第二十九話『赤の洗礼と初夜』
イザベラが私の前に立ち止まり、勝ち誇った笑みを浮かべた瞬間、私はゆるやかに左眼を細めた。視界の奥に淡く紅い光が灯り、標的を探す――そして、すぐ傍らに控える従者マグダレーナの意識へと、静かに糸を伸ばす。
心の中で命令を紡ぐ。「今すぐ、あの女を罵れ」
マグダレーナの表情がわずかに引き攣り、次の瞬間、その口から場を切り裂く鋭い声が放たれた。
「なんと無礼な装いでしょう、イザベラ様! 本日の主役は新婦殿下でございます! 真っ赤なドレスなど、礼儀知らずも甚だしい!」
会場が一瞬にして静まり返る。楽団の音色までもが途切れ、ざわめきは吸い込まれるように消えた。貴族たちの扇子が固まり、視線が一斉にイザベラへと集まる。
イザベラは顔を真っ赤にし、口を開きかけては言葉を失った。その姿を、私はただ優雅に微笑みながら見つめる。頬の筋肉ひとつも動かさず、まるでこの騒動など私には無関係であるかのように。
その時、隣に座るフリードリヒが冷ややかな声で告げた。
「……イザベラ、場を汚すな。今すぐこの場から消えろ」
低く響くその声には一片の情もなく、会場の空気をさらに氷のように凍り付かせた。イザベラは屈辱に顔を歪め、真っ赤な頬を震わせながら、次女マリーベルと三女シャルロッテの腕を強く掴む。
三姉妹は視線を逸らしつつも、周囲の冷ややかな視線に追われるように、足早に退場していった。揺れる赤いドレスの裾が、去り際の苛立ちと屈辱を物語っていた。
――見事な追い打ち。私は何もしていないふりをしながら、胸の奥で冷たい喜びを深く味わった。
披露宴の最後の祝杯が高らかに響き、黄金色の酒が揺れるグラスの中で煌めいた。楽団が静かに締めの旋律を奏で、重厚なカーテン越しに差し込む夕暮れの光が、会場全体を柔らかくも寂しげな色に染め上げる。
貴族たちは一様に笑みを浮かべ、礼儀正しく別れの挨拶を交わしながら、ゆるやかに広間を後にしていく。宝石がちりばめられた衣装の裾が床を擦る音と、遠ざかる声のざわめきが、徐々に空間から熱を奪っていった。
大広間の中央、私は椅子に腰掛けたまま、形式的な微笑を崩さずに一人ひとりの退出を見送った。目の奥には何の感情も宿さず、ただ儀礼として微笑むだけ。すでに恥をかかせた三姉妹は、先ほどの騒動の後、真っ赤な顔で会場を後にしている。その姿を思い出すだけで、胸の奥で小さく冷たい炎が揺らいだ。
隣に立つフリードリヒは、私と視線を交わすことなく、淡々と客人に返礼を述べていた。その声音は感情を削ぎ落としたように平板で、義務としての言葉をただ繰り返している。私ではなく、未来の政略図こそが彼の瞳に映っているのだと、容易にわかった。
「……ようやく終わったな」
彼が低く呟く。その声には安堵ではなく、計算された静けさが混じっている。
「ええ。皆さま、楽しんでくださったようですわ」
「表向きは、な」
わずかに口の端を上げた彼の横顔は、皮肉を帯びていた。私もまた、同じく心の奥で笑う。互いに本心を晒さず、面を被ったままの会話だ。
最後の客が退出し、広間の扉が静かに閉じられた。途端に訪れる静寂は、さっきまでの華やぎが嘘のようだった。残されたのは、食器の上に散ったパン屑と、花弁の落ちた卓上の装飾、そして空気に漂うわずかなワインの香りだけ。
「部屋に戻るぞ」
フリードリヒは私に視線を向けぬまま言った。その声音は、まるで事務的な業務連絡のようだった。私はゆっくりと立ち上がり、白いドレスの裾を整えながら彼の後に続く。外で待つ従者たちが無言で扉を開き、長い廊下の先に、私たちの寝室が待っていた。
しかし、その夜――
豪奢な寝台の上で、フリードリヒは私に手を触れようともしなかった。彼は衣服を脱ぐこともなく、窓辺に立ち、遠くの夜景を眺めながら淡々と言った。
「今夜は休め。……必要な時が来たら呼ぶ」
「そう……ですの」
低く、感情を押し殺した声。まるで私が、この結婚という盤上でただの政略の駒に過ぎないと、冷たく告げられたようだった。
寝室の片隅、窓辺に立つフリードリヒの背中は、月光を受けて銀色の輪郭を描いていた。その肩は微動だにせず、私の存在など空気の一部とでも思っているかのようだ。広い部屋に漂う沈黙が、冷えた金属のように肌にまとわりつく。
私はその背を見据えたまま、胸の奥に冷たい炎が静かに灯るのを感じた。――私を妻としては見ていない。その事実は、屈辱ではない。むしろ、好都合だ。
愛情を向けぬ相手ほど、操るのは容易い。情がなければ、迷いも揺らぎも生じない。彼の心の中の盤上に、私はこれから少しずつ、自分の色を染み込ませていけばいいのだ。
外ではまだ、披露宴の余韻が遠くかすかに響いている。だがこの部屋の中では、次の手を打つための静かな戦略会議が、私一人の頭の中で進行していた。
私はゆっくりと唇に微笑を刻み、視線を落とした。――駒運びは、これからだ。
その背中を見つめながら、私は胸の奥で静かに笑った。これは侮辱でも失敗でもない。むしろ、私にとっては好都合な時間稼ぎだ。焦る必要はない――獲物は、逃げはしないのだから。
寝室の窓辺に立ち、私は静かにカーテンを引いた。夜空には雲一つなく、冴え冴えとした月が白銀の光を注いでいる。その光は石造りの壁を柔らかく照らし、床に落ちた影を駒のように並べていた。まるで、今か今かと動き出す瞬間を待ち構えているかのように。
胸いっぱいに冷たい夜気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。吐息は淡い白となって消え、月明かりに飲まれた。
「……これでいい」
その呟きは、自分だけが知る合図だった。フリードリヒが私を妻として見ていないこと――それは屈辱ではなく、むしろ盤上の優位な位置。情を交えぬ駒運びは、冷静さを保ち、計画を正確に遂行できる。
これから少しずつ、彼の視線を私に向けさせる。そしてその過程で、彼を王国の中枢に絡め取り、自らの根を深く張る。婚姻という檻の中に、復讐の標的たちをも引き込み、逃げ場を奪って締め上げるのだ。
月光が髪をすくい、頬をなぞる。胸の奥で燃える冷たい炎は、静かに、しかし確実に熱を増していく。
駒は、盤上に揃った。これから始まるのは、静かなる戦。
私は唇の端をわずかに吊り上げ、白銀の光の中で目を細めた。
――幕は、上がった。
フリードリヒは初夜を私と迎えることなく、自室へと戻った。残された私は部屋で静かに寛いでいたが、やがてニールが音もなく現れた。彼の目は、夜の城で拾い集めた情報の光を帯びている。
「城内は面白いものでしたよ、ご主人様」
彼は窓辺に立ち、月明かりを背にしながら語り始めた。
「回廊は灯りが落とされ、燭台の炎だけが頼りなく揺れていました。そんな中、柱の陰では侍女たちが囁いていたんです。『あの騒ぎ、明日には城下で噂になる』とか、『イザベラ様の顔ったら』と笑いを堪えて」
私は目を細め、続きを促した。
「従者たちも似たようなもので、不満を漏らしていました。で、角を曲がった先で、イザベラ様が妹二人と侍女を責め立てている場面に出くわしましてね。『ワインがぬるかった』と、まあ八つ当たりです」
脳裏に、あの紅の女の険しい顔が浮かぶ。ニールは肩を竦め、次の報告に移った。
「奥まった部屋からはレオンハルト殿下の声も聞こえました。妹たちを宥めるふりをしながら、『あんな女、気にするだけ無駄だ』と……柔らかい声の裏に、冷たい侮蔑が潜んでいました」
私は唇の端をわずかに持ち上げた。あの男の傲慢さは相変わらずだ。
「極めつけはフリードリヒ殿下です。部屋の前を通ったとき、『愛など不要……ただ義務を果たすだけだ』と聞こえました」
私は表情を変えずに、その言葉を胸に刻む。愛を持たぬ相手ほど、操るのは容易い。
「それと……シャルロッテ様が侍女に命じてましたよ。『あの青年を探せ』って。ご主人様、私、どうやら別の網にも絡まれそうです」
小さく笑う彼の視線が、遠くの窓辺を見やった。
「最後に見えたのは、ご主人様、あなたでした。月明かりに照らされて立つその姿は……正直、背筋が寒くなるほど鋭かった」
私はただ静かに笑った。ニールはそれを見て、小さく呟く。
「……駒は揃った。あとはどう動かすか、ご主人様次第ですな」




