96.サンドバーン家
墓標がある。
まだやわらかな秋の緑の草地のなかから、這いあがり、からみつくのは、とげとげな枝。
おそ咲きの薔薇の花々が黒い、暮れ残る夕陽のなかであった。
ひざまずき、短剣の刃先で棘をそっとのけ、何が刻まれているのかをゼンは確かめる。
「ロドリゴ・イグナシオ・サンドバーン……」
享年五十七歳、"麦畑の獅子"と銘打ってある。
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「早かったな……」
「困っていそうな気配がしたので」
先だって茜さすサンドバーン邸のおもてで、出迎えてくれた主要な人物はふたり。
ひとりは、みえない尻尾をしまったアリシアスナ。
もうひとりは、ヴィクトル・サンドバーンの実母ジャンヌ。
「話は終わっておりませんよ」
ただいまは母子が、食堂の机で対決している。
「アリシア様のことをすこしはいたわったのですか」
「まぁまぁ母上、これくらいで……」臨席して、文字通り肩を持つのはミゲル。「兄上もお疲れでしょうから」
「ミゲル、あなたは食事の支度」鋭いひと睨みは遺伝らしい。
「はい……」
「よいですかヴィクトル」
「は……」
信奉する師匠がしゅんとしていて、ゼンもさすがにしのびない。あとはできるだけすみっこのほうで、気配を消しておいた。
サンドバーン兄弟が二対一でも分が悪い――母親とはそういうものかもしれない。
長男の、ながい不在の間を預かっていた女主人の貫禄が、ジャンヌにはある。年相応に灰色の髪を束ねてはいるが、老母と呼ぶにはだいぶ気兼ねする。
立ち姿は思い返すまでなく、しゃんとして短剣を帯びていた。深いお辞儀には、むしろこちらの背筋が伸びた。所作は宮廷にいても一目おかれただろう。武人だったという話は聞かないが、そうだとしてもおどろかない。
やがて食器を重ねたフランがやってきて、入り口のところでおもしろがった。
「どうしたんです?」
「ちょっとね……」勝手口の守護者も限界だったのだ。ゼンはそろっと廊下へ抜け出す。「《助かった、魔石取りが魔石になるとこだ》」念のため"さなかの言葉"にきりかえている。
「《ふふ、そうなんですか?》」
行儀が悪いと怒られるだろうか?母子の再会のしめくくりを、ふたりはちょっとのぞきみた。
「しかし……此度もよくぞご無事で帰られましたね」
こちらからでは、母親の背中しかみえない。
「そのことが私はうれしいです」
「……ありがとうございます、母上」
食事の支度を口にして、ジャンヌはさっと立ち上がる。さっと振り向く。逃げ損ねたのだが、怒られない。
「まあ、いけません。お客様に……」彼女は薄い手をつっと伸ばして、やさしい声だった。
「平気です!」と、かさねた皿をゆずらないフラン。
「あの、すこし明かりを失礼しても……?」と、体面おそるおそるゼン。
「もちろんでございます」ジャンヌは丁寧に頷いた。
食堂のこのほの明るさは、電球に由来していた。
間違いではない。「電球」だ。
サンドバーン家の、窓の多い縦長な食堂と、夜闇にひたった牧歌的な景色とをへだつ異物。おなじみな"白昼灯"とは異なって、ほうろうの傘から垂れるかがやきは、強い熱をともなっている。
耳をすませば、じー……ときこえたやもしれない。ゼンはその真下のながい食卓に、黒革の手帳を押しひろげた。
「裏手の森をとられる可能性は低いと思う」ざっと描きこんだ防風林の絵を、万年筆でさして言った。「いちおう要所には"涙"を配したけれど……南北の警戒線は?」
「起動済みです」目を落としたままフランは頷く。もちかえった周辺地形図をよく飲み込んでいるのだ。
「いいね。順当に西方から馬を駆るなら……」"乙女の城"からきた道をなぞる。「最寄りの村落は避けられませんね」「そう。人目を嫌えば、迂回はとうぜん南北に」「正面西方は堅くしてあります」
念のためたしかめる。こちらは使用人夫妻の小屋、こちらは厩舎、裏手に小ぶりな倉庫がひとつ、ここからここまで外周に木柵。
「ふところの死角はどのみちだ。それより……」「ええ……」
ふたりは地形的な弱点を気にかけた。この屋敷――サンドバーン邸は、丘の稜線にかこまれており、全周囲の見晴らしが利かない。
「なかの見取りはどうだった?」
「こちらに」フランも赤革の手帳を広げる。
「上手にとれてる」
「ソフィが詳しかったので。簡単に説明します」
一階に玄関廊下(ここに階段)、居間兼応接、食堂、厨房、書斎、主寝室、湯室。二階に兄弟それぞれの部屋、客間が六。ほかこまごまな収納区画には武器庫をふくむ。地下室はなし。
「私がよくたしかめたのは、二階の――」西方に面した上等な部屋を、フランの指は捺した。「この客間だけです。ベランダから屋根に出られます」
「夜番はここで控えよう……はじっこのここは?」ひとつだけ黒塗りにされた客室がある。
「ソフィのガラクタ部屋だそうです」
「ああ……」
「ちょいちょいちょーい!聞き捨てならんよ~」
一緒にのぞきこんでいたアムソフィヤである。
「なにも恥ずかしがらなくっても」
ゼンはみあげて笑ってしまった。というのも、いつしか食堂に勢ぞろいだからだ。
感心したふうに、ずっと頷いていたミゲルとオリヴァー、その後方で腕を組んでわかったような顔のヴィクトル。
背中をさすって、なだめていたジャンヌ――誰をかと言えば、もりっと焼き肉の載ったアツアツの巨大鉄板を、鍋つかみで抱えたアリシアスナ。
「おわった?おわった……!?」話がやむと、みえない耳と尻尾がはえてきた。「せっかくのごちそう、さめちゃうよ~!」
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にぎやかな食卓になった。
「まったく恐れ知らずですよ君は」
「申し訳ありません……すこし調子に乗りすぎました」
「案ずるところはございません、家人には暇をやりましたから」
「そうだ、先生のお部屋にはないんですか、秘密の魔道具とかは?深夜を真昼にかえしてしまう、かの……聖者の杖のような?」
「なにをいうかねオリヴァーくん、ボクこそ君の言わんとする"暁転の杖"そのものさ」「こりゃ失敬!」
「……ずいぶんと腕をあげたな」
「ほんとに?ちゃんとおいしい?」
「ああ……」
「すばらしいお肉の具合です!アスナさん、いつでも用意ができるように?」
「そう、毎日森へ出かけてたの!」
年を取った樫材の食卓のうえに用意されたのは、鹿の焼き肉プレートのほか、塩餡の香ばしいパイ、酢のきいた豆感のあるサラダ、やわらかい白魚のあげものなど。
これだけ凝った用意をするからには、生半可な歓迎ではない。
ここが戦場になるような事態は避けたいが。
「あれこそ"暁転の杖"でした」ミゲルは手元のパンをむしって、プレートの肉汁を吸わせていた。
「フラン殿の御業でしょう」と、オリヴァー。
「そう、僕をすっかり治してくださいました。その節は重ねて……」
「七たび目の感謝のあとで構わんのだがねミゲル、君は芝居の練習をした方がよいな」「えッ」「なんだいあの大根ぶりはと言っている」「大根とはなんだ」「こうだもの!お、オリヴァかァ~、かたじけないぃ~……」食器をてばなして亡者の手真似をするオリヴァー。「よせったら」肘で小突くミゲル。ははは、とオリヴァー。
「ねぇアム?お台所でコロッケつまみ食いしたでしょ」「えッ、してないぞ!」「ふーん……?サラダにこんな味付けしたかな……」「いつまでも自由だね君は」
それにしても、にぎやかでよい食卓であった。
ほとんどの皿が綺麗になるころ、ジャンヌが満足そうに立った。
「食後のお茶をご用意しましょう」
そう何人も不要です。とすげなく言って、あとのお手伝い志願者たちを寄せ付けない。
ジャンヌの姿が消え、しずしず何名かが席につきなおすと、ミゲルは兄に体をよせて言った。
「ご安心されましたか」
「ああ……」
母親の足腰はきびきびたつし、食は細っていないようだ、という含みであったのだ。ちなみに給仕部屋はすぐ隣にある。
「裏手の栗も、まだほんの二度ほど収穫しただけですよ」
こもった母親の声が届くと、かわいいいたずらがばれた子どものように、一同は互いに見やったり舌をだしたりするのであった。
(お義母さま、うれしそうだし楽しそう!)
様で呼び合う奇妙な関係の、アリシアスナもにこにこしていた。ジャンヌのまえではいい顔をしていたい様子である。
「ところで、ふたりのお子さんは……」
当人たちに決着はついているらしいが、食事時のいまに至るまで、この家に幼子の気配はない。サンドバーン夫妻には子がいるはずなのである。
フランと目のあったアリシアスナは、長いまつげをぱちぱちとさせてから、
「おばあちゃまがもぉ手放さなくって!」
ちがったにっこり加減をみせた。
「おばあさまですか。どちらでお住まいに」ゼンが率直に懸念するのは、保安上の問題である。
「お月さまにあるお城だよ!」
アリシアスナは急にずいぶんと詩的である。なにかの暗喩を勘ぐる前に、オリヴァーが挙手をした。
「つまりは"月の抱きしところ"……"三日月旧都"の主城をいいます」
はて、と少年少女は顔にでた。
「ゆってないの!」「言っていなかったか」
とはサンドバーン夫妻。その夫人はどうどうと告げるのである。
「我が名はアリシアスナターシャ・エルカテリーナ・"ダンコヨーテ"・サンドバーン……であーる!ふふ、早口言葉みたいでしょう?」
かなり大人びた少年少女も、意表をつかれて童心を取り戻したようだ。
「すごい!」「王族っぽいお名前です!」「何言うのフラン、まっとうに公族だよ!」
「あっ、そうでした!?ごめんなさい、アリシアスナ様……!」
「だめだめ、フランちゃん!アスナって呼んでくれなきゃやだよ!」
このとき思いつかないでいるが、ゼンは日記にしるすであろう――アリシアスナターシャ。綴りが込み入るので、アリシアスナと変わらずさせていただくが、その愛称が"アスナ"では、ヴァンガードを「ンガー」と呼ぶようなものではないか――?いずれにせよ彼女は、はじめて出くわす人物であった。さらっと言ってのけるのである。
「直系はみんな亡くなっちゃから、おばあちゃままで倒れたら、私が最後のダンコヨーテね」
「……時が来たれば、公位におつきになられるのですか」
むむ、おカタいぞ!とゼンをからかったあとで、アリシアスナは真面目な顔をした。こうなると怜悧そうで、目つきもやわらかながら隙がない。
「私じゃ無理むり、これ一本だし」着席にあたって、置き場に立てかけた剣をいう。
「最高の教育をうけてきた。なんでもできて、本来はあたりまえなの。でも私はゼムルウェス公や、前時代の統手たちとはちがった……」
それから彼女は彼女の祖先、初代ダンコヨーテ公の名をいった。
「賢狼ホロゥは言ったわ。"矜持と家名で麦ならず"……統手の座につくのは、なにもダンコヨーテの血でなくていい。後継者たる器の人物があらわれるまで、おばあちゃまは頑張ってくれる気でいる」
「当代エルカテリーナ公は御年七十四、初代四賢公に謁見賜ったほどのご高齢ですが、まだまだご壮健であられます」内事情にくわしいオリヴァーは、アリシアスナと又従姉弟だという。「カッカッと踵を鳴らして廊下をゆかれると、城内の誰もが気を引き締めるのです」
「私の大げさな名前は、過保護なおばあちゃまがくださったのよ。気の強いふうで、心配性な人……私の言えたことじゃあないか」
すこししめやかな空気になると、ちょうどジャンヌが戻ってきた。茶器のそろった盆をそつなく抱えている。
「今年もそろそろ穫らねばなりませんね」
「ああ、栗ですか」ミゲルが用意を手伝った。
「栗拾い?はい!はーい!私がやります!」大きく挙手してアリシアスナ。
「本気なら従姉さん、今夜のうちにやった方がいい」
「どうして??いじわるな金鉱伯が攻めてくるから?」
「一晩へだてば忘れてしまうから」「あーッ言った!」「はて?従姉さんが手配するはずだったお客人の馬、貸してくださったのはどこの誰だったか!」
「う~、謝ったじゃん!?それ謝ったじゃん!いじわるオリヴァーめ!」
「どれだけなじっても、べそかいてた事実は変わりませんがね……どうも、いただきます」
アリシアスナのいい恰好しいが挫かれたのは、さっそく出迎えのときの話であった。彼女は土がついたからもういいや、というふうで。
「うえーん、ヴィクター……」もはや義母の前でもぐでんとなれる。
「悪いな、弁舌ならアムソフィヤを頼れ」
ヴィクトルもヴィクトルで、頭をよしよしとしてのろけている。みない顔だ。
「いっときは亡霊でないかと疑ったものですが」とはミゲル。
「お前も言うようになった」
ヴィクトルも自然な笑い方で応えた。一別以来たがいの身に起きたことを、つぶさに話せる頃合いだ。
「……長らく家を託けてすまなかった」
「母上がおりましたゆえ」
「母上も……」
「当然です」
ジャンヌはぴしゃり、なにも受け取らない。
「主人の留守を守り、おれば子を世話し、使用人に折よく指示をだし、農民と協調しながら更なる所領発展に励む、それが騎士に嫁いだ女の仕事というもの……」
つん、と姿勢よく一口めをふくんでいたのだが、
「もちろん、アリシア様は格別にございます」
耳をたたんだ嫁に気がついて、柔和にあらためた。
「……さ、私はあとのお片づけを」
そんなに気まずい空気でもなかったのだが、ジャンヌはすぐに立とうとする。
「あッ、お義母様はもう座っててください!」
そうはさせまいぞとアリシアスナ。だっと駆けつけてジャンヌを強制着席させたかと思うと、びゃっと舞い戻ってアムソフィヤの貫頭衣をひっぱった。
「行こっ、アム!」
ほんのいっしゅんの目くばせが、アムソフィヤとヴィクトルの間にはあった。
ふたりが食堂から遠のいてゆくのに、
「井戸汲みさぼろうったってそうはいかないぜ。それともあれか、洗うほうか?この家にゃ"食洗機"があるだろう!?」「あれ、よく知ってたね!」「誰が献上したとお思いですかッ?はい、解散!」「栗拾いもするの~……!」
とかなんとか聞こえた。ちなみにサンドバーン家には"湯沸かし器"もある。「異物」などれもこれも、迷宮探索家アムソフィヤの居候代である。
「……ときに母上」頃合いをみて、唸り声である。「残念なお知らせがあります」
「いまさらなにも驚きませんよ」
「近くハルバートンへ赴かねばなりません」
ジャンヌは目をみはった。らしからず、すこし茶器を鳴らした。
「どなたが……?いつ」
「先の一件です。かの家系は絶えました」
「そんな、ゲイリー坊やが。あの子まで……?」
「この先もただならぬ困難が、ハルバートン領には待ち受けております」
"夕霧峠"を発ってから、"商隊"がどれだけの遺体を埋葬してきたか。道ながら尽くしはしたが、汚染の除去とて完全かわからない。それがどこもハルバートン領である。
"使徒"らの脱走の報から、望めるだけの最速で対処してなお、はかりしれない被害とみえた。事後の懸念のため黒馬車はアメイジア大使館へと向かい、霧に浸ったリネンのシャツはどれも処分になった。
さて、エウロピアも此の地はダンコヨーテ"賢狼の裾"。どうしてアメイジアなどと遠異国の名が出るのか?
「魚は頭から臭いはじめる……」
歯噛みしたオリヴァーが静かにいうと、ミゲルがあとを引き継いだ。
「"狼裾の騎士"たる者として、身内の恥をさらす次第です……」
客人である少年少女にむけてであった。
この地の"騎士"はちいさな統手だ。ダンコヨーテ公からの預かりものの御領地にはなるが、開拓された盆地の防衛のために、多く騎士は農村の城に住む。むろん守護者であると同時に、監督者である。
正しく行き届けば、こんな話にはなっていない。
「かつては確かに"狼裾の騎士団"でありました。彼ら自身が否認しつつあるいまや、"城主連合"とでも呼ぶべきでしょう」ミゲルの視座は、じゅうぶんに高いようだった。「農民の暮らしを閑却し、どころか膏血を絞りたて、想像上の外敵との闘争にゆがんだ自尊心を醸成している。魂の目がくもった連中です」
「封建的な排外主義者、といったところですか」政治と歴史の基礎くらい、ゼンもちょっとはかじっている。断片的な情報で、それなりの推測も可能である。「それがよりにもよってこのダンコヨーテの心臓部で、公権の転覆を狙っている?」
「私めの力及ばず……ここまでの座巻を許すこととなって、まことに遺憾であります」この先を聞けばありありとわかるが、ミゲルひとりではどうともならないのが現状であった。
「ご想像に容易いように、むしろかつてのこの地は、国粋主義の結節点でした」
オリヴァーたちの説明はこうだ。
突き詰めればとにかく、"金鉱伯"の名が挙がる。
「それも病床にありながら今も実権を握るとされる、先代金鉱伯アウレリオ……」
鉱山の紫磨黄金をわがものとするドゥ・ニノー一族は、寡占した精錬・鉱山技術で莫大な富を築きあげ、周囲に金を貸し付けてきた。不本意な戦が重なる世が世であるから、その引力たるや。
「本日も勘定方のエスコーベルとやりあうつもりが、すっぽかされた次第です」
オリヴァー・クサカベとは、ダンコヨーテ公の使者であった。目をそむけたくなる実情にもくわしい。つまり"金鉱伯"の支援に縋らなければ、疲弊した"旧都"は遠からず立ち往かなくなる。
「本来だれば公の承認を得るべき城主領の裁量、裁治権の実行を、"賢狼の裾"でほしいままにしている。それがドゥ・ニノーです」
「あらたな領都には頼れないのですか」ダンコヨーテの現首都"賢狼の裾"のことを、フランは言った。
「お話せねばなりませんね、その都市領主が何者であるのかを。なんと当代金鉱伯ヘイランリックの盟友……」
「アベル・シルヴェストリ?」ゼンは思いつく、深みのある声の人物だ。
「はい。"北方森林"の最有力家、その現当主でもあります」
シルヴェストリ家は、かつて国粋主義の最先鋭であったが、国境問題にあたって先代が失脚「これとて金鉱伯の陰謀とささやかれておりますが」ドゥ・ニノー家に騎士徒弟として宿っていたアベルは、その切れ者ぶりをアウレリオに見込まれて、いまの地位に返り咲いた。国粋主義の大家が、転覆派にくだったということである。
「行き過ぎたところもあったとはいえ、愛国者の一粒種がすっかりいまや。首都"賢狼の裾"の名を"暁の丘陵"と、あらためて主張までしている」「地方名称との混同を口実にね」
東西南北の経済圏を掌握する"賢狼の裾"が解放されないかぎり、"旧都"は困窮しつづける。
攻めて落とせばよい、でもすまない。城どころか、都市であるのだから。
「アベル・シルヴェストリは都市領主――いまにいう知事であり、裁判所に立てば大法官であります。むろん大騎士ですから、都市部の戦力動員も思いのままに」
「それじゃ《独裁者》じゃないですか」
ゼンの発言にミゲルとオリヴァーは見合わせてから。
「進んだ国の言葉ですね」
そうであろうか?誠実で私欲のない"鷲爪の騎士"たちが恋しいものだ。ダコック団長に、アーロイス副団長、前向きな見習い騎士たちも――。
ときに危機が今そこにあるのなら、大公の代理人たる統括騎士の権限で、お縄にかけたりできないものか。
「証拠が足らん」唸り声である。「左様だったな?」
「なにもやましいところはない、というのが彼らの帳簿の言い分です」オリヴァーはたとえた。「曲がり角には影が見える。高く振りかぶる剣の影が。けれど正体はわからない、いざ角を曲がってみるまでは」
昼時に催された悪口大会くらいでは、斬って捨ててを説明できない。相手は仮にも"騎士"である。体裁はダンコヨーテの地の守護者。
「ヴィクトルに無茶はさせられない、ましてここは帰るべき場所だ。その点、僕らなら」
よそものという立場上、いざとならば好きに暴れてやってもよい。と、ゼンが示唆するので、フランは理解が追いついてきた。ただのお泊り会だとは、いまさら思っていなかった。
「それを恐れ知らずと申し上げたのですが……」オリヴァーは数字に強いようである。「あの中庭に見えたのは、あくまで首から上の部分。城主らが声をあげれば精強な戦士が三千名。時間が許せば方々呼び戻して、総勢優に一万の軍団にはなる。都市領にもまた近しい数が……」
「大それた数ですね!ぜひ別の戦場でお目にかかりたかった」まじりけなくゼンは言ってのける。「しかしどれだけの大数であろうと、剣は四方からしか撃ちかかれません」これも本気で言っている。
くっくっく、と肩をゆらしてヴィクトルは愉快がった。
「然りだな。まして手足のどれだけが、頭の随意に動こうとする?」
「一朝、戦争とならばサンドバーン所領の農民たちも味方です」黙していたジャンヌもつづいた。
「奥様までやる気とは……」
「何も恥じいるところはございません。盟友ハルバートン家とおなじく城をもたない騎士家として、不義には毅然と立ち向かわねば」
サンドバーン家が頷きあうと、オリヴァーもあきらめたように頷いた。結論としての沈黙が落ちた。
「……差し支えなければ、お訊ねしても?」
地図はまだ埋まっていない。礼儀としてゼンは迷ったが。
「"麦畑の獅子"について」
ほのかな緊張の顔色が、ヴィクトルにはしったところをみるに、やはりこればかり、話したくないから話さなかったのかもしれない。
オリヴァーは目でお伺いをたてるだけだ。サンドバーンのなかで、ミゲルがはやかった。
「是非ともお話しするべきでしょう」
肘をただしく置きなおす。
「人は言います。"麦畑の獅子"ロドリゴ・イグナシオ・サンドバーンは、"狼裾"最高の騎士であった。情熱的な農民の守護者であった。高い愛国心から、あらゆる騎士にも慕われておりました。膝を負った後も、名教官として。ただ父親としては――」
ミゲルは指先で、みずからの狼の耳をこねてから、言った。
「愛する力のない人だった」
夜がふけてくる。電球のある食卓で、サンドバーン家の回想が深まりゆく。




