98.変身
「……まだやめてないの?」
それまでどんな会話をしていたか、アムソフィヤにはさだかでなかった。詰問じみた声にようやく、およ、と思って頭を巡らす。
酒か。
「焼けちゃうわ、せっかくきれいな声なのに」
「なんだいそんなの……はじめてきいたな」
「あー!かなしい!ぐでんぐでんで聞こえてないのね」
透き通った、すてきな声だと彼女はほめそやす。いつだったろう、最後にふたりで飲んだのは?
なんだか古い詩がうかんできた。
"かなしみの、滓すするごとく酒のみき"。
酒にまつわる言葉なら、たぶんこの星の誰よりもくわしい。
"いつでも自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない"。
女に酒飲みが少ないなんてウソだ――アムソフィヤは思うのである。先の食卓でふるまわれなくて、たしかによかった。
「ところでいい加減、ふりくらいしたらどうなんだい……アリシア?」
栗拾いのふりである。月夜の森で、ふたりきりである。親友の妻の名を口にするのに、調子外れたぎこちなさだったやも。
「……むつかしい話をしたそうだったし」
「鋭い勘も相変わらずだ」
うすいさざ波が落ちた実をよせ集めるさまを、アリシアスナはしゃがんで眺めていた。
このまま気がつかれないといい。
「安いゆすりだよまったく」
そのためにも、話題だってないよりはいい。不逞なちんぴら騎士どもをどう料理してやるか、アムソフィヤは物語の展開を練ろうとして、
「あのね、アム」
阻まれた。
木の間がくれの月光に包まれながら、じっと悲しそうな瞳をむけるアリシアスナは――極みの魔術師としてあるまじき、ずいぶん陳腐な形容だが――それはたいそう、うつくしかった。
「どぇ、なんだよ……」
夜目が効かずとも、なさけなく舌がもつれるくらいには。
ここにもやがて鐘の音が届くだろう。
---
二階へ駆けあがりざま、フランは言い放った。
「単騎のようです!」
「……単騎?」
鐘の音を聞きつけてまもなく、何某かが警戒線に引っかかった。
サンドバーン邸から迎撃に出たゼンはさっそく、月影が丘の稜線にうつす、一騎かぎりをみとめている。人馬ともども頂上からみおろしてぴくりとも動かない。
判断にはそうかからなかった。交戦の意志なしとみて、ベランダに追いついたフランには手ぶりで合図する。サンドバーン兄弟をともなって、不明な人物と意思疎通ままなるところまで、ゼンは丘をのぼりつめていた。
「"乙女の城"より伝令!」華奢な伝令何某かは、かすれた少年のような声であった。「外縁所領に不明な旗多数、重武装の由!被害の模様、仔細は不明。ハルバートンの防衛は貴家に急ぎ求むと、都市領主シルヴェストリ卿から要請!」
「この時機に……」都合のよい事変があったものだ。
「ちっ……」
修行時代もそうだった。ヴィクトルの舌打ちのほとんどは、特定の誰かに対してではなくて、うまくいかない状況にむけられている。大きな月があがっていた。隣領ハルバートンまで駆けつける明日には、まん丸になろうかという月が。
丘のいただきにありつくころ、ちょうどがやがやと気配がした。こちらの騎馬を追ってきたらしい、灯をかかげた農民の一団が、むこうふもとからのぼってくるのだ。
「ミゲル様!」先頭の青年など抜き身を手にしている。
「心配ない!」
サンドバーン兄弟が健在なさまをみて、農民たちは胸をなでおろした。うしろへ伝言して鐘を鳴りやませても、帰ろうとはしない。
「この領は正気の沙汰でないな」
"城主連合"の意向に反して、サンドバーン所領では一家に一振りの剣を農民たちに預けている。騎士が帯びるほか、城の武器庫からふつうは出ないものであるから、伝令は口走ったのである。
その人とミゲルは顔見知りのようであった。
「確かな報せなのか」
「私の関知するところではない」
「……伝令、相承った」兄とみじかく目くばせしてから。「当領は卿の要請に従おう」
「その旨、持ち帰る」
つんとすました足取りの、騎馬の息はもうととのっている。手綱を束ねなおして、華奢な伝令は馬首をめぐらした。
「……つまらんことで死ぬなよ」ミゲルに伝令した彼女が、男装の麗人であることに、そのときゼンは気がついた。「馬上のまま失礼」
「シルヴェストリ旗下の筆頭騎士シルヴァン。アベルの副官的存在です」ミゲルは手短に、駆け去りゆく伝令の正体を明かした。「不明な出自も、実際はアベルの婚外子であるとの噂が。実質的な跡取りでしょう」
跡取りといった。彼女が「彼女」であることに、ミゲルは気がついていないのか――?
伝令シルヴァンの影が戻らないとわかると、様子をみていた村の若い衆が、いよいよ駆けのぼってきた。ミゲル様!ヴィクトル様!と。
「なにごとか大事ですか」
「いよいよ戦争が!」「ジャンヌ様は!」
「案ずるな、まだなにもわからない」
彼らの訓練を日頃おこない、信望厚いのがミゲルであった。
「夜は常とかわらぬ見張りでかまわない。ただ門をかたく閉ざし、女子どもの寝床を見とどけ、戸締りを怠らぬこと」
とりまいて、みな神妙にききいっている。
「何者か不審に訪ねてきてもあらそわず、正直に答えるのだ。我々は都市領主の要請を受けて、ハルバートンへとむかう」
どのみち選択肢はないのであった。
「よいか。けっして手向かわぬこと……」
「ミゲル様、我々は身を守れます」
"城主連合"にうとまれるわけである。
「心強い。いや、今晩はよく知らせてくれた」ミゲルは解散をうながした。ゼンの目にもたいそう立派であった。
オリヴァーが裏手の女性陣を呼び戻したことで、サンドバーン邸の玄関先に一同がつどう。月闇のまま事項の共有を終えた。
「馬をもて」空の加減をみながらヴィクトルは唸った。
鞍はかろうじて足りている。会議は厩舎や厨房に出入りし、旅仕度をしながらになった。
「なんらかの陽動であれば?」第一懸念をオリヴァーはあらためて指摘。
「わたくしも居所を移しましょう」急所であることに、ジャンヌは自覚的だった。「意地を張らずとも、家はまた建ちます」
けれど領民を頼るなら、もしものとき少なからぬ血が流れる。
他に避難の候補地たりうるとすれば。「"旧都"となると、かかりますよ」慣れたオリヴァーでも三日は走らなければならない。
「現領都なら?」ゼンの提案。地図の覚えでは"旧都"よりはるかに近い。
「シルヴェストリのふところに……?」ミゲルの懐疑。
「騒ぎになれば、きっと向こうも困ります。それに――」「大使館には"商隊"がいる」少年少女。
いずれにせよたくらみがあるなら、敵は主要な街道で待ち伏せをするだろう。
「アスナ、頼まれてくれるか」ジャンヌを間違いなく逃がすのに、どこへであろうと護衛が必要だ。「お前が供なら安心できる」
夫の頼みを、アリシアスナはしずかに請け負った。月を見上げてからだった。
「ボクはおとりを走らせる」
役目の浮いたアムソフィヤ。この盤面の彼女はもっとも万能で、隙がなく、融通が利く。なのに強硬に志願した。
「どのみち誰かが旧都に報せなきゃ」それは一理ある。
「アム……」
「心配ないさ」
おのおのの馬をしたがえて、もはや行くばかりとなると、また一同をそろえた邸宅前には、神妙な空気がおりた。
「これを今生の別れにはしますまい」いちはやくミゲルがふざけた。
「余計な旗をたてちゃってまぁ」アムソフィヤがつづいた。
彼らはわらって、ちりぢりに夜を走り出す。
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今日びの弧大陸のすぐれた馬は、平気で一昼夜を疾走するそうな。やはりエマは余力を残せていたのだなと、しみじみとゼンは思い返せていた。ハルバートン領までの距離を問うたところ。
「馬たちがばてるより前には」
と、ミゲルも平気に答えたのであった。
「……猶予はある」
限られた範囲に届くよう、唸り声である。北東をむく殺風景な街道を四騎で駆けていた。耳をきって冷たい夜風も、大地を打ち鳴らす蹄音も、はげしく尻をつく馬の背中も、つねなら寝床で縁ないものだ。
「目をつむっておいで、手放さないから」
「そんなに子どもじゃないですよ」
ゼンの背中の側鞍で、フランは言った。
「敵はどなたと思いますか?」
「時間以外で?」
「時間以外で」
「だったらフランに敵はなしだ」
「もう……」
ささやくように笑ってから、ゼンは声を張りあげた。
「お訊ねします!名は何と?ここに傷のある大柄な人物……」たしか彼の目もとにはひっかき傷があった。
「オスカル・バラッツァですね!」
前をゆくミゲルとオリヴァー、あれはあれで兄弟のようだ。交互に振り向いて応答してくれる。
「西の荒地からやってきた――」「"エウロピア最後の傭兵"とかあだ名されています」「実際そうでしょう!」
彼は一見して侮れなかった、とゼンは軽くふりむいた。フランがご所望なのはこういうことだ。
「傭兵団とやらの規模は!」
「厳密には不明ですが百名はくだらず……」「かなりの精強揃いかと!」
「それもお前たちには刃が立つまい」
となりのヴィクトルだ。珍しい茶々であるのに、少年少女が言い返そうとすると。
「過剰な謙遜は嫌味だぞ」
蓋をしてくる。どこかで聞いたような口ぶりだ。ただ前二人には聞こえなかったらしい。
「頭目は正騎士を負かすのですから、配下は騎士団並みと思ってください!」オリヴァーは遠慮ない。
「その節はお恥ずかしいところを……」ミゲルが言うのは昼間の模擬戦のことだ。
「いや、理解できます」
それに……と続けようとして、ゼンは機会をあらためることにした。今度はフランに教えてやる。あてずっぽうもよろしくないが。
「……健常なダミアン氏くらいはありそうだ」
「気が引き締まります」"剣士ヴァンガード級"を意味していた。「そういうオリヴァーさん、腕に覚えは?」フランもまたはばからない。
「これでもかつては"盾持ち"を志しておりまして!」
オリヴァーはにっとわらうと、おどけて体をはすにした。
「このミゲルと互角、とさせていただきましょう!」「言ってくれる!」「ははは」
もっと性にあう生き方を、今では別にみつけたという。旧都の外交官あたりであろうか。
「そこにおられる頑固なお方の、一番弟子を志望したこともあったのですがね」
「弟子はとらん主義だ」唸り声である。
「そうでしょうとも、でしょうとも!」
「……他人に鞭撻をくれてやれるような身の上でもない」
ヴィクトルはほんとうによくしゃべるようになった。単語の数のことではなくて、胸の内側のことである。声はあいかわらず小さかったが。
「大丈夫ですから」「ええ、任せて」
並走していて手は届かない。少年少女があらためて伝えてみると、ヴィクトルは信頼あらわに深くうなずいた。
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極限までふくらんだ凸円の月が落ちるのを見、次にのぼる陽が夕焼けるのを見ている。
剣と麦穂の冠をあつらえたサンドバーンの旗を揚げて、不断な調査を一日中おこなった。異常は皆目みつけられなかった――最外縁の村を除いては。
地域が毒霧に浸って以後の、もっとも果てのところをいう。
もぬけの殻である。
麦打ち場も。集会小屋も。畑を守る見張りの塔も。
ものわびしいばかりの、風に軋む縄梯子。軒下に洗いざらした麻布に網。桶が伏せられた井戸端。
どこの炉の灰も白く冷えている。
敵の魂胆を看破した気でいたが、ここにきてわからない。
「……村の人たちはどこに」
血の匂いはしない。荒らされている様子もない。広い領地を二騎二組で手分けするから、全容はまして不明であった。少年少女はヴィクトルを思いやった。村長の邸宅をあらために行って、今は背中も見えないが、じきにひとりにはしておけない。
「家畜もいない」はたとゼンは立ち止まる。「一頭でも見た?」いえ……、とフランも気づいたようだ。
馬を確かめるべきだった。
屋根や木の葉や丘のあいま、最後のまぶしさを散らす橙色の陽に目をすがめながら、ふたり連れたって村の厩舎を探す。
「私にも聞こえました……!」
すこし小高いところに、納屋らしきそれならみつけた。わりと立派なやつだ。不機嫌な馬のいななきは、その中から響く気がする。
聞き耳をたててから、大きさのわりに軽い門をひらく。
漏れてさしこむ夕陽に埃が光る、中にはたしかに馬がつながれていた。走る装いをとかれてはいない。なにより近くの支柱を背に座し、何者かがこと切れている。
フランを待たせてゼンは向かった。
人物の装いは農民ながら、剣を帯びている。
ハルバートンの農兵だ。
「刀傷じゃない」
出血をみて、死者とは確信していたが、あばらを食い破られている。そばにいる馬の鼻息は、この場をはやく離れたがっている。
ゼンは次なる回避行動を、一歩身をずらすだけにゆだねた。
鋭利な、節くれた鎌状の肢と思しき何かが、的を外して支柱を破砕した。つなぎを解かれた馬が動転する。
キチキチキチ……、と威嚇のようだ。
巨人大のそれは、秋の昆虫の不快なしるしを、凝結させたかの異形をしている。猛烈な勢いの蒸気を全身から吹きだすと、陽炎がたって視界をゆがめた。
話は通じまい。
さらにもう一歩のいている、ゼンが抜きざまの一振りを浴びせると、昆虫はギェッ!と短く呻いた。陽炎も止んだ。天衝く"退魔の構え"をもって、
「スッ!」
縦に割りきる。いちども触れない刃によって、納屋のむこうの壁まで裂けて、あわてふためく馬の逃げ道となった。昆虫は転倒してから四等分になり、じゃばらの腹をちぢめて絶命しきった。
「……かみきりむしですか?」
となりまでやってきて、フランは指先の"緋矢"をしまう。噴霧物や流出する体液に用心し、ふたりして口にハンカチをあてていた。
「こおろぎかも。いなごに見えなくもない」
この嫌悪感、みなまで言わない。ただどことなく半端な印象をうける。納屋の影に溶け込んで、待ち伏せていたらしいけれども。
「状況証拠で、これひとつ?」
「一匹……一匹ですものね」
「情報が足りないな」
「時間も……」
ヴィクトルを迎えにいかなければ。
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たそがれと暗黒の間には、可視的な境界などないのかもしれない。
ゆえにこそ支配者(ゲームマスター、語り手、あるいは空高く浮かび上がるソレ)によって、次のよう宣告されなくてはならない。
――夜になりました。
と。
【少年少女も楽しんだ、とあるボードゲームのはしがき】
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夕星に広い野を轟然とかけて、予定地に馬を繋ぐ。
調査のついで、もっとも適切と判断した一帯だった。信用できる森を後背するこちらの荒蕪地で、明日を期待しよう。
真実を追求しきるのに夜は適さない。ことさら次の夜は。
「見られてる……」
森の入り口の、師のいるそちらの岩陰からは、剣帯をおろす音がした。
「法廷で有効ですか、"遠見"の証言は?」
「そう願おう……」
込み入った皮肉をいって出てきた。鍛えあげられた上裸には、銀色の傷跡がさまざまにはしっている。彼はヴィクトル・サンドバーンに違いない。たとえどんななりをしていようと。
器用に馬が駆け込んでくる。師弟のまえで制止する。
「できるだけのことは済ませました」
高い鞍からフランはおりて、おもての原をみわたした。
「世話をかける」
少年少女はただ頷いた。やさしい唸り声だった。
影は鮮明であった。秋の月のよい夜になるらしかった。
目をそむけはしない。
少年少女の見守る中間点で、ヴィクトル・サンドバーンは座していた。立てた片膝にひじをのせ、あたかも眠りにつこうとしている。
――そろそろだ。
――ええ。
激痛にもまれているのである。
びっしり浮かびあがるのが、傷病人にしかみられぬ汗だ。光をうつす玉になっては、彼の背中をつたって落ちた。
察知できる予兆、それは度を逸した陣痛のようなものだという。"共鳴性多変質症候群"の解明は進まない。発症者のほとんどが討たれるか、ずっと安楽な死を選ぶから。
今宵の空高く浮き上がるそのしるし、満月。夜の宣告者は日ごと律儀に満ち欠けし、満ち満ちたとき――あらゆる検証例に漏れず――彼、ヴィクトル・"ヴォルフ"・サンドバーンに、"変身"を強要する。
ある瞬間、その人は腰を弓なりにしてもだえはじめた。爪では虚空をわしづかみ、握りつぶさんとした。
股引きが裂け、皮膚が裂ける。ヒトの肉という肉、関節という関節が、いっせいに鳴りひびくのを、背後の森は増幅していた。やがて隆々とした骨格に、尋常でなく茂る白銀の毛並み、人ならざる異形をかたどりつくすまでの彼の絶叫は、こちらには記さずにおく。
ゆいいつの千切れ雲に、月のおもては明滅した。皓々たる光がとりもどされたとき、剽悍な彼の面長は、青い牙をかがやかせるのであった。
曲がった二脚で起立して、静かだ。
しなやかで隆々たる背を上下して、静かに息している。
長くて鋭い爪の隙々をめがけて、原をわたってくる夜風のなか、彼は平静を保てている。
谷で過ごしたかの日々に、明日のための術を学んだのは、なにも少年少女に限られない。
「クルル……」
"銀狼"の、おだやかな唸り声である。
不撓不屈の精神の、いまさら何を疑おう。
「この声がまだ聞こえていますか?」
フランの問答に、こっくりと"銀狼"は頷いてみせた。
「薄明までおよそ十時間――」ゼンは懐中時計をちらと見た。「うまくやり抜きましょう」
あいかわらずの琥珀色の、肉食獣の片目でぎろり。赤いべろをのぞかすおおきな口は、笑っているよう思えなくもない。
蒼ざめた広い馬道が、遠く原っぱのむこうにはみえる。
いくばくと知れない瞑想を経て、少年少女と狼は聞く。
(歩く断頭台とて今宵は……)
(まずいときにまずいところへ……)
かすかな夜風にまじっての、陰険な声、のみならず、そろわない多くの足音、鈍くこすれる武具の音、気のすすまない蹄の音、そして猟犬のしめった息遣い。
夜はまだ長い。ひとつの燭も灯さない、謎の一団の整列の完了は、悠長に待ってやってやることにした。百メルほどの距離がある。
彼らは烏の濡れ羽さながらの暗黒の旗――やましいところなどないが、やんごとなき事情で身元は明かせぬという意志――を掲げた、討手という体である。
(いけそうですね、ひとり百人ずつぐらい倒せば?)
ぼそりと少女が言ってみたところ、ヘッヘッヘと、狼がわらった。
「集団戦にはまだ早いようですが!」
並び終えてもだんまりなのを見て、ゼンは先手をうってでる。
「……ひとまず話し合おうではないか!」頭かどうかはわからない。騎士のなまりをした、若い男の声が大きい。「我らの目的は、そこな怪物だけである!」不慣れそうな覆面の布をひたひたとさせている。
「手には白刃を閃かせ、話しあおうとは穏やかでありません!」
やり返したのはフランであった。刃というのは、まぶしいほどに月光をはね返す。ぎらぎらとさせて気のはやいことであった。
「見覚えのある馬がいますね」ゼンは適当を言ってみる。「それともお城から盗み出されたのか」
"乙女の城"の厩舎にいた馬の顔を、およそ把握しているのは嘘でない。持ち主までをオリヴァーは暗誦できたのである。
「馬泥棒とは感心しません。軍務妨害の大罪で、絞首台ゆきであるとか聞きます」
口上で誘える動揺は、討手の指揮者らの経験不足を露呈している。なにやら議論がはじまった。船頭多くしてどこの山へでも登ったらよい。結論は声の大きな者にゆだねられたようだった。
「此度のハルバートン流血の元凶と比しては、盗みの疑わしさなぞ些事よ!其奴の狼藉を庇いたてるというのなら、女子どもといえど許してはおけぬ!」
なるほど、時間と空間の暗合を根拠に裁こうという。少年少女と狼が未然に書きおろしたなかでも、目録の最上にありえるような、至極かんたんな筋書きであった。彼らの思う「流血」の真実性には疑義を呈そうが――夜は議論に適すまいから。
「彼の潔白を森羅万象に誓える証人がここに二人……」"騎士"は今夜、誰を守るのかを暗に宣言し。
「お気に召すまま、謹んで受けて立ちましょう」"占い師"は不当な多数決に賛同しない旨を告げた。
少年少女がかたくななさまをみて、常道に忠実な討手の指揮者らは、まずもって猟犬を放たせた。
十匹そこいらが野を駆けて、はじめはばうわうと威勢がよかった。夜にも鋭い琥珀の眼光の一閃をもらってからは、そろって耳と尾を垂れて、きゃんきゃんと野へかえってしまった。
次いで情け容赦なく矢がかけられた。風は北西である。うまい具合に雨となり降り注ぐはずだが、少年少女と狼のあたりで、ひらと何かがかたく輝いたきり、どういうわけだか何も落ちてこない。二、三度繰り返されたが、不思議な結果は変わらない。
こうなるとあとは剣で打ってかかるしかない――となってしまえば、さすがに討手も考えなしだ。
「グ……」
不意な唸り声である。
「……ヴィック?」
「グ、ウウウウウ……」
"銀狼"がその場で苦しみだしたのは、にらみ合いの、とても静かなあいまのことだ。
誰か知恵をいれたものがいる。
「あの討手、何かを吹いて……?」
月闇に遠く、指揮者にくわえられている小枝のようなものを、集中した少年の視力はとらえた。
「……かろうじて陣地の外側です!」
「むこうは看破を?」
「それはまだ……」
少年少女の築きあげた机上の戦闘理論は、もはや状況の九割九分に対応できるといってもよかった。一方で、いつまでたっても残りの一分が、埋まりきることなどないだろう。
此度のは高周波を用いた音響攻撃、ということになる。護衛対象に固有な弱点を、敵はどうしてか知っており、こちらはたまたま庇うすべがない。
「ヴィクトル、我慢はむずかしい?」ゼンはハンカチの耳栓でふさいでやったり、あたりに剣気をまき散らしたりしてみたのだが。
「ルルルルルル!」銀狼は背を弓にして苦しんでいる。"変身"のときもさながらだ。
「むずかしいね……」
さいわい意志疎通がまだままなっている。彼らにはもはや常識であるが、自我消失が疾病の一要件とされる以上、さる理性は脅威的なふるまいであった。
「ウワアアアアッ!」
「いいんです、ヴィック!どうぞ森へ!」
「ガァッ!」
かぶりを振り散らしてから銀狼は、ハシバミの茂みをとびこえて、木陰のはざまの闇へと消えた。
「あとのことはゼン、あなたの目で」
感心しない独断にゼンはたじろぐばかり、非難しようにも悔しいことに、理性のうえで結論はでている。
「これは目録の二番目でしょう?」困った彼女だ、泣いて無謀をなじるくせ、己の身をまるで顧みない。
「……誓って無事でいてよ」
「信じて」
あとは野原の蒼い夜に、少女と三百人の軍隊が居残った。
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知らぬ間に左右の手で地を掴んで走る――おぼろげに残存するその感覚が、もっともおそろしいのだとヴィクトルは言っていた。銀色の影の後ろを、ゼンはばっちり追えている。森で好ましくない騎乗をとるのは、つづく夜もすがらを思ってのことだ。
具合の悪い朽ち木の枝が、頭上をかすめて鋭い音をたてる。ようようねつこうとした鳥が、驚きのあまり飛び去った。
訓練はしている。慣れた夜行はゼンに無心を誘うことも、物思いを催させることもあった。
たとえば木下闇に漂うブナのにおいのとき。駆逐されきらぬシラカバの白い幹が、月に撃たれてひらめいたとき。
――月に撃たれた、と気の病を表すこともある。
月の満ち欠けと同調した運命に、苦しめられる男の物語は古い。
己の意思となんらかかわりのない、受動的に、しかし必然的にこうむる"変身"を描く物語なら、もっと広い。
"銀狼"のときどきの瞑想に、ゼンはつきあった。対峙する森のはざま、木の間をたぶんに透かした月光は、白銀でゆたかな毛並みを真っ青に照らしあげる。
――彼の魂、彼の理性、そして彼の心の窓は不変である。であるべきだ。
たとえ外的様相とその本能が、動物ないし「その他」のものに接近はしても。
とどまろうとする不断な努力は、はげしい前進と区別がつかない。
わからずに境界を問いたがるものたちがいる。
正常性をうたがい、相違性を通告し、あやまちに違いないからと、たえず修正したがるものたちが。
"銀狼"が追っ手から取りあげる刃を、ゼンはことごとく破壊した。時を変え、場所を変え、数を変え、彼らは懲りずにあらわれた。こちらが慮っても、暴力を隠そうとはしない。
――ひたすらの恣意に任されるなら、人間ほど獰悪な獣は野にみつからない。
感性を御する理性を盾として築けぬ人間は、獣の「ように」狂暴にみえる。
内なる堤がいざ決壊するその刹那、人間には何が残されよう?
彼らの変身は、ふさふさとした毛皮を纏わないから特別なのか。義人を試すための、必要悪とでも口実するのか。
木下に並んで止まるフクロウたちと目があった。遠吠えにおどろいて目をまん丸にしている。
――その唇をもって誓ったことを、いつまでであれ、他者の目は裁かんとするだろう。変身によった自我のゆくえは、じっさいのところ、当人に説明できやしないのだし。そもそもの「我」なるものが、捏造されたうつろであると叫びたがる気持ちもまた、まったくわからないではない。
役割を模索している"黒剣"が、騎馬の鞍には垂れていた。あるいは定まらぬ境界を定めるために、ゼンは迷いなく抜く覚悟があった。
――本は言う。ヒトの想像とは、歴史によって身を養うものだから、時代とともにその姿を変容させてきた。
社会秩序に仇をなす、否定的象徴として、獣の・オオカミのしるしはひとつ、なかでもぬきんでていると。
人間存在を示唆しながら、もっとも非服従そうな体長の化け物ぶりに、人々は子どもっぽい恐怖をおもいだす。
一貫してそこにある恐怖。
野蛮な世界、森のふち、手のとどかぬ昏い水底。
万人にとって変身とは、内から内から逃れようとしてうごめく、根源的な不安の念の結実なのだ。
すべての人の胸裏には、謳歌する生とは裏腹、徐々に拡張する影の領域がある。
抑圧された葛藤の姿がある。
侵入への対抗措置として語られる"変身"のどこに、一貫性を鑑みて、正当とするか蔑するか。
前提一、人と獣は懸隔していない。
前提二、前後の同一性など獲得できるかわからない。
ここでの境界はしじゅうぐらついている。混乱を投げかけるだけで、どんな役割も果たしてくれない。だのに否定においてより頑なにする。
もしめじるしを失えば、ふと正気にさめた帰り路には、おぼつかない足取りが残るだけである。
---
「"月夜にも"!」
思わぬ人の呼びかけに、ゼンは柄をおさえる手のひらをゆるめた。
「"星は空に"!」
へだつ木の間を駆け抜けるまま、様子をうかがっていた、慎重な追っ手と思ったが。
「ミゲルさん!?どうしてここが!」
「近道しようと偶然に!」ミゲルは折を見て木陰をぬって、走らす馬をとなりつけた。「約束の辻に現れませんでしたね」
たまたまの森で、たまたまの人狼追跡劇。なにも驚いてはいないらしい。
「……ご存知だったのですか」
「ごく内密にと、アリシア様からは」
あとの話は、ふたりして激しい森の騎行を続けながらになる。すばやいだけで心配ない、基本的な衝動の抑制法だ。
「一年になる」前を向き、まどろっこしい言い訳をゼンは省くことにした。「誰ひとりも傷つけずに、彼は満月を乗り越えてきました」実際にはもっと多くの満月を。ただし目撃者はいなかった。「今宵も僕が見届けます。彼はまったくの無害であった」
十三度目に投じた硬貨も、必ず表となるいわれはない。しかし証拠として何もないよりましだ。
月光に隙のない互いのひとみを、ふたりがみとめあったそのとき、夜空とを微妙にへだつ森の枝葉の輪郭に、光の柱がつきささった。追跡をはじめてから、その実さして経っていない。
「ミゲルさん、"騎士"と見込んで頼みがあります」
聞きましょう、とミゲルは物分かりよく言った。この追跡と目撃は「他人」がこなすから価値がある。
「討手の主軍がなだれ込むのを、フランがひとりで食い止めている。僕の代わりに、彼女の背中を守ってください」
ゼンの使命である。言わずもがな本来は、他人に預けるなど、もってのほかな使命である。手放しで任せて後悔せずすむのは、この星にせいぜい二人かそこら。それでも迷いなく強く言えたのは、ミゲルが誰かの弟だからではない。
「あなたの自恃の心にかけます」
あえて結びつけてもよい。あの人物のそばに生まれて、ひがごころ見えず、なんの託ち言も聞けない。フリならたいした役者であった。立場をたがえば、ゼンはどうだかわからない。
「我が心命を賭して、そのご期待に報いましょう」
神秘の光のした方へ、ミゲルは馬を駆り立てる。道分かつときのひとことが、月闇の木立に残響する。
「兄を頼みます!」
なんの影にもゆるがぬ、潔さである。あてられてゼンは省察に書き加えざるをえない。
――鋤を剣に、本を杖に……何かに跪かない変身のとき、境界を掌っていた公共幻想の思い出が、役立つことだってあるやもしれない。
---
信じて、と言えたことがただうれしい。
昼間のあいだフランには、ゼンの推論をたっぷりと受講する暇があった。のっぱらに整列した錚々たる不詳の軍隊は、たぶん総出の傭兵団。しきりたがりは、お目付け役の"城主連合"の手の者だ。
「全軍、前へ!」
みようによっては賢明である。居残った、たかがひとりの小娘と、にらみあうだけの時間に訣別だ。
「そこのけ、娘!ただではすまんぞ!」
常識的には正論である。彼らが信じているうちは、演目も念入りにこしたことはない。よほど平気だけれど、念のため……――返事もしないでフランは考えた。ざっ、ざっ、と黒くておおきな塊が、むこうから近づいてくる。強がりなんかではなくて、びっくりするほど怖くない。ぷるぷるぷる、と唇を吹いてみた。ちょっとした準備体操だった。
ラシェリーを思った。
――おどおどした風を引き連れた、あなたの後ろで空は赤い……。
目をつむったままかぶりを振った。
――ひっぱられちゃだめ。
これではおのれの詩句ではない。
破壊と調和の哲学である。"魔術師"とは、既成概念に挑むもの。牽強付会の手品のために、見ものより先にみずからをあざむく。
構わず進め、指揮者の発する号令とフランの見解が一致したとき。軍隊はちょうどまるごと、"陣地"のただなかにおさまっていた。自信をもって、術師はまなこを見開いた。
『放恣な火の、私は統手』
声が不思議と野に音響する。
『いたずらに掻き立てることなくて、黙すままじいっとお待ちなさいな』
芝居が上等であればあるほどに、他者の確信は、あとから勝手についてくるものだ。
野のあちこちから火の手があがる。戦慣れした男たちの困惑の声が、その中を満たした。点と点とを焔がむすび、たちまち作り上げた巨大な迷路の中に。
火の粉が月夜に舞っている。フランまでを中につつみこむと、ますます炎はたかぶって、ぴったり出口を閉じきった。へだつむこうは、もう見通せない。
いかようにでもあれてしまう、それが魔法の原初の定義。自由であればあるほどに、決まりを作って遵守するのはむずかしい。創作された枠組みには、だから価値がある。この点ちょっと、フランは異様に得意であった。
いまさら《ありきたりな詠唱|メルポリ》もボクのガラじゃない、とアムソフィヤは机のはじまで教本をどけて、詩を書くことをまず覚えさせた。
『夕暮れはもう見張りをしません。お前のめざす森の空き地へは、何を頼りにお進みに?』
言葉と思考は右脚左脚だ。手ずれのした常套句も、置き方次第でかがやいてみえる。フランは思うがままに炎をゆききする。分断された迷い人たちの前に、ゆったりとした足取りであらわれては消えた。
『めもくらむほどの月夜でしょうか、まっすぐな道も迷うのに』
行為と認識が表裏一体だ。フランがちりばめるのはひとつまみの木くず。咳と涙を催す白煙がもうもうとけぶった。ばったり居合わせ掴みかかろうとした、大の男が立っていられない。
『ひっそりとした暖炉でも、灰の楽団を擁しております』
迷路のなかは、侵入者にとってこたえる熱さだ。用心深い傭兵たちもほとばしる汗に耐えかねて、装具を軽くする音が聞こえた。何人もが覚悟を決めて身を焦がし、たゆたう炎に挑んだが、なぜだか外へは出られない。
『火の荒ぶり、それは天来の作り物。お熱い熾火にご用心』
心を直接操作するとなれば、相手のより強固な内面に干渉しなければならない。けれど空間の操作であれば、物理法則が味方する。
馬たちはとっくに逃げ出したようだ。確かめてからフランは実行した。迷路の中には人間だけである。彼らには、ないものを強く信じることができる。
『よくお聞きなさいほら、ぱちりっ、と……』
雷でも落ちたかのすさまじい爆音が、迷路のいずこかで炸裂した。気丈な男たちが首をまわして不審がる。ふたたびフランが指を弾くと、反対側でまた鳴った。経験豊富な男たちが、仲間の安否を心配しだす。
『お応えなさい、訊ねたのなら。あまのじゃくを火は嫌います』
とよもすどよめきに、相互作用する彼らの心理は、想像力のたがをゆるめる。目にしているのは一面不透視の炎。耳にするのは不明に反響する唱えごと。不足をおぎなう親切な妖精は、誰の頭にでもすまうもの。
「魔女だ!その娘は魔女だ!」
その見解はおもしろい!アムソフィヤは無邪気に手を叩きあげて、こう続けた。
――なまじ名のあるモンゴメル君がくじけて以来、剣魔両道の研究は進んでいない。もしも魔術師に"刹那"が見えれば、冷却期間は縮まるか?むふふ、君ならどう考える?
結論。自認する時の流れに、依存する術もあるだろう。
「いたぞっ、始末しろ!」
指揮者のひとりと同じ通路に身をさらしたのは、もちろんフランの手の内だ。不安をかきけそうとする彼らの大声は、今にはじまったものではないし、出会うのに特別な術は不要であった。
猪行してくるその人とのあいだに、フランは軽く手をかざす。次は心の中にかぎって、となえた。
『"闇照らし穿て緋矢の雨"』
薔薇色の光芒からふりそそぐ"緋矢"は、直感的にとても恐ろしい。ゼンにまじめな顔して言わしめるのだから、よっぽどその通りであろう。
雨は順々にふりしきり、猪行する若人を制止、後ずさらせた。ためらうつま先に、"緋矢"が一本つきたてばよい――曰く、マムシに咬まれるより痛い――声にならない悲鳴をあげつつ、緋い針山となるのを恐れ、おかしな場所を彼は踏みこむ。
意識おろそかな手元をめがけて、大地から、紅い光の鞭がふるわれた。取り落とされた剣の刃は雨に焼け、惨憺たる虫食いざまとなった。
しるしをもたずば青ざめて、はてさて汝は騎士なりや――?もはやフランに用はなかった。
"緋矢の雨"を、おじけず防ぐ手練れもいた。剣を破壊してまわってしばらく、彼は立ちはだかったのである。
――傭兵団頭目オスカル・バラッツァ……。
どろぼう髭と、目の下にひっかき傷のある偉丈夫。炎の曲がり角からのっしりとあらわれると、彼の護衛対象であろう、声の大きな指揮者の首根をひっつかむ。乱暴にうしろへのけるのに片手間の剣で、"雨"と"鞭"からかばうのであった。
意図的に接触を避けてきた相手だ。ここで出くわすということは、"迷路"を攻略されたのである。
――前評通り、どころか魔術戦の素養をお持ちですね。
夜の行軍模様と"対抗"材料の乏しさから、術師はいないと踏んでいた。噂は聞いたことがある。
『……"西の荒地"には魔女がいますか?』
『いる』
ごく無警戒にオスカルは、だらりとした構えで対峙している。油断を誘う技のある、熾烈剣士なのかもしれない。益荒男の迫力だが、険のない声で言った。
「いずこでこれだけの技を?」
「師と仲間に恵まれました」
「まだ若い」
「少年とは可能性をうたうだけです」
「頷こう」
もしも"瞬歩"で詰められたなら、ふつうの魔術師は死ねる距離感だった。それがどれくらい現実的な死か、フランにはわかる。ただ何者かが文句を垂れはじめると、オスカルも背後がやかましそうであったので、炎で壁をしてやった。
「方位錯誤する無煙の炎……」オスカルは首をまわして、月の高さとを見比べた。顎をしゃくる。「これだけ自在か」たがいの主導権をはかる会話、というより、暇をつぶすひとりごとに聞こえる。わからない、術中かもしれない。
「それも一夜の陣地に一夜が相場、急けば一方何がしかは妥協する」
しかるべき秋の夜を過ごすよう、彼は涼しげな顔つきでいた。腰に帯びている、緑にともったランタンは、熱を帯びぬから"魔石"と思しい――じゅうぶんな文脈読解による抜け道の発見。オスカルがなしたそれを、"看破"という。
創り手としてかならずしも気分の悪いものではない、と、アムソフィヤが言っていた訳が、フランにははじめてわかった。
「青いのが多かったろう。手心に礼して然るべきところ……」経験が、オスカルにはあるということだ。ふちのくろい、鋭い目つきでこちらを見すえた。「悪いがこれも仕事なんでな」
ぞっとする殺気、本物だ。
――お遊びはここまでですね。
"刹那"。
オスカル・バラッツァは、偏在する火と光をつうじて、少女の意志を見聞きする。
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足もとで円環が灼熱する。満たそうとする高密度の力に、戦士の直感がおののいている。オスカル・バラッツァは"陣地"にあって、確実をとって退いた。
『"焦熱燬然す螺旋の光鎚"』
立ち昇るようにも、振り下ろされるようにも、その光のかたまりは見えた。海の巨獣のうめくような轟音があたりを満たしている。
――到底、子どもだましではない……!
煌々とそびえたあとの炎の隘路に、少女の姿は忽然とみあたらない。
「な、なんの光……!」
腰を抜かした"声の大きな騎士"が足もとにいた。"迷路"は刻一刻と形を変えるのだ。「おい傭兵、どうなっている!?」侵入者は話し声から、くまなく所在を補足される。
馬鹿め。心のなかで罵って、オスカルは剣をふるいはじめていた。夜空から赤い光の矢雨が降り注ぐ。大地からは炎の鞭が幾本も、するどい音で踊り狂った。
どこぞの馬の蹄であろうと、今は借りたい一心で、オスカルは、めったに聞かない口をきいた。「探せ!」「は?」「埋蔵される核を破壊しろ!」青い騎士は、やっと理解が追いついて、すすにまみれた顔を真っ赤にした。「許される口の利き方か……うッ」覆っていた口布が裂けた。一閃の雨が焦がしたのだ。「針鼠になりたいかッ!」驟雨はやまない。防ぐため剣は忙しない。これほど激しい護衛戦とはオスカルも想定外だ。対象が腑抜けであればあるほど、戦力は過剰に拘束される。
明白に、攪乱からより高い強度の戦術へ、術師は段階を移行していた。純真な声の一節が響くたびに、不透視の炎をへだてて野太い悲鳴がとびかった。
『可惜夜に 紡ぐ火の気はかきみだれ
百千に射そそぎ 縋りつく
炭に小柴の 火花のひらめき
天に星月 地に烈火
御太刀の軋りの 消えるひま
白銀を 身にゆだぬるか
ともしびを うちに抱かぬか
麦の畑に散る雨も
おしよす焔に あとがなし』
十代の娘の魔術詩作とすれば驚くべき所業だ。それも即興だと、オスカルは直感した――よもや古典の引用か――暴けば突破の近道となろうが、魔術師たちの好む出典は、下手をすれば女王暦よりずっと深いところに由緒する。
「"お客人"だよ、間違いない」
「みんな黒焦げだ!」
「……戦の掟を知悉しておる」
「死人よりずっと困りものですね」
――パク、コレッリ、ヴィスカ、テンテルマル……。
頭抜けた精鋭のわずかこれらだけだ、三百もの手勢があって、間違いなく無事に火の手をのがれたのは。それも護衛対象にあたる、若い騎士四名をひきあわせながらであった――連中には側近がいたが、そこまで守る義務も余裕もない――いまは暫定的な安全確保をなせた、炎の空白地帯につどっている。おのおの所持する、色とりどりの光源をあらためた。刃はみな鞘におさめていた。そして不意の問いかけには、素直に答えなくてはならない。
『"人狼"討伐が、あなたがた傭兵の目的ですか?』
『いいや』
彼女の"陣地"では、彼女がルールだ。
炭のような黒髪をたなびかせ、炎をくぐってあらわれた。品のよい町娘に扮しているが、得体の知れない少女である。ひとみには炎を宿して見える。あいかわらず一帯を取り囲む、橙赤色の情景であった。
「種は見破ったぞ!」
調子づいた若い騎士のひとりが言った。
「詐術としれればひ弱な術師よ!」
また別のひとりが言った。
「のこのこ姿を現すとはなっ」
どれも一歩うしろに隠れてはいる。
「我らも侮られたものだ……」
震えた声ではあったが、"声の大きな騎士"だけは、矜持をたもって進み出た。つづいて少女が返す言葉に、オスカルは鼻でわらってしまった。めったにないことである。
「こうは考え至りませんか?名誉挽回の機会であると」
「何……!?」
意味を重ねて彼女は言ったのだ。
かこむ炎の外側で、由来不明な剣戟があった。なにものかが近づいてくる。大地を打ち鳴らすそれは蹄である。またひとつふたつと、かんだかい鋼の音が近く、ついにたゆたう炎をぶちわって、何者かがころがってきた。
「うぅ……」
何某かが思わずその名を呼んだ、倒れるのは若騎士の側近のひとりであった。猛々しく馬が嘶いた。炎はおのずから道をひらいた。
「遅ればせ加勢いたします!」
ミゲル・サンドバーンが駆けつけた。馬の高い鞍のまま、勢いを御すため双方の中間をぐるっとめぐる。刃は抜かりなくかざし、目は少女にやった。
「要らぬようにもお見受けしますが……」肩をすくめる。
「大助かりです!」娘の娘らしい声である。「夜明けにはまだかかりますから」
「なぜ、ミゲル・サンドバーン!?」
前のめりに"声の大きな騎士"だった。つばをとばして必死なようである。
「おのれの身分を弁えてのことか!?」
余裕をもった沈黙でミゲルはこたえた。おりた馬尻をはたき、炎の外へとおくりだす。嘆息ついてから顔をあげた。
「わからんでしょうな、それが全てのあなたがたには」
「……覚悟!」
若い騎士たちが剣を抜いた。予備の剣の者もいた。考えなしに飛び出すのだから、オスカルも続くほかない。
『"赤気揺蕩う焔の明幕"』
近辺の仕掛けは破壊したはずだった。面前をはばむ炎のはやさに、オスカルでさえうろたえた。弾指の隙を許している。
『"赫灼する幻日の火球"』
不透視の、壁のむこうからやってきた――目くらましッ!――すさまじい閃光を過ごしたあとには、すでに炎がおりている。
若い騎士たちは揃いもそろって、大地に肘をついていた。
「一騎打ちは所詮前哨戦」
ミゲル・サンドバーンがその真ん中で、狼の耳をひくりとさせた。オスカルの、思った通りの実力である。
「群れが集うまで牙は隠すもの」
睨めまわして、刃をつきつけもしない。気があれば始末できただろうに、しめしあわせたよう、術師とうしろへ退いてゆく。圧していた殺気がしぼみだすと、とぐろまくあたりの炎まで、ふいに静まる気配をみせた。
訳はわからぬが逃す手はない。負傷者をそうするように、首を引きずって若騎士たちをたてなおす。
(術が尽きたの……?)(心からそう思えるかい)まだ若いパクとコレッリが疑念をあらわにささやきあった。
オスカルが思うところ、戦場にはかならず梃子がある。
さしこみ口のみきわめ次第で、何倍もの有利や不利をもよおす梃子が。兵数実力云々といった、あらゆる階層を圧縮するような理不尽さが。その勘どころには自信があるから、してやられたとは感じなかった。
めらめらとした炎がすっかりおりると、しずかで、月闇にゆたかな荒蕪地である。無事な団員たちが、そぞろにぞろぞろ立っている。同数がまた倒れているものの、意表をつかれるほどではない。
適切な配置は見事であった。
いっせいにそびえたつ光の柱は、あいまを縫って何ものも焼かない。超常性をしらしめるだけの演出――数えたが十二ある。圧巻である。
『あなた方の行く手を阻む、この私は――』
今夜の騎士をしたがえて、娘は森を後背していた。大地が鳴動する。照射は続いている。なびかす黒髪のあるところからは、煤じみたものがはがれだし、夜風にのりうつるよう見えた。
『当代水君・流瑠流転のネスフィヨルド直系にして、"火の神の村"の"火の神子"、"光輝燦然のフラムネル"!』
火の色をした明るいひとふさが、少女の髪にはあらわになった。
『我らが聖巡礼の恩人ヴィクトル・サンドバーンに、仇なす真似は承知しません』
中天たかくのぼった月が、陽のように鮮烈である。光をしずめた彼女こそ、頭上に引きつけるようである。
直面して団員たちはさまざま言った。昔話や、"巡礼の聖者"の実在性について。
「ずいぶん話が違ってきたな」頭目として依頼内容の確認である。
「今更なにを……!」「血は我らから流れるのだぞ!」「神子も妖魔も知ったことかっ」若い騎士たちは言った。総意かはわからない。どのみち応えもかわらない。
「契約は履行する」
そこらで煤まみれに倒れた団員を、オスカルは見た。
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まじないごとを朱墨で書きこんだ"おふだ"がある。それ用のポーチもあしらえてもらった。
うすーい旧紙幣素材――ナイショな加工をされるまえの特殊繊維紙だとか――で、満杯にするのに一冬を要したけれど、"護符"とはそういうものである。
ナナカマドの"木簡"も思うほかうまくいった。こちらは思いつき急ごしらえのわり、なかなかの出来栄えである。警戒線の定義や、おおざっぱな音の収集と拡散に役立てた。
種も仕掛けもたっぷりな、それはそれは長い月夜で――一息つくにはちょっと早すぎだ。
『荒れ野に二度実る、いちじくよ!』
術師にあるまじき近接戦闘をこなしながらになる――"谷"の日々、ゼンの対人剣稽古の模様が、フランにはたえがたいものだった。「ここまで」とヴィクトルが唸ったら、ふたりはとつぜん剣をやめる。そして過程をゆっくり再現する。そのゆっくりだってだいぶん早い。使う剣の、刃も速度も落としているが、ちょっと力むとすぱっときれる。"治癒"の回らない日は、絶対にぜったい反対だった。けれど必死なおかげで、目は慣れた。
『仇敵の通行権をやわらに拒絶する、汝が身は慈悲深き門』
バラッツァ傭兵団のひとりひとりが、専心級をくだらない。フランの所見である。彼らはやとわれ人として暴力をふるうが、極悪非道の罪人ではない。よって、こんな状況に適した"祝福"などない――ないと思うから存在しない。誰が正解を決めてくれるのさ?アムソフィヤはよくそうしてわらった。当たり前な詩作をなげいて泣きつくと、彼女はいつも励ましてくれた。無意識が独創性のひとつとすれば、君にはとんでもない個性があるよと。
『勧善懲悪物語、悪がないなら如くはない』
言い訳すまい。地中の護符から生やす"煌策"は、悪しき連中から着想をえていた。縮小した炎の迷路をときによって再展開する。いざない、奪い、刃にかぎって破壊する。
盾とつぶてもつかいよう、威力過剰な"神秘"も然り。
『よって注ごう友恩の杯、天杯満たすは……そう、名月の雫!』
何事にも対価は要る。
空腹、ねむけ、ものわすれ。おとついの晩御飯の味を忘れてしまうのは、寂しいような気もするけれど、いまのところの実感はない。無尽蔵の魔力がある、とうたわれる"神子"の肩書きは、想像のつばさにあたたかい風をあたえてくれている。あとは的を射た、引用か言葉遊びかだ。
『嗚呼、開けぬかぎり砦、明けぬかぎり守手!暁を、届けてくれるか、似した者。いずれなるや其は――』
城で"治癒"をほどこす最中に、ミゲルのうわごとを、フランは聞いた――不安な者ほど、ひとつのなにかであろうとする……――刹那の視線に同意は得ていた。
『人に狼に大騎士に!』
『その全てでありましょう!』
---
月光の充満した銀色の闇がしらじらと明け、澄明な朝の気配がわたってくる。数多の刃がうち砕け、さまざまに焦げついた野で、まともに立つ影はさほど多くない。
「武器の貯蔵が不十分だ」
すんと剣をおさめてしまって、オスカル・バラッツァは拒絶した。戦闘続行を命ずる若い騎士たちは、護衛対象であって、雇い主ではなかった。あらたな依頼主を名乗り出るなら考えないでもないが。
「せめて給金を清算してくれ、このところ支払いが滞っている」
「我らにどうしろと!?」"小器用な騎士"が言った。
「旗を巻くより仕方があるまい」
「野放図にするというのか……!」"大きな口の騎士"が言った。
「……何を」
「やはり傭兵!血も涙もないッ。これだけの死人を出して!」"声の大きな騎士"が言った。
「死人?」
合図とみて、テンテルマルが指笛を高らかに鳴らした。ぞくぞくと、野に伏せっていた団員たちが起き上がる。がやがやと一帯にぎやかになる。煤化粧の間抜けぶりをわらいあう。はやいうちから汚れは落ちてゆく。
『さらにこの上、私におのぞみになることがありますか?』
くばられた炭をかぶって、最初に寝たふりをしたやつは儲けたものだ。誰にでも機会は与えられたが、老ヴィスカを筆頭に、ミゲル・サンドバーンとの腕試しに燃えるものも少なからずいた。
「我々は撤退を宣言する」
夜明けまで、という契約であった。バラッツァ傭兵団は幹部を中心に粛々と点呼をはじめている。
「貴殿らの、巡る旅路に光あれ」
オスカル・バラッツァ、信仰の篤い人のようだ――フランは思った。身元を明かしてからの彼は、迫力のあるチャカジャンを演じてくれていた。そうでなくてはその人の剣域で、術師が夜通し立ち会えまい。
――あれで市民の評判はよいのだとか。
むかう道でも聞けていた。城での一騎打ちのあとの、不要な暴力にも加担していなかったという。フランは言ってやる。
「さらば行き人よ、お達者で」
首を斜めに傾げるような、武骨ながら実直な礼を、彼はのこすのだった。
金のかぎり、依頼は命と引き替えでも遂行する――傭兵の建前である。思いがけない罠にでくわすと、雇い主の正気をまずうたがうものだ。
さて。
ほとんどの兵の引きあげてゆく模様が、ひらけた野だからよく目にうつる。もはや暗黒の旗も見当たらないが、十名くらいの「討手」が居残った。若騎士たちとそのごく側近である。とてつもなく疲労していて、偽装していたはずのよそおいを取り繕いもしない。仕立てのよい装具の銀が、ぼろのはざまでちらついた。
「お前はもはや黙っておれ……!」
忠臣の耳打ちをはねのける、"声の大きな騎士"だった。ぴんしゃんとしたミゲルを盗みみて、思うところ多いらしい。なにかと選んだすえ、しぼりだすよう言った。
「……相当数の精鋭を送り込んでいる」まだ樹々が暗ぐらとおおいつくす、むこうの森を力なくさしている。「みな無事であろうか……?」
強敵の報せは特になかった。ゼンを困らせるほどの強敵、という意味にはなるが。
「ぐっすりお眠りになっていることでしょう」
若い騎士たちは緊張の一息をついた。悲喜こもごもに、すっかり理解したのである。のこされた彼らになせることはない。
「聖巡礼の神子の名にかけて、お訊ねしたいことがあります」
このときをフランは待っていた。あなた方にです、と若い騎士たちを前にたたせた。
「ラシェリー・ファミラマバーチ。名に聞き覚えは?」資料は隅からすみまで暗誦できる。要点を抽出する。「統括歴百二十五年の冬、北方森林の都市"見張り鳥の巣"にて発生した集合住宅火災。これの火元に関与した者は?」
若い騎士たちは怪訝そうな顔をした。名は知らぬという。火の不始末は大罪だという。
「もってのほかだ」「ありえない」
「誓えますか」
一晩自制したおのれを、フランは評価した。彼らはそろって潔白を誓えたのだった。
「私からは以上です」
ミゲルの方はわからない、思って傍をみあげると、にこっとしてくれる。兄とそろって役者顔である。
(彼らはまだ若い)目くばせ代わりに獣耳をはたとさせて言う。(正しいお導きは必要でしょうが)
"性格のよい騎士"たちのことだ。もみけされた真犯人像からしても、たしかに彼らはやや若い――火災のときすでに成人で、あるいはもっと大きな有権者の子息……――フランは考えていたのである。素行不良の若い騎士が、ラシェリーを燃やそうとしたのだと。よもや疑うべき人物は、この地から既に追放されている……?
いたたまれなさそうな若騎士たちに、手がかりを訊ねるつもりでいると、忙しない蹄の音が森のほうから飛び出してきた。みない毛色だが。
「大変だッ」
騎乗者はゼンだ。激しい息遣いの馬を飛び降りて、こちらへ駆け向かってくる。
「ヴィクトルが、"穴"へ……!」
大地に夜が明け渡り、真実をむかえるべき時がやってくる。
ちょっとお休みいただきます…(25/10/1)




