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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
誓いの章:賢狼の裾
97/106

97.回想


 ただならぬ聡明さの宿る、琥珀色の瞳をした少年が、朝露に濡れる黄金の麦穂の間を駆け抜けていた。

 誇らしいこの景色、少領にして底力のあるいわれであった。木刀を片手に常だれば、こんな狼のようなはしたない真似は誓ってしまい。

 急ぐのである。

 授与式をしらせた使者が未明の帰路に、一人稽古の後をわざわざ追ってきて、ご母堂が産気づいたぞといった。

 はざまの農道に飛び出すと、野良へ出たての百姓たちが、彼の背中に声援する。うちのひとりなど、

「坊ちゃま、これがよがんす!」

 おとなしい、がさがさとした南部馬の荷をあわただしく解いて、手綱をあずけようとした。農民にはかけがえのないひと財産だ。

「恩に着る!厚意だけしかと受け取ろう!」

 齢わずか七つを前に大の男をうちまかす、その少年の膝であった。ちかく異例の剣を授けられたなら、のぞまぬ土をつけることは、誰にだって困難になる。

 彼はすでに農村の門をゆきすぎていた。朝陽の目覚めをあなうらに感じながら、なじみの丘を登りつくすと、白い邸宅は見おろせた。父を「イグナシオ」と呼んだ巡礼の聖者は、囲いの要らぬ"聖域"として、サンドバーンの土地を定めたという。金色の夜明けであった。


 赤子の声、息をつめて見守り、または励ます助産婦ら、幸福そうに汗した母、あたたかいおくるみのやわらかさ――少年は想像した。玄関をぬらした昨夜の雨は、すでに乾ききっていた。

 悪寒に彼は足をとめる。

 やがては、うぶごえを手がかりにして、行き着いたのと思われるが。

 そこに父はもういなかった。

 ついた杖を半身にして肩をしゃくり、頑固そうで、それでも潔い名誉を身中にみなぎらせていた。そんな父はもういなかった。




 ---




 兜の黒い隙間の奥に、相手のひとみが見えぬものかと、騎士と騎士とが相対している。

 刃が閃き、観衆が熱狂する。

 勝者があった。


 それが兄だ。


 はじめて目にした兄だった。

 北方の寄宿先では、どんな騎士でも勝負にならぬという。十四で正騎士位を得た天才が領都にのぼってくるぞと、人々はうわさしていた。

 胸躍らせるおとぎ話は実在していた。


 もはやどうでもよかった。領地を出られぬおのれの身を、彼が知ってくれているかどうかなぞ。


 希望は強く灯っていた。おこがましかろうか――とんでもなく誇らしかった。




---




 知らぬもののない騎士として、彼は帰った。

 いくたびめの帰郷かはかわからぬ。

 偉大な世界にまじわりたいとあせる少年の心は既に彼方、まっとうする志も、かつてほど美しく燃えてはいない。

 暗鬱な帰り路であった。なにがしか事は帰郷にあたって起こるのだった。


 白い塗装の剥げかけた、玄関をくぐったとき、ちょうどロドリゴはころがっていた。


 正視するのにしのびない、子どもがぞんざいに放り捨てたがために、壊れてしまった木偶のようだ。 


 段を踏み外して転落したのだと、憔悴した母は言った。

 杖を突くとき、気をつけていることのひとつであった。


 よぎる。 

 平いた手でばんと机をたたき、沈黙を厳命する父。

 お前など悪魔に飲み込まれてしまえ、と弟に叫ぶ父。

 気難しいところはあるが、剣にまつわることであれば、なんでも機嫌のよかった父。


 いつからか()()と入れ替わり、急速に老い、ついにひからびた父。


 かいのようにぱしりと口を閉じた、弟が二階から見おろしている。




 ---




 時ならぬものの音に、サンドバーン家の回想は破られる。

「……何か聞こえませんか?」 

 窓外の秋の夜空をゼンはみあげて、窓のつがいに駆け寄った。開け放つ。


「鐘の音だ……!」


 遠くかき鳴らされている。農村の鐘だ。火事なら夜空の模様から察せるべきで――星の瞬く平静な藍だ。

「剣を帯びろ」「明かりを消して」

 食堂にともる電球は、それでぱちりと落とされた。


 ――巡礼の少年少女が聞けたのは、もっと肉感からとおい、にがくて淡い思い出話ではあったけれど、"回想"から伸びた影はともかく、真実の一側面を如実にとらえている。


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