冷たい眼差しの奥に
事件が起きたのは、帰ってすぐのことだった。
「イヴァン様!」
馬車を降りた私達の元に、血相を変えたユーグさんが走り寄ってきた。
その蒼白な顔に驚き、私達に緊張が走る。
何か良くないことが起こっているということを瞬時に理解したイヴァンが尋ねる。
「何があった?」
「国境付近に潜んでいた反逆者が、アデール領を占領したとのことです!」
「何だと」
イヴァンの言葉に一気に怒気が孕んだのを感じ、私も硬直する。
(アデール領って国境付近の王家直轄の地のことよね!? 反逆者が占領したなんて)
「また、領民は全員人質として囚われているとのことで、王の勅命により応援要請が届いております!」
「分かった。 すぐに兵の準備を」
「既に準備は整えております」
「感謝する。 お前も来い、ユーグ。
……くそ、父上が不在の時に」
「私は先に兵の元へ向かっておりますので、イヴァンさまもご準備を」
「兵を頼む」
「はっ」
ユーグさんはイヴァンの命令に頷くと、走り去って行く。
イヴァンも踵を返そうとして私に気付き、ハッとしたように目を見開く。
そして、意を決したように言った。
「俺は行かなければならない。
……もしかしたら、君との約束を守れないかもしれない」
約束とは誕生日のことだと理解して、私は頷き言った。
「私のことは気にしなくて大丈夫。 だから、行って」
「! ……すまない」
イヴァンはそう言って踵を返そうとする。
だけど、何となく嫌な予感が胸をよぎった。
「リディア?」
「っ!」
気が付けば、イヴァンの服の裾を掴んでいて。
イヴァンは早く行かなければいけないのに、その手を離すのが怖い。
そんな気持ちをぶつけるように、ギュッとその手に力を込め、彼の瞳をまっすぐと見て言った。
「その代わり、絶対に無事で帰ってきて」
「……!」
イヴァンは驚いたように目を見開いた後、私を安心させるために掴んでいた手をそっと包み込むように握ってから言った。
「安心しろ、俺は強い。 必ず帰ってくる。
だから待っていてくれ、リディア」
「絶対よ?」
「あぁ」
イヴァンは頷き、私の頭をそっと撫でると今度こそ踵を返して行ってしまう。
(神様、お願いします。
イヴァンをどうか守って下さい)
その背中が見えなくなった後も、私はペンダントを握りしめて祈り続けたのだった。
「イヴァン様、お戻りになられませんね」
「……えぇ」
ニーナの言葉に、私は窓の外で静かに降り積もる雪を見つめた。
あれから三日、そして私の誕生日を迎えた。
イヴァンが率いる援軍がアデール領に辿り着いたことは報告を受けたものの、その後の消息は不明だった。
(イヴァン、怪我をしていないかな。
無事でいるかな。 傷付いていないかな……)
三日前、目の前で初めてイヴァンの受ける仕事を聞いて、イヴァンがどれだけ大変で危険な仕事をしているのかを思い知った。
看病をした時に出来ていた無数の傷も、そういった人達と戦ったためのものであることも。
(こういう時に、イヴァンのために何も出来ない自分が悔しい)
ただただ彼の無事を祈ることしか出来ない自分が。
今まで感じた何よりも虚しさを覚えるのだった。
そして、私の誕生日が終わりを迎えようと日付が変わる時刻になる頃、ニーナが必死の形相で部屋に入ってきた。
「イヴァン様が! お戻りになられるそうです!」
「!」
私はその言葉に、夜着のまま部屋を飛び出した。
侍従達が何事かと私を見るが、そんなことなどどうでも良かった。
(イヴァン……!)
裸足のまま廊下を駆け、何度転びそうになっても足を止まることはなく、一直線に玄関へと向かう。
(イヴァンが、帰ってきた……! 無事だった!)
そのことに喜びを感じるのと同時に、イヴァンの無事を確かめたい一心だった。
そして。
「……!」
玄関に着いた私の目に飛び込んできたその姿に、私は思わず足を止める。
そして、震える声で口にした。
「イ、ヴァン……?」
「!」
ハッと驚いたように、イヴァンが私を振り返った。
その金の瞳が私を捉えたのを見て、心が震えたのと同時に、彼が着ている黒い服の至る所についている、黒より濃い染み……血を見て青褪める。
「イヴァン……!」
私は居ても立ってもいられず、彼の元に駆け寄り声をかけた。
「早く怪我の手当てをしないと! 血が……!」
私の言葉に、イヴァンの瞳が細められた……と思ったら、伸ばしかけた私の手が、パッと彼によって振り払われた。
驚いて見上げれば、彼は冷たい眼差しで私を見下ろし、言った。
「これは俺の血ではない」
「え……、!」
その言葉に驚き、理解した。
(これは、返り血……)
暗にイヴァンの血ではないということに気が付き、私は言葉を失う。
何と声を掛ければ良いのか分からなかったからだ。
そんな私の一瞬の躊躇いが悪かった。
「……やはり俺が怖いんだろう」
「っ、そんな」
「嘘をつくな、声が震えている」
厳しい口調でイヴァンはそう言い放つ。
その冷たさに、私は思わず萎縮してしまう。
だけど、イヴァンのその眼差しには冷たさだけではないものが滲んでいることに気が付き、もう一度声をかけようとした私の言葉を、彼は聞くまいと踵を返した。
「待って、イヴァン!」
「リディア様」
呼び止めようとした私の名前を呼んだのは、彼の従者であるユーグさんだった。
彼の服にも同じように血の跡があって。
ユーグさんは嗜めるように言った。
「リディア様、イヴァン様は気が立っておいでです。
明日になれば、いつものイヴァン様に戻られますから、今はそっとしておいてあげて頂けませんか」
「え……」
「イヴァン様は、戦地に立たれた後はいつも一人でお過ごしなのです。
いつものことなので大丈夫ですから、リディア様もお休みになられて下さい」
「……はい」
ユーグさんの言葉に頷き、その場を後にする。
廊下をとぼとぼと歩いている最中、私の頭の中ではぐるぐると、イヴァンの言動とその姿や表情が巡る。
『これは俺の血ではない』
『やはり俺が怖いんだろう』
(イヴァンの口ぶりでは、まるでいつもそう言い聞かせているようだった。
そんな風に私にも向かって言い放って、距離を置こうとしているみたいだった。
だけど)
私は立ち止まる。
後ろをついてきていたニーナが「リディア様?」と呼びかけた。
そんなニーナに向かって私は言う。
「あの言葉は、イヴァンの本心ではないと思うの」
「え……?」
ニーナは驚いたように目を見開く。
そんな彼女に向かって、私は言葉を続けた。
「だってイヴァン、辛そうだった」
瞳の奥では、違う何かを……、真反対の言葉を叫んでいるような気がした。
寂しい、悲しい、でも諦めたような……、そんな色々な感情を金の瞳に宿していた。
「……イヴァンは、本当は一人を望んでいない気がする」
「リディア様」
「ごめんね、ニーナ。
やっぱり私、行かなきゃ!」
「リディア様!」
ニーナの慌てたような声に私は踵を返し、イヴァンの元へ駆ける。
(何でかは分からない。
けれど、あんな状態のイヴァンを一人にしてはいけない気がするの)
怒られたって、罵倒されたって、振り払われたって、突き飛ばされたって良い。
今イヴァンの元へ行かなければいけない、そんな気がした。
(ユーグさんにも言われたんだもの、私のしていることは余計なお世話かもしれない、けれど!)
あんなに傷付いているイヴァンを、放ってはおけない……!
私の足は迷うことなく、イヴァンの部屋へと向かうのだった。




