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第三十一話『媚薬と毒薬』

 外はしとしとと雨が降り続き、王城の重い石壁を濡らしている。窓の外では、雨粒が細い銀糸のように絡み合い、遠くで雷がくぐもった唸りを響かせていた。燭台の炎は湿った空気に押されるように揺れ、室内には影と光が複雑な模様を刻んでいる。


 私は天蓋付きの寝台の縁に腰を掛け、しばらく外の闇を見つめてから、静かに指を鳴らした。その音に応えるように、暗がりの隅から黒猫の姿がするりと現れる。毛並みは雨の夜気を含み、闇と同化して輪郭すら曖昧だ。銀色の瞳だけが、ろうそくの明かりを鋭く反射している。


「……お呼びですか、ご主人様」


 低く、甘さを帯びた声。だがその奥には、警戒と探るような興味が入り混じっていた。


「お前、ケシの葉から強力な媚薬は作れる?」


 私は声を潜め、唇の端だけをわずかに上げる。問いかけた瞬間、ニールの瞳が愉快そうに細まり、尻尾がゆったりと揺れた。


「当たり前ですよ、ご主人様。薬剤生成は、使い魔の得意分野です。濃度や効果時間もお望み通りに」


「そう……頼もしいわね」


 短く返しつつも、私は目を細め、さらに一歩踏み込む。


「毒薬も作れるかしら?」


 その言葉に、ニールはすっと私の方へ近づいた。猫の姿のまま、瞳だけが鋭く光を帯びる。


「もちろん。香りで惑わすものから、静かに心臓を止めるものまで……お好みは?」


 口調は軽いが、その奥に潜むのは確かな自信と、わずかな期待だ。


「まだ決めていないわ。状況に応じて使い分ける」


「ほう……まさか、フリードリヒ殿下に?」


 わざとらしい調子で探りを入れてくる。その銀色の瞳が私を試すように光った。


「違うわ」


 きっぱりと言い切ると、ニールの耳がわずかに動く。部屋の空気が張り詰め、雨音すら遠くなる。


「先に片づけておくべき相手がいるの。あの侯爵家の三女――あなたに興味があるようじゃない?」


 その名を出した瞬間、ニールの口元に悪戯好きの笑みが浮かんだ。


「……ああ、あの娘ですか。確かに視線を感じたことはあります。落とせるかどうか……試してみましょう」


「ええ、存分にやりなさい。ただし、こちらの駒を動かすために」


 互いに笑みを交わし、部屋の中に漂う影がさらに濃くなった。雨はやむ気配を見せず、外の闇はますます深く沈んでいった。


 燭台の炎が、風もないのにわずかに揺れた。外から聞こえる雨音はいつしか遠のき、かわりに城の奥深くで鳴る低い鐘の音が、夜の静寂を深く切り裂いていく。私は膝の上で指を組み、心の中で盤面を見つめるように次の一手を思い描いた。


「媚薬は……甘い囁きのきっかけに」


 ニールが低く呟いた瞬間、私の胸の奥に小さな火が灯る。その声音は、絹のように滑らかでありながら、底には獲物を仕留める冷ややかな鋭さが潜んでいた。私は視線を彼に固定したまま、口元だけをゆっくり吊り上げる。


「甘い囁き、ね……ふふ、あなたらしい」


「褒め言葉と受け取ります」


 銀色の瞳がわずかに細まり、私を値踏みするように揺れる。その視線に、私の心は奇妙な安堵と高揚を同時に覚えていた。策を共有できる相手がいることの心強さと、それを実行する背徳感が、混ざり合って甘く痺れる。


「毒薬は?」


 問いかけは自然に口をついて出たが、声はひときわ低く落ちた。ニールの唇に笑みが浮かび、銀の瞳が暗闇で光を跳ね返す。


「“確実な静寂”のための保険です。甘く酔わせてから眠らせるも良し、目を合わせたまま落とすも良し……お好きに」


 その言葉に、心臓が一瞬だけ脈打ちを速める。私の頭の中で、彼女が笑いながら沈黙へと堕ちていく姿が鮮明に浮かび、同時に全身が冷えた。媚薬は揺さぶりをかける誘い水、毒薬は確実に口を閉ざさせる最後の手段。どちらを先に使うかは――標的の反応次第だ。


 私はゆっくりと視線を窓の外へ移す。重い雲の裂け目から雷光が閃き、夜空を一瞬だけ白く引き裂く。その光に照らされ、部屋の影が濃く壁へと映り、燭台の炎が細く震えた。


「どちらを先に使うかは……彼女次第ね」


 呟くように言葉を落とすと、ニールの唇が満足げに歪む。その笑みに背筋がぞくりとした。部屋の空気がひやりと冷え、影が床を這い、壁を這い上がる。夜の気配はさらに濃くなり、まるで城全体が息を潜め、これから始まる狩りの合図を待っているかのようだった。


 ニールの指先から、一枚の紙が私の前へ滑らせられた。蝋燭の光を受けたその紙は、淡く黄ばんだ色をしており、細かな文字がびっしりと並んでいる。ケシの葉の抽出法、香りを覆い隠すための乾燥花、毒の媒介となる粉末の名まで、寸分の迷いもない筆致で記されていた。その几帳面さに、彼の職人気質と悪魔的な用意周到さが滲む。


「これだけ揃えば、明日には準備が整います」


 ニールは自信を隠そうともせず、銀色の瞳を愉快そうに細めた。口調は柔らかいが、その奥には仕事を前にした職人の確信と、獲物を目前にした捕食者の熱が混ざっている。


「……揃えるのに問題はないのね?」


「ええ。街の薬草屋、城下の香料商、それに……少し裏のつてを使えば、半日もかかりません」


 その軽さの中に、彼の危険な手際の良さが透けて見える。私は紙を指先でなぞりながら、言葉を選んで落とした。


「準備が整ったら、舞台は……あの子が選ぶ場所で」


 その一言に、ニールの口元がゆっくりと歪む。まるで獲物が自ら檻に入る瞬間を想像しているかのようだ。


「承知しました。……どこであれ、彼女が“その気”になった場所が舞台ですね」


「そう。仕掛けるのは私たちじゃない……あの子自身に選ばせるわ」


 ニールは「面白い」と短く呟き、尻尾を揺らすような仕草をしてから、人の姿のまま深く頭を下げた。その声色は低く、艶めいていて、背筋を撫でるように残響する。


 私は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。分厚い雲が夜空を覆い、月も星も飲み込まれている。外気は重く湿り、呼吸すら静かに響くほどの静寂が広がっていた。


 その静寂を切り裂くように、雲の奥で光がうねり、雷鳴が轟く。城壁が震え、私の背後で影が長く伸び、床を這い、壁を這い上がる。


 その影は、まるで獲物に忍び寄る獣のように形を変え、私とニールの背後に寄り添った。


 夜は、確実に私たちのものになろうとしていた。


 午後の陽射しは傾き、城の庭を柔らかな金色に染め上げていた。風は緩やかに薔薇の香りを運び、噴水から滴る水音が規則正しいリズムで耳を満たす。小鳥の囀りさえ、遠慮深く葉陰の奥で響いている。


 私は白い石造りのテラスの椅子に腰掛け、膝の上で指を組んだまま、芝生越しに広がる庭園を見渡していた。その静かな風景の中に、ひときわ目を引く影が現れる。黒猫のはずの私の使い魔――ニールが、美青年の姿をとって庭を横切ってくる。陽光を受けた銀色の瞳が鋭く輝き、外套の裾は軽やかに翻り、歩みは一切の迷いがない。


「ご主人様。頼まれた品は、すべて用意できました」


 低く落ち着いた声。その響きに、私の唇がわずかに吊り上がった。


「流石ね」


 労いの一言を投げると、ニールは満足げに口角を上げて一礼し、さらに言葉を続ける。


「それと……シャルロッテの件も、手はずは整いました。今宵、お城の空き小屋に来るよう仕向けてあります」


 その報告に、私は背もたれから少し身を起こし、細めた視線で彼を見つめた。


「一体いつのまに、そんな仲良しになったの?」


 銀色の瞳が愉快そうに揺れ、口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。


「ふふ……シャルロッテの屋敷の前で、接触の機会を窺っておりましたら、彼女の従者に見つかりましてね」


「見つかった?」


「ええ。“お嬢様がお探しです”と向こうから声をかけてきたんですよ。……まるでこちらが仕掛けた罠に、自ら足を踏み入れたかのようでした」


 その言葉に、私は小さく笑みを洩らし、テーブルに置いてあった紅茶のカップを静かに持ち上げた。湯気がゆらりと上がり、薔薇の香りと混ざり合って鼻をくすぐる。


「それで?」


「侯爵家でお茶でもと誘われましてね。……あの娘は、無邪気な顔を装いながら、しっかりと獲物を値踏みするタイプです」


 午後の陽光に包まれた庭は穏やかで、美しい香りに満ちている。だが、私とニールの会話の奥には、夜を迎えれば確実に動き出す、甘く危険な罠の気配が漂っていた。




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