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第三十話『淫魔の指輪』

 夜の王宮の寝室は、息を呑むほどの静寂に包まれていた。厚手の絹のカーテンは外気を遮断し、燭台の炎がかすかに揺れるたび、壁に長い影が伸びる。窓から差し込む月明かりは、冷ややかに床を銀色の帯で染めていた。


 婚礼から幾晩も過ぎたが、フリードリヒはこの部屋にほとんど現れない。稀に姿を見せても、「書類を取りに来た」だの「剣を置き忘れた」だの、用件だけを告げてすぐに立ち去る。まるでここが夫婦の寝室であることなど、初めから存在しないかのように。


「今夜も……それだけかしら?」


 扉口に立つ彼に問いかけると、フリードリヒは振り返りもせずに短く答えた。


「他に用はない。休むといい」


 その声音は氷のように冷たく、感情の起伏を微塵も感じさせない。私は寝台の端に腰を下ろし、薄布越しに揺れる炎を見つめた。寝室は本来、政略の駒を進める盤上であるはずなのに……彼はそこに上がる気すら見せない。


 私は静かに息を整え、左眼ネクロサイトを開いた。月光の下、彼の精神へと糸を垂らすように意識を伸ばす――しかし、指先に触れた瞬間、輪郭は霞のように崩れ、形を捉えられない。掴もうとすればするほど、霧の奥へと消えていく感触。


「……相性が悪い」


 小さく呟く。単なる能力の無効化ではない。何か別の力が、私の術を拒んでいる。理由も分からぬまま、その見えない壁が、胸の奥で静かな苛立ちを燻らせた。


 私は長く息を吐き、寝台の端から立ち上がった。燭台の炎が細く揺れ、薄闇の寝室に私の影を引き延ばしていく。静寂が耳に張りつくようで、胸の奥に鈍い苛立ちが渦巻いた。


 このままでは駄目だ。フリードリヒを駒として動かせないなら、盤上の形を変えるしかない。私は迷いを断ち切るように振り返り、扉の向こうで控えていたニールを呼んだ。


「……ノクトホロウへ行って。ヴァルセリア様に現状を話し、どう動くべきか助言をもらってきて」


 低く、湿った夜気のような声で告げる。ニールは私の目をまっすぐに見て、わずかに片眉を上げた。


「ご主人様、それは……彼のこと、もう諦める方向ですか?」


「諦めない。ただ、別の手を用意するだけ」


 私が淡々と返すと、ニールは口元に皮肉げな笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。


「了解です。大魔女様によろしくお伝えしておきます」


 彼は軽やかな足取りで部屋を後にしたが、その背は緊張を纏い、闇へ向かう狩人のようだった。


 私は寝室の窓辺に歩み寄り、厚いカーテンを少しだけ開いた。外には月光に縁取られた回廊が続き、先には夜の闇が口を開けている。


 ニールの影がその回廊をすべるように進み、石畳に吸い込まれる足音がかすかに響く。やがてその音は遠のき、冷たい月光と夜風だけが残った。


 その先に待つノクトホロウは、きっと彼を深く飲み込むだろう。私はカーテンを閉じ、再び薄闇へ身を戻す。胸の奥では、すでに新たな一手が静かに形を成しつつあった。


  数日後、夜の寝室に足音が近づいた。静寂を切り裂くような規則正しい靴音。扉が静かに開くと、そこには長旅の疲れを纏ったニールが立っていた。外套からは森を抜けた者特有の湿り気を帯びた空気が漂い、肩には琥珀色の瞳を光らせた黒猫――ヴァルセリアの使い魔が、静かに爪を立てて乗っている。


「戻りました、ご主人様」


 低い声と共に、ニールは外套の内から小さな黒檀の箱を取り出した。指先に冷たい重みを伝えるその箱は、蓋を開ける前からただならぬ気配を放っている。


「ヴァルセリア様からの贈り物です。……詳しい理由も聞いてきました」


 箱の中には、黒曜石のような深い黒を湛えた指輪が収められていた。その表面には、血管を思わせる赤い脈動がゆっくりと這い、まるで生きているかのように光を放っている。


「これは下級魔物を召喚するための指輪。呼び出せるのは淫魔――サキュバスです」


 ニールの口調はいつになく慎重だった。


「ヴァルセリア様いわく、フリードリヒ殿のように精神を閉ざす男には、力ずくではなく本能を揺さぶる存在が有効だと。サキュバスはどんな男でも虜にし、理性を溶かしていきます」


 私は赤い脈動を見つめたまま耳を傾けた。


「ですが虜になればなるほど、男は精気を吸い尽くされ、やがて衰弱死します。それでも――『盤上の駒を動かすためには毒も薬になる』と、あの方は笑っておられました」


 指輪から伝わる熱と冷たさが交互に指先を撫で、私の胸に計画の次なる一手の輪郭を描き出す。命を奪うか、計画を進めるか――その選択が、この小さな輪の中で妖しく息づいていた。


 指輪を手にした瞬間、空気がひやりと張り詰めた。冷たい金属が肌に触れた途端、ぞくりとした感覚が背筋を走る。次の瞬間、それは生き物のように微かに脈打ち始め、私の心臓と同じリズムで鼓動を刻み出した。


 脈動に合わせて、黒曜石の表面を走る赤い光がゆらめく。それは血潮の流れにも似て、まるで誰かの生命を吸い上げるために息づいているようだった。冷たさと熱が交互に指先へ流れ込み、金属の輪が生き物の顎のように私を捕らえる。


 フリードリヒ――あの冷ややかな夫など、死んでも構わない。だが、レオンハルトを処刑台に立たせるまでは、“夫”という立場で利用せねばならない。順序を誤れば、すべてが灰燼に帰す。


 この指輪は諸刃の剣。サキュバスの魅了に溺れた男は、日ごとに精気を削られ、やがて骨と皮だけの無残な姿になるだろう。もしフリードリヒがそれに堕ちれば、計画は加速する――だが、彼が早く死ねば、私の復讐は半ばで潰える。


 私はその冷たくも熱い輪を握り込み、赤い脈動を見据えた。脈打ちはさらに速く、強くなり、「決断せよ」と囁くように私の鼓膜を叩く。


 嵌めるか、封じるか――その先に待つのは、勝利か、崩壊か。


 夜明け前、蒼い闇がまだ王宮を包んでいた。私は窓辺に立ち、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。外は静まり返り、わずかに揺れるカーテンの隙間から、月の光が銀の糸のように差し込んでいた。


 その光が、私の掌に置かれた黒曜石の指輪を淡く照らす。石の奥底で赤い脈動がゆらりと揺らぎ、まるで私を覗き返しているかのようだ。


「……本当に、これであの男を動かせると思うか?」


 背後から、低く落ち着いた声が返ってきた。


「ヴァルセリア様の贈り物です。効かないはずがありません。ただ、効きすぎた場合は……ご存じの通り」


 ニールの口調は軽いが、その瞳の奥には油断のない光があった。


「奴が先に死ぬか、レオンハルトが先に処刑されるか――勝負はここからだ」


 私はためらいなく、その指輪を左手の薬指にはめた。瞬間、冷たい金属が皮膚を這い、赤い光が月明かりと混ざって妖しく輝く。その輝きは、獲物を待ち受ける蛇の目のように危険な魅力を放っていた。


「ご主人様……」


 ニールが一歩近づき、耳元で囁く。「どちらの結末でも、私は面白くて仕方がありません」


 私は答えず、ただ窓の外を見据えた。指輪の脈動が心臓の鼓動と重なり、熱が指先から腕へ、そして胸の奥へと流れ込む。血が沸き立つような感覚が全身を満たし、遠くで夜鳥の声が一つ響いた。


 夜はもうすぐ明ける。しかし、この勝負の夜明けは――まだ遠い。



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