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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
誓いの章:毒霧峠の怪
93/100

93.毒霧峠の怪 下


 夜明けがた、渓谷を這いのぼる濃いミルクのような霧は、山おろしの風に流されて、ふもとの村落をおおいつくす。

 まさか常ならぬそれであるとは、よほど目で見て気がつけはしない。

 井戸水を汲みにでて、手桶を胸に転落した娘。異臭がなにかとつきとめるまもなく、水際(みぎわ)でたおれた羊飼い。息絶えた家畜どもはもはや脆く、ふくれきっている。川面には、白い腹で魚が浮かびあがり、おおきな蛙は気味の悪い色でひっくりかえっている。

 谷底の逆転層に滞留していたガスの仕業だ。川面に沿って下流へ滑り降り、おもしろいほど人畜を殺した。

 あるいは光を散らすその瘴気は、緑白色のほむらをぱちりと孕むことがあったかもしれない。誰ももの言えなくなったころ、恨みつのらせた霊魂のように。


 "毒霧峠の怪"。本件がダンコヨーテ領にもよおした死者数は、わずか五日で三千名強と推計される。壊滅した町村落は十七――あの"悪心の呼び声"に匹敵し――避難勧告の怠慢が悔やまれた。




 ---




 化学的防護措置の指示は受けている。細身の腕輪を(はじ)いたゼンは、みずからが泡の結界につつまれるのをみとめて、帯びていた混合粉末袋をすかさずぶちまけた。もう片腕には、のぼり途上の縄をからめている。 


 ――硫化水素を含有するなら、結界表層に異変があるはず……。


 白く濁りきった外界とを隔てる、直径ほぼ等身大の"泡結界"に、触れようとした指をひっこめた。設計者の――この場合はアムソフィヤの好まぬ挙動は避けるべきだ。じっと観察しているうちに黒い沈殿を界面にみとめる。謎の原理でふんわり追従してくれて、日曜にふかしたしゃぼん玉よりは頼りがいがある。


 ――愚者の金でも採れるのかな……?このあたり、火山の話はきかないけれど。


 硫黄のさまざまな特性については、『滅びた世界の復興方法論』の化学技術の項で面白く読んだ記憶がある。けれど反応式はいくつも思い浮かばない。フランならまたちがうだろう。

 あるいは指にしてみてみる、このエウロピア銀貨。これが黒くなったらいよいよだ、定期的な目視を意識しておく。"泡結界"はうまく「換気」までしてくれるそうだが、縄ごと包んでいる今の状況までを、どれくらい許容してくれるかは不明だ。


 ――……丁寧にのぼろう。


 霧中にして、おのれの無事を現在に、峠道の無事は縄の張り方で察していた。もたもたしすぎると、あとにはヴィクトルがつっかえている。

 ただ思い出すのである。

 いかな"戦士"も毒には弱い。そしてたいてい、自由落下にもあらがえない。


 何度味わっても嫌なものだ。落ちるのだと気がついたとき、ひとりでいるのはありがたがった。

 態勢を存分にさだめる間に、浮き上がってくるはらわたにも慣れる。もろもろから逆算すると――十七、八メル――視界まっしろで利かないぶん、対高所落下の応用編だ。

 手厳しい重力を五体で受け流し、まず確かめたのは"泡結界"の無事――さすがアムソフィヤ――割れる気配はなさそうで。

「断たれたか」

 ほど近くからの、唸り声である。さすがにゼンもどきりとした。

「そのようです……」

 ふりむくといるヴィクトルは、おんなじ泡結界のなかであった。いつのまにやら合体していて、先ほどよりもぐんとおおきい。アムソフィヤの手品にはもういちいち驚くまい。

「ほとんどささくれてません」ゼンは縄を端までたぐりよせていた。何か鋭利なものに切断されている。「この霧中には、敵対的な飛行生物が潜んでいる」

「異論ない」

 まったくの無視界だった。この霧に、谷底で課された制約のこと、峠道と絶たれた連絡のこと。一挙に嵩ます危機的要素を、常識はうったえてやまない――そう、あくまで常識は……――と、たぶんヴィクトルも考えていて。

()()をどれだけ信用できる?」

 かくも核心的で難しい問いである。ゼンはつとめて理性的に答えた。潔癖なくせに風紀にしまりがない、アレことアムソフィヤを思い浮かべながら。

「……まぁ、全面的に?」

 



 ---




 深夜の方がまだ見通せた。谷底の濃霧が探索を妨げている。無謀さでいえば、安全具(カラビナ)のない自由懸垂降下とどっこい。つまり諦める言い訳には弱い。

 投下された伝言板は生存者を伝えてきたし、魔女を信じてみろともダメ押す。少なくともそう解釈できた。


『賢い少年は、パンくずに頼るまでもなかった。なぜなら……』


 民話の引用の語尾には♡があって、アムソフィヤらしい。ただいまこなしているこれは、どれかといえば『呪的逃走譚(たとえば三枚のおふだ)』だが。


 ――ちょっとした鈍器だね。


 ゼンが腰に帯びている、ずしりとした革袋のことである。中身は霧という名の追っ手を退ける「おふだ」、このばあい泡結界の"心核"で、うつくしく、さまざまに青い水晶球たちだ。小粒で透き通ったそれらを、"水の精の涙"とかアムソフィヤは呼ぶ。


 ――任せたよ。


 ひとりでに浮くから、これは魔法理だ。ゼンの指先をはなれた一粒の"涙"は、いいように泡結界の外へと旅立った。修行時代にはさんざんいじめられたものだが、いまでは頼みの綱である。それらの生まれた土地だからだろう、光源もとぼしいのにきらきらとしてみえた。

 細身の腕輪をゼンは無意識になぜている。涙にたいして、これは()だ。こんなところをうろうろするのは、いってしまえば使い魔の仕事である。


 ――……またなにか音。やっぱり、銃声?


 もんもんとして、肌で感じる。気のせいかもしれない。五セルそこらはあるだろう、ぶあつい泡の層のむこうなど、まっしろで見えやしないのに、首をめぐらしてから後悔した。

 上から何かが落ちてくる。反射でとびのく。これとて一度目ではなかったのだが。

 前はどっちだ。

 水面のしたでは、あなたの悲鳴は誰にも届かない。

 別行動中のヴィクトルとを繋いでいた降下用の縄のあまりを、いつのまにか手放してしまっている。 

 さして行くと決めた水源は北方にある。方位磁針をひらくべきなのに、ゼンは直感にしたがった。

 うけもっていたのは右辺、右辺だ。なぜ別々に行動をしたのだっけ?崖につきあたったら、いちどよじ上ってみてもいい、くらいに考えた。頭上では峠道の岩盤が、ネズミ返し状になっているのも忘れて。

 おぼつかないまま脚を踏み込み、つまずいた先の膝で、ついでに一休みをした。妙につかれていた。おかしな空間にゆきあたっていた。手の届くくらいの両端に壁がある。考えても訳がわからない。

 性懲りもなくたちあがる。ひきかえす。壁をなぞる。行く。また穴だ。なぜ?とにかくこっちではない。また行く。また穴だ。穴だ、穴だ……。

 穴だ。

 無数の穴があった。


 ――採掘鉱……。


 閃きがポケットからたぐりよせさせる。それはコンパスととりちがえた、実に懐中時計であった。しぶい銀の外装は煤けていない。ただいま時刻は十六時四十八分。


 ――……なるほど。


 視界がびみょうな玉虫色になっている。これこそ本命の毒なのだ。

 銅・亜鉛・活性炭粉末を含有させた泡結界の機能をかわせる未知の毒。それが呼吸層にまで浸透している。




---




 "夕霧峠"はその名のとおり、一年のうちたいていの夕どきに、つめたい霧を吐きだしてみせる。湿潤偏西風と放射冷却の都合である。かつては良好な水質のもよおす、緑の谷間だったそう。

 神秘に紐づく自浄作用の欠如も、もちろんあるのだろうけれど……。ぐるりを緑にかこまれているのに、そこだけ荒れすさんでしまった一因が、放棄された鉱山跡地にあるということは、まったく知られていなかった。それも適切な封鎖処置を行っていないんだから、(のちにしつこく追及されたように)重大な管理不行き届きだ。


 【おとなびた少年の備忘録】




---


 


 反射で掴んだ手首は、ヴィクトルのものであった。

(これは!)

 溺れないかと杞憂する、濃紺の水中にゼンはいた。目覚めと回復を自認する。どんなに泡ぶくを吐いても息苦しくない。おんなじ水槽の中で、ヴィクトルは手信号を駆使した。


 ――大事ないか。

 ――ええ、ヴィクトルは。

 ――問題ない。


 メダカの学校があるなら国語にあやかりたいものだ。かねて読み取れる唇と視線が曰く。


 ――あとはこの内部しかあるまい。

 ――生存者?

 ――左様。


 濃霧は毒性をあらわにしている。逃れられるとすれば然り坑道内。

 一縷の望みにせよ、あたりはついていた。


 ――あるかもしれない、どこかに退避用の空気だまり(エアポケット)が……。


 ほぼ触覚だよりの探索になる。窮屈で、なにもかもがたぶん朽ちかけで。毎度のことながら、未知の危険が潜んでいる。結界と閉所のために剣は抜けない。

 ふたりで穴から穴を網羅するのに、一時間くらいを要する、地図のない、とるにたらない冒険だった。


 ――あきらめの悪さが肝心ですね。


 ふりむいたとき、ヴィクトルは笑っていたと思われる。不定な坑道のどこか頭上の、妙な樫板天井は、じつに片開きの扉であった。内部をのぞいてみてわかる。それなりの重たさは、遺体がかぶさっていたためだ。

(こわくない。助けにきた)

 光源の皆無な暗闇だから、人の声を聞かせてやる必要があった。のみ跡のある岩壁の、熊の巣ほどの空間にうずくまるのが、少女ひとりきりとは予想外である。

 細身の腕輪をいじくりまわすことで、結界に意図をくんでもらう。水球をぬぷりと逃れてその"退避所"へとよじ登り、ゼンは初等なダンコヨーテ語を繰り返した。

「こわくない。助けにきた……」

 お化けが来たと思っただろう。水汲みか、羊飼いか、そんな野良着の女の子である。慣れた目で影がうごめくのをみとめて怯えていたのが、安心して泣きだした。

 坑道で待機していたヴィクトルが、残してきた結界内からのぞき上げるので、ゼンは仕草で合図する。


 ――あらゆる脅威なし。生存者一、遺体一。

 ――退路を確保しておく。

 ――事情を聞いてみます。


 さいわいどこも濡れていない。誰かがそうしてくれたように、手持ちの飲食を分けあたえて、距離を縮めることができた。

「あまい……」

「姉の好物なんです」

 少女をかぼそい声で喜ばせたその糧食は、蜂蜜とナッツと粗挽きオーツと、なにか素敵なものでできている。

 ひとり空腹で凍え、暗闇に声を潜めて、(とき)もわからなかった。健気な彼女はそれでも聴取に応じてくれた。領境の言葉と年頃ゆえに、ゼンには判然とせぬ詳細もあるが要諦は。

「この谷は、夜になると危ないからって。おじさんが、一緒にいこうって……」

「どんな人?」

「そのお兄ちゃんのお父さん……」

 お兄ちゃん、と指された遺体をゼンは見分していた。冷涼なために腐敗は進んでおらず、念のために脈をとったほどだ。"退避所"の慣行を知っていた知恵者か、幸運の持ち主である。

「この人は……」

「騎士様……」

 はたまた信念の持ち主だ。現代的な騎士らしく、粗鉄風の識別標を首に下げている――家名はヘルブルトン……ハルバートン?――物言わぬハルバートン家の青年は、上等な上着を少女にやっていた。ぶかぶかな腕部にほどこされた縫い装飾(ワッペン)は、白爪痕を模した縦三本線。この階級章で"見習い"だとか、世間にはみなされるわけだけれど。


 ――……あなたは命を守りました。


 騎士には相違あるまい。敗血症だろうか、脚部の複雑骨折が、彼の命を侵したようである。想像の域をではしないが、かばうべき誰かが腕にいたために、高所落着をしくじったのやも。

 ふと清浄な風が鳴いた。たしかにここは安全だ。通風孔が反対側の山肌にまで、おそらく魔法理で穿たれている。

「でも、じょうずに帰れなかったの……」

「もう大丈夫……おうちへ帰りましょう」




 ---  




 護衛長ゲイリー・ハルバートンを、凶行に駆り立てたものとはなにか?この時点の"商隊"に、つきとめる余地はない。なにせなにもかもが深い霧に包まれていた。

 ただ物語の神の名のもとに、もしかしたら観測できたかもしれない、いくつかの情報なら提供できる。


 たとえば峠の上道の、霧中で響いた女の声。

『それじゃ約束とちがうじゃない』

 こう迫られるのに、(まだこれからだ……!)とゲイリーは応じていた。

『見ものね、覚悟とやら』

 と、女はほくそ笑む。どちらも厳密には"霧の魔物"が届けた声である。


 ゲイリーが震える指で鷲掴むそれは、先進国の人間の目に、発煙筒としてうつったかもしれない。近しいものだ。

 "閃光筒"。

 霧がちなダンコヨーテ北部地方の任務に耐えうる、照明・威嚇用途の騎士常備品である。奇しくも――というより、このばあい必然的に――白リンを主成分とするそれは、水封された液室の破砕により、確実な自己着火を成し遂げる。


「止まれッ、ゲイリー殿!」


 ハウプトマンの制止もむなしく、ゲイリーは谷底へ身を投じた。そして兼ねて提案されていたとおり、"閃光筒"の安全環を引き抜く、それが十八時ちょうど。

 数種類の、じゅうぶんな引火性ガスの充満した谷間であった。道中イトーが喚起したように、ガスの致死的ではないポケット濃度にせよ、発砲はDDT (爆燃から爆轟への移行) を促す危険性があった。

 "閃光筒"もまたその機構上、火核のみならず瞬間的な圧縮波をともなう。 

 谷間の霧をかきみだす乱流渦に、白燐の火花が巻き上がる。火炎面積は爆発的に増幅する。わずか千分の二十秒にして燃焼前線は音速を跳ね抜け、轟音をともなう爆轟波へと変貌する――

 筋書きにはただし、非常識的な当代水君、アムソフィヤ・ネスフィヨルドがいあわせている。


 大爆轟そのものはきたしたのである。


 "商隊"が立ち往生する、峠のいただきは、うねった谷の、狭まった局所を見下ろしていた。底には山肌から剥がれ落ちた岩だの倒木だのが、堆く積み重なっていたりもする。おもたいガスは滞留し、風は逃げ場を失いがちになる。

 好的な条件で連鎖する爆轟はやがて、行き路も帰り路も破壊しえた、けれど。

 霧の中だった。

 深いふかい、霧の中だった。

 発火核を示す緑白閃に接触する、その無数の霧滴ひとつひとつ。峠を満たしきっている白霧。

 再考の余地があるだろう。

 いったい何に統べられた空間なのか?


 用量だけが「毒」を決定づけるのだ。


 いささか煩雑であったことは否めない。"水君"アムソフィヤにはのぞむところであった。前後すべての操作を言う。

 

 谷底の師弟の動向把握にはじまり、"泡結界"への自動迎撃付与――師弟が剣を抜かずにいたのは、いかな障害を払うためにも、一切その必要がなかったためである――認識をあらためての解毒層の水球状化・機能更新。師弟が坑道を探索する一時間余を稼ぐ、しらばっくれながらの周囲安全確保まで――巧妙な擬態で山肌を這い、声を届けた二個体をのぞけば――ほぼ完ぺき。

 残念ながら、霧滴の部分電離によるオゾン散布の試みでは、手の届く一帯のリン化水素解毒――PH₃ + 4 O₃ → H₃PO₄ + 4 O₂――しかまかなえなかった。ガスの散布は勢いづいている。発生源を叩かぬかぎり、峠道組を守りきるには対処療法的である。


 ここにきて爆轟。


 魔術師なぶん、音速には後手だ。即興性が求められた。

 きたす最大はトリニトルトルエン換算二~三十トンにおよぶ破壊力。完全な制圧は出遅れて非効率だと判断。顕現させる水層では、発火核から余裕をもった対処を決意。方面により四パーセント未満にまで圧縮するも不足とみて、"商隊"の全周囲防御を決定、一メル厚の半ドーム壁を展開する。足場の峠道もまた粘性水層で補強する。

 ここまで千分の百二十秒でのオペレーションである。不確実を避けた設計だった。


 統制された爆轟は、行き路だけを破壊することとなる。


 これだけこなしたのだから、さすがに許されたいもので、割を食うところがあった。

 瞬間的な高負荷により、谷底の師弟をかばう結界は、あるべきいくつかの機能を不可逆的に失った。それとてアムソフィヤが思うには――まぁ、あのふたりのことだから?――こんなところである。




 ---




 投下された伝言板には、破砕した蜜蝋を吹きつけた、一種の炙り文字があった。黒板に結界の水層が触れることで浮き上がる――暗号を用いる、ということは、そうでもしないと情報を盗まれるということだ。

 アムソフィヤは、敵が人間だと踏んでいる。

 生存者がほかに望めぬことを谷底の師弟は悟り、坑道で生き埋めにならないことを幸運に思った。

 出がけの時機が時機であれば、直上でそれは炸裂しえた、爆轟のただならぬ鳴動に面食らったものである。 

 鳴りやむのをみて谷間へ繰り出す。退化して窮屈な、ひとつの"泡結界"をなじり、ふたりは、おおきく息をととのえ始めた。




 ---




 "商隊"は崖っぷちにいた。

 一メル厚の守護水層が、役目をはたしてはじけ飛ぶ。爆風にぼっと叩かれたそここの斜面がちょうど、がらら、さらさらと鳴っている。

 衝撃の不気味な感覚に、臍をおさえてみることに、戦場の仕草を想起しながら、ハウプトマンは崩落のきざしを足元にみた。

「崩れるぞ!」道の後退を指示したい。

「けれどくだればガスが……!」イトーのすばやい正論だ。

 くわえて、じきに夜が来る。

 所要件をかえりみるに、時とともにガスの濃度は増すのだろう。

(合図をしたら霧を晴らす、身構えろ!)妙なことをアムソフィヤは周知する。彼女にだけわかる光景がある。

 物理・魔法理の両要因から、爆轟を経たむこう一帯の白霧は薄まっていた。水層の内側だったから、"商隊"はいまも不良な視界の中にいる。

 要は情報の取りあいである。


 ――ここで死ぬことね……。


 消去法をまじえながらもアムソフィヤは、もはや首謀者の居場所に勘どころを得ていた。通じた思念とてぐうぜんではない。


 ――そこ……っ!?


 アムソフィヤの気を散らせたのは、黒馬車の屋根のまとなりで立ち上がり、いまにもガスマスクをはね上げるフランだ。

「よしてください……」

 アムソフィヤはひとすじの鋭い高圧水流を、西方にむけて放っていた。フランが懇願を投げかけるのは、それより一歩はやかった。


「あなたなんでしょう、ラシェリー!?」


 命中の感触はない。あきらかにアムソフィヤも尚早だった。爆圧はむこうの霧を晴らし、射線を明らかにしているはずなのだ――いまのでレンジ外まで退かれてしまった……――速さも威力も不足していたろう。それでもいちはやく、誰かが手を汚す必要があった。"水君"でないなら、誰が?


『あきらめの悪い子……』

「なんと言われても!」


 "光輝燦然のフラムネル"の目くばせに、アムソフィヤはひどく苦い思いをした。

 愛弟子の記念すべき初仕事が死刑とは。

 もはや頷き返すしかない。


「あなたには選択肢があります!」


 少女の声は広い谷の隅々にまでこだました。


「耐え忍ぶのか、逃げるのか……!」


 もはやどこからも答えはない。


(およしよ……!)フランの袖にすがりかけるジニー。

(奥さん)アムソフィヤは毅然とはばむ。

 説明は要らない。少女に課された重荷が、この黒馬車なのだ。

 アムソフィヤは解毒対抗限度を夜と見ていたし、いざ谷風が吹けばもはや、高所といえど安全は担保されない。足場にしたっていつまで保てるのか。

 むこうも選択を迫ってきている。


(……撃ちます)

「今ッ……!」


 これまでなぜそれをしなかったのか、と問われれば、"水君"とて万能ではなく、時をともなう下ごしらえが要ったからだ。完了している。

 ふと眼前の霧が晴れるよりも前に、深紅に輝く光の大弓に、少女はつがえていた。その征矢の名は。


『"煌翼背し白騎士の破魔矢"』


 一閃。

 稜線に落ちかける夕陽を、まさに後背するかたちで、ラシェリー・ファミラマバーチは見下ろしていた――東西に目算一キロルも隔たれば、岩肌で、微動だにしない孤独な人影にすぎなかったけれど、フランにはわかった。

 これは知ろうとさえすれば、誰にでも知りうる情報だ。態度から類推できる。ラシェリーは死にたがっている。ただ素直には死ねずにいて、大勢を道連れにしながら、死に方を選びたがっている。

 たったひとりのことではあったが、奈落へ落ちかける誰かの窮地を、救うそぶりさえみせた女である。


 涙の一撃はすでに亜光速で放たれており――たぐいまれなる偶然だ。間一髪、彼らが間にあった。




 ---




 夕陽に目がけて走れと、谷底の湧水は急かすようだった。無呼吸で二百メル長を爆走し、垂直に近い五十メルそこらの懸崖を、騎士の師弟は跳ねあがる。

 冗談ではない、爆発的な酸素の消費だ。剣を登攀に駆使するために泡結界はとうに弾けており、ただところどころ霧は晴れていた。最後の白い滞留部を、ただいまふたりは飛び出した。


 守ろうと全力を賭したのは無論、ラシェリー・ファミラマバーチのためだけではない。

 異様に先進的な防毒マスクを、彼女は装着していた。黒地でぴっちりとした――やはりなんらかの先進素材の――防具を全身にまとっており、いっさいの皮膚の露出を避けている。だから痛々しいやけどのあとも見えなかった。彼女のしるしとされていた。青い目の隈には涙するのかもしれなかった。

 相手をせずに目の前の岩肌を蹴って、ゼンは宙を翻っている。

 "破魔矢"の強度は"光鎚"より鋭い。強い決意のもとだから、ためらいのまじったそれを、真正面からいなせたのである。空に弾かれた紅い光線は、夕雲に波紋を打ったはず。ゼンは反動でさらに宙を舞う。落ちつける稜線の岩肌を目でさぐっている。

 無防備になる着地間際を、当然のごとくヴィクトルがおぎなう。ラシェリーは抜いた刃で撃ちかかり、稲妻のような剣さばきで七合までも見事にやりあった。たがいに鋭い目つきであって、切り結んだ拮抗に際しては、何か通ずるものがある。


 ――左様にまでして命を無下に!

 ――騎士様らしいご高説ね。 

 ――貴様のそれを言う……!


 不安定な岩くれた足場ががらごろと音を立てている。

 ラシェリーのいまみせる剣は、不当に高い腕前であると評せざるをえない。それもヴィクトル・サンドバーンの理不尽さには及ばない。

 駆けだそうとして顔をあげ、ゼンは見た。

 "守護剣"に固まったラシェリーの、両の手首が刎ね飛ばされる。必要なのは捕縛だ。左のたなごころに"煌策(こうさく)"を展開する、ゼンは背後がとれている。

 すかさず振るのに、ふらりとした足つきで避けられた。先をかすめた彼女だが、そちらに避けるとは思わない。

 谷底なのだ。


「待ってッ!」


 さかさまに落ちゆくラシェリーが、最後に一瞥したものは、一キロルむこうの少女の髪に、きらりと輝く火のしるし。


『ようこそ、私の絶望へ……』


 湧きかえしている白いもやのむこうに、女は消えた。

 阻めなかった。

 人型人大のチョウバエが、"霧の魔物"の正体である。そこらじゅうの岩壁に擬態し、群れなしたそれらは、鎌のようなするどい前脚で、"商隊"各員に襲いかかっていた。爆轟を生き残っていたぶんでこれだ。耳を聾するほどのすさまじい羽音が峠をうめつくす。ただ黒い嵐として吹き荒れるのはいっときで、さいごは谷底の一点に集うのであった。


 霧につつまれ不明だった、毒ガス生成機構の話をしよう。

 工業じみた体内の強還元反応で、多量のリン化水素を生成してきたその生物たちが、"霧の魔物"の幼子か大親かはわからない。もとは坑道をゆききするのに適したような、大なり小なり黒いミミズ状の、あるいはウミヘビのような高圧肺を有する、目の退化した化け物であった。

 毒ガス吐出時に自燃する、副産物の煙霧体で"夕霧峠"をより白く染めあげた。おもには鉱物を喰らい、閉山をうながした硫化物をも喰らい、余念なく、(あるじ)の増悪を言葉通り、計り知れない猛毒へと変えてきた。

 いまこれらすべての「使い魔」が、(あるじ)を心核にかかげて融合し、質量保存の法則を(なみ)する、一個の巨大化を遂げるのに、どれほどの整合性を認めるのかは、介入するにはいまいち手遅れな、ひとつ魔術戦の領域である。

 目にしているのが現実だ。

 それが実際化学に未だ従順であると仮定しよう、目撃した複数の有識者につよく危惧させた。

 夕陽ののこりがそう見せている。ぐにゅりぐにゅりと膨れ上がり、いまや稜線に匹敵しようか、筆舌に尽くしがたい、玉虫色にてかる黒タール状の、巨大な有機物の、ラシェリーだったものが、無数の細長い管状の口から噴霧する、不明な気体は茶褐色だ。


 ――塩素ガス!?


 空は昏い藍色へと塗りかかっていた。

 翔ける翼でもない限り、とても無事には帰れそうにない。

 また理不尽なことだ。

 もはやこうなってしまっては。

 ラシェリー・ファミラマバーチ、せまりくる炎という名の運命のもと、彼女は(うない)をかがめるよりほかはなかったのである。

 "タール状の巨肉塊"、それがもくもくと吐きだす茶褐色の煙霧体は、どうみても、ほうっておけばみるみると峠を満たし、外界へ出かけ、さらなる殺戮をほしいままにする。

 だれかがそれをせねばならない。

 容赦のない"必殺剣"をヴィクトルが浴びせると、対岸のアムソフィヤが呼応した。

 

『泉は、穿たれるところにのみ湧く』


 情報戦だと繰り返し言っている。

 アムソフィヤの一節をしおに、すべての"心核"が起動した。

 谷底一帯にちりばめられた"水の精の涙"は、師弟の冒険の成果である。設置を、敵の使い魔に暴かれてはならない。注水そのものは、爆轟直後からはじまっている。

 既定路線の荒療治だった。


『水底の鱗介(いろくず)には聞こえても、我らが其処(そこ)で聞く耳をもてるか……』


 隠し立てする必要はもうない。

 莫大な清水の生成とは、莫大な質量の生成にひとしい。谷間になみなみとあふれかえり、あっというまに濁水としてうずまく。谷あいを最後のいどころとする"タール状の巨肉塊"めがけておしよせ、ひるませた。もーん……、とかなしい音でそれは鳴く。波間には残置された木杭や採掘道具がとびかっている。峠のあらゆる煙霧体が行き場をうしない、"水君"に掌握されはじめていた。


 この場はまかせてよいだろう。今は"腕輪"をしていない、ゼンは稜線を駆けはじめた。


 ――生存者の回収を……!

 ――流れにしたがえ。


 一帯が完全に彼女の陣地だ。念じるだけで、アムソフィヤと通じた。

 阻むものがあるとすれば、魔術師の手際をまねたそれ。"タール状の巨肉塊"は大水に負けんと、山肌にへばりつく細長い管のひとつから、黒色の液状噴射物を、方々鋭く浴びせかけるのである。

 懸崖を斜めに駆けくだりはじめるので、頭上の刃にて、ゼンの防御は片手間だった。

 はねのけるのが日課だった――そばのフランをすこしも濡らさずに、滝の流れをはねのけながら、平然としていられるのが、修行時代の課題だった。イイ感じの足場を確保するのに、おおきな岩を何枚もころがしてくれて、たいそうな労力だったろう――思い出が、アムソフィヤの"即興"を感化した。


『水滴石を穿つのであるから、飛泉であれば壺と化すのである』


 二振り目の"必殺剣"をヴィクトルが抜き、液状噴射物をたしなめていた。対象は馬鹿げて巨大なのみならず、不定形だから効果をたしかめにくい。

 ただ刻みあと目がけて大水は、着実な侵入をはじめている。勢いづき、こまかく渦をまき、更にさらには――意味をかさねた"即興"で、あやしい"夕霧峠"をまるごとのみこみ、なにもかもをきれいに片付けてしまう、おそらくは。きっとそうだろう。いまは夜闇につつまれかけて、判然としかねる世界だった。


『……千々に乱れる波の水隈(みぐま)に、君の若き日を私は弔う』


 しゃららん!とかき鳴る腕輪の音を、水流のなす轟音へ飛び込む間際に、ゼンは聞いた。

 

 ――たぶん復讐だったのだ。

 夢を見たのか、異分子だったか。技術樹形の飛び地をものにして、一財を築いた知恵者の、一族のうちで愚かしく育った子どもが、罪を犯して、罰から逃れた。

 一編が幕引いても、"商隊の聖巡礼"はつづく。

 ラシェリー・ファミラマバーチに火をつけた「騎士」が、この先にはいる。

 

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