身代わりの令嬢 *イヴァン視点
夜。
静かな部屋の中で、一人ワインの入ったグラスを煽る。
頭に浮かぶのは他でもない、“彼女”の姿だ。
「……リディア」
殆ど無意識にそう彼女の名を口にすれば、彼女との数々の思い出が鮮明に蘇ってくる―――
真の恩人である彼女をレイラ嬢と勘違いし、求婚を申し出てしまった俺は、レイラ嬢の身代わりに来たリディアを追い返そうとした。
レイラ嬢に扮したつもりのリディアは酷く驚いていたが、瞳の色が事前に聞いていたものと違うから違うと言っただけなのだ。
そんな違いを見破られ、彼女はそれでも臆することはなく堂々と、真っ直ぐと俺の目を見て願い出た。
“一ヶ月だけ時間が欲しい”と。
最初は、リディアが辺境伯家という地位に目が眩んだ悪女なのだと決めつけていた。
恩人だと言い張る彼女の姿も、レイラ嬢の手柄を横取りしようとしているものに過ぎないと思ってしまった。
すると、リディアは激昂し、警戒のために突きつけていた短剣をあろうことか押し返してきたのだ。
自らの手が傷付くことも厭わずに。
これには驚く俺に対し、リディアはまるで自分を卑下するかのような言葉を並べ、冷めた口調で“好きにすれば”と言い放った。
(……面白い)
そこまで言うのなら、好きにさせてもらおう。
噂には疎いこの俺の耳にまで入ってくる、彼女の“悪女”という噂がどんなものなのか。
この目で確かめてやろう、そう思い、話通りレイラ嬢の身代わりとして、一ヶ月邸に住むことを命じた。
すると、リディアは傷付いたような表情を浮かべ、呟いたのだ。
「……ファーストキスを救助のためなんかに捧げなきゃ良かった」
その言葉がよく分からなかったが、あぁ、と勝手に思ってしまった。
これが彼女の、気を引く作戦なんだろうと。
それならば、と口付けて思った。
(あぁ、キスなんて大したことではない)
それなのに口付け一つで大袈裟な、と思った俺が悪かったらしい。
彼女はふるふると小さな体を小刻みに震わせ、何かを呟いたかと思えば、バチンと勢いよく俺の頬を叩く。
そして、澄んだエメラルドの瞳を潤ませ、叫んだ。
「〜〜〜大っ嫌い!!!」
その言葉を聞いて思わず目を疑った。
(な、何だこの反応は)
予想していた反応とは違い、ただ驚く俺を一睨みすると、彼女は足早に部屋を去って行く。
「リディア様!」
側に控えていたユーグが慌てて声を上げ、そして俺を振り返り怒ったように言った。
「イヴァン様、幾ら望んでいた女性とは違うとしても、何の断りもなしに口付けるだなんてあんまりです! 見損ないました!」
「は……!?」
ユーグはそう吐き捨てるように言うと、リディアの後を追って部屋を去って行った。
「……俺が、悪いのか?」
そうポツリと呟いたのに対し、周りにいた侍従達は分かりやすく一様に顔を背けたのだった。
その後、リディアの世話係には、元々レイラ嬢の世話係を命じるつもりだったニーナという、彼女と年端の近い侍女に決まった。
その侍女にリディアの様子を聞いたところ、リディアは体調が優れないということで部屋で休んでいるとのことだった。
報告を聞いて話を終わらせようとしたが、ニーナはリディアの心配をしているようで、怒ったように言った。
「イヴァン様、幾らレイラ様と偽ってリディア様がいらっしゃったとはいえ、先程の態度は流石に良くないと思います。
一度、リディア様に謝られた方が宜しいかと」
「何?」
ユーグならともかく、侍女に嗜められるとは思わず、苛立ちを隠さずにそう言ったが、彼女はどうやらリディアのことを主人だと認めているらしい。
彼女は俺に箱を押し付けるように執務机に置いて言った。
「リディア様は、先程の傷の手当てを自ら行っているようです。
女性の手に傷が残ってはいけません。
イヴァン様、謝罪と共に傷の手当てをしに行ってきて下さい」
「何故俺が」
「イヴァン様、私もニーナに賛同致します」
そう口にしたのは、なおも側に控えていたユーグだった。
侍従二人にそう言われたら行かないわけにはいかない。
それに、目に涙を浮かべて心底傷付いた表情をしていた彼女の顔が、脳裏から離れずにいたのだ。
心に芽生えた罪悪感というものもあり、俺は渋々執務机から立ち上がると、救急箱を手に、彼女がいる部屋へと向かったのだった。
「……って、寝ているのか」
どう謝罪するべきかを考えながら彼女の部屋の扉をノックしたが、返事がないことに疑問を持った俺は勝手に部屋の中に入ると、ベッドですやすやと眠っている彼女の姿があった。
「……」
一向に起きる気配はなく、どうしたものかと思案していると、彼女の掌に包帯が少々雑に巻かれているのを目にする。
(これか、ニーナが言っていた傷は)
寝ている女性に触れるのはいかがなものかと思ったが、この包帯の巻かれ方では治る傷も治らないだろう。
そう判断した俺は、巻かれていた包帯をそっと外せば、確かに掌に斜めに切り傷が出来ていた。
(“女性の手に傷が残ってはいけません”か)
侍女の言葉を聞いて、俺自身もまさか突き付けた剣を押し返され、怪我をさせるとは思ってもみなかったから驚いた。 それに、女性の手に初めて触れたが、その華奢な白い手に血が滲んでいることが、より一層罪悪感を募らせる。
「……」
怪我の手当てには慣れている。 包帯を巻くのだって切り傷が多い騎士には心得があるものが殆どだ。
だが、この令嬢……、リディアは自分で行っていた。
とすると、もしかしたら彼女が俺の“恩人”だというのは本当なのか……?
(……分からん)
包帯を巻き終え、他に怪我はないか目視で確認すると、彼女の喉にテーピングが施してあった。
(喉も傷付けてしまったのか)
手を伸ばしかけてやめた。
喉の傷は彼女が起きた時に確認すれば良いだろう。
そう判断し、寝ている彼女の顔を見やる。
あの印象的なエメラルドの瞳は、今は硬く目を瞑っていて見えなくなっており、伏せられた睫毛は長い。
さらさらの金の髪が、カーテンの隙間から漏れ出た夕日の光に反射して輝く。
(これがあの、悪女の噂の持ち主なのか?)
そう疑ってしまうほど、まだあどけなくも見える彼女の寝顔が視界に映る。
暫くその寝顔を見つめてしまっていたが、やがて息を吐き腕を組んだ。
(まあ、良い。 約束の一ヶ月という時間があれば、彼女の本性が見えるだろう。
悪女かどうか、それから恩人かどうかは目で見て判断すれば良い)
そう結論付け、彼女が眠る部屋から出たのだった。
それから、彼女と過ごす一ヶ月という期限付きの生活が始まった。
邸の中に他所から来た女性を招き入れるなんて初めてのことだったが、特に自分の生活に影響が出ることはないだろう。
そう思っていた俺だったが、その日運悪く一ヶ月ぶりに父上が帰ってくることを知り、リディアがいる理由を説明しなければならなくなった。
(恩人の身代わり、だなんて言ったら面倒なことになる。
一ヶ月後にどうなっているか分からないが、その時にまた説明すれば良い)
とりあえず、父上に此処に彼女がいることを説明しなければ、と彼女の元へ向かえば、何やら言い争っている声が聞こえた。
「何を大きな声を出している」
大声を出しているのは彼女で、俺は少し怒気を孕んだ声でそう口にすれば、彼女はくるっとこらちを振り返った。
「!」
その姿に驚き思わず言葉を失ってしまう。
その姿は、昨日見た彼女の姿とは打って変わり……、何というか、別人だった。
(昨日のあの似合わない化粧は、レイラ嬢に扮してのものだったのか)
そんなことを考えてしまっていた俺に対し、リディアは怒ったように「ねえ聞いているの!?」と言い、ずいっと身を乗り出して来た。
それに驚き反射的に後ろにのけぞりそうになったが、何とか堪え、彼女の言っていた発言に対し言葉を返すと、怒ったように反論する。
説明しても無駄だと思った俺は、その腕を取り足早に歩き出すと、彼女はエメラルドの瞳を伏せ、悔しそうに唇を噛み締めた。
その表情に俺は動揺したが、それ以上気にするのはやめにしたのだった。
その後、リディアと父上と対面での話し合いが始まった。
リディアは先程の怒りを全く見せることなく、完璧な笑みを繕って挨拶をした。
父上はそんな彼女がどうして此処にいるのかを尋ね、それに対して半年前、命を助けてくれた恩人だと話をすれば、リディアに対して質問を始めた。
俺はリディアが本当の恩人かどうか分からなかったから、慌てて彼女の方を見れば、その心配は無用だったようで、すらすらと俺が倒れていた時の状況を話し始めた。
そして、その話を聞いているうちに感じたのは。
(リディアは聡明なんだな……)
俺の看病をしていたことを、人には話さなかったわけには彼女なりの考えがあってのことだったとは。
確かに、彼女の考えが一理あって、その考えのお陰で俺が倒れたことを大事にせずに済んだのは大きかった。
しかし、リディアはその考えを自己判断だと言って頭を下げて謝罪したのだ。
その姿を見た父上は、大いに感激した。
あまり見たことのない父上の機嫌の良い姿に思わず目を瞠れば、父上はリディアが恩人でいることを信じ、俺には大切にしろと婚約者であることを認めたのだ。
これには俺も驚いてしまった。
(父上は人を簡単に信じない。 その父上が、彼女に心を開いた……)
思わず隣にいたリディアを見れば、彼女もまた驚いたような表情をして父上を見ていた。
父上はリディアに贈り物を授けようとしたのだが、リディアはその申し出を断った。 女性なら喜ぶだろうと思っていた装飾品などを、いらないどころか似合わないからと言って断ったのだ。
(そんなことはないと思うが)
だが、謙遜にしてはあまりにも必死で。
どうしてだ、と疑問に思ったまま父上に話を振られ、歯切れ悪く返してしまった。
そして父上は、リディアに俺と話でしたいと言い、リディアは部屋から出て行ったのだった。




