、私の顔をしっかりと捉える。そこに宿ったのは、王族としての義務ではない、もっと個人的な――守護の意志。


「……この時間は冷える。長く外に居るべきではありません、あなたは」


 その声色には、いつもの尊大さの奥に、確かな温度が混じっていた。私は心の中で静かに笑む。狙い通りだ。


「お気遣い、ありがとうございます、殿下」


 視線を交わしたまま、私は彼の瞳の奥で芽生えたその感情を確認する。完全な支配ではなくとも、その種が芽吹く時を待つだけでいい――そう確信しながら、夕暮れの風が二人の間をそっと撫でていった。


 薄暗い自室の中、私は静かに椅子へ腰を下ろした。

 外から差し込む月光は、カーテンの隙間から一本の刃のように床を切り裂き、部屋の空気を青白く染めている。


 机の上に置かれた小さな箱を開けると、黒曜石の指輪が夜の闇に沈むように鎮座していた。

 その奥底には、淫魔――サキュバスが封じられているという。宝玉の赤い光は、まるで生き物のように脈動し、月明かりを浴びて妖しく揺らめく。


 私はその冷たい輪郭を、指先でそっとなぞった。

 装着すれば、相手の心の奥底に眠る欲望を増幅させ、理性を削ぎ落としてしまう魔具。


「レオンハルトには淫欲を……フリードリヒには執着と忠誠を」

 唇の端をわずかに吊り上げる。


 女に関心を示さない第一王子とて、心の奥には火種がある。この指輪なら、その火を淫欲という名の炎に変えられる。サキュバスの囁きが彼の耳奥で甘く絡みつき、抗えぬ衝動と盲目的な執着を育てるだろう。


 私はゆっくりと指輪をはめ、左眼の奥で微かな光が瞬くのを感じた。宝玉は月明かりに応えるように、深く赤く輝きを増していく。それはまるで、獲物の心を喰らう直前の捕食者の瞳のようだった。


「ふふ……あなたも、すぐに抗えなくなるわ」


 夜風が窓を揺らし、蝋燭の炎がひとつ、ぱたりと消えた。部屋はさらに暗く沈み、その中心で、指輪だけが妖しい赤を灯し続けていた。


 王宮の長い廊下は、昼間でも薄暗く、磨き上げられた床に窓の光が細長い影を刻んでいた。静寂の中、靴音だけがゆっくりと響く。


 柱の陰に身を潜めた私は、息を殺してその光景を凝視する。ソフィアが、わざとらしさを感じさせぬ自然な動作で手元からハンカチを落とした。白い布はふわりと舞い、狙いすましたかのようにレオンハルトの足元で止まる。


 レオンハルトは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、優雅な仕草でそれを拾い上げた。指先が布を持ち上げる、そのわずかな間に、彼の視線がソフィアに絡みつく。興味と欲望、その芽生えを私は確かに読み取った。


 その瞬間、私は視線を別の方向へ移す。廊下の奥、フリードリヒと目が合ったのだ。無表情なはずの彼の瞳に、かすかな揺らぎが走る。まるで「この女を守らねば」という感情が、意識の底から浮かび上がったように。私の左眼ネクロサイトと、淫魔サキュバスが封じられた指輪の力が、着実に彼を変えつつある証拠だった。


 フリードリヒは、弟がまた女官に手を伸ばしている様子を遠くから見ていた。もしその矛先が王女である私に向けられたら――そう想像した時の、わずかな緊張と苛立ちが、その表情の奥に滲んでいる。


 私は唇に冷ややかな笑みを浮かべる。


「謀反の火種は、もう燃え始めている」


 心の中でそう呟き、長い影の中を静かに歩み去る。王宮の空気は確かに、以前よりも重く、不穏に満ちていた。



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