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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
誓いの章:毒霧峠の怪
92/106

92.毒霧峠の怪 上


 "商隊"は崖っぷちにいた。

 これはもののたとえではない。物理的現実である以上、物理的な救済を要するものだ。

 不良な視界のなかで軍馬があえいだ。岩くれのために車輪はきしむ。激震に道は途絶えたのだった。さらなる鳴動が谷底への転落を示唆し、秒針は余命を告げている。

「よしてください……」

 ただ、彼らには強い信仰があった。

「あなたなんでしょう、ラシェリーッ!?」

 ここは"夕霧峠"。常ならざる白い瘴気のなかに、少女の願いはこだまする。

 いかんともしがたい救済を、仇敵にさえ求めている。




 ---




 彼らの冒険は、時を引き継ぐかの晩夏に再開した。

 緑したたる山かいをぬけた先のその峠道は、想像よりもはるかに荒れすさんでいる。水清き灰色のほとりと伝わる、コルパシア水源と現世とを繋ぐ、四方ゆいいつの道である。

 白く岩くれた斜面に、ときどき這いつくばった樹木の、がさがさとした木肌はもろい。旋回している鷲の声が、ヒッヒヒョウヒョウと耳を突く。信仰がもっと厚い時代には、ここもゆたかな土地だった。さて……。


●"賢狼の裾"標準時:14:07 / 環境所見:晴天 微風 / 視界:明瞭


 たどり着くや否や"商隊"は、便宜上「道」とか呼ばれるうねったそれが、単に風化を免れた岩石の突起物にすぎないことに、今度の一幕の険しさをさとった。

「……突っこめばあとは行くだけか」

 叩けば壊れてくれそうな石橋に、商隊長の的確な判断である。黒馬車に耐えられるとして、四頭立てでゆくのだから、転身はとてもむずかしかろう。しかし人命救助が題目である以上、車両の有無は確率にかかわる。彼らはほとんど迷わず行った。

 見かけよりだいぶ頑丈なようだが、普請のされぬ細道である――いまさら黒馬車の走破性の自慢はいわない。先立つ轍を区別するのは容易であるべきで、しばらく手がかりは皆無だった。

 一等目立つひねくれた木にようやく、結びつけられた大隊旗の切れ端を発見する。

「まちがいないよ、先遣隊のさね」

 馬車主夫妻には数か月の付き合いがあったのだ。"狼裾の騎士団"の手の者である。事態伝達はされているものの、後続の到着にはもう十日ばかりを要する。

「水源到達を待たずして、谷底へ下ったであるとか……?」 

 広々としており、深いは深い谷である。ただ目をやれば際限がある。湧水じみてちょろちょろとした水流は、調査の障壁とはならなそうだ。

 ヴィクトルの腕を借りながら、ゼンは真下までくまなくのぞきこんだ。

「……誰かいる」

 岩棚ごしだから、ほんとうにほとんど真下であった。呼びかけてみても返答はない。男のようだ。鞘を帯びた戦装束であり、岩壁を背にぐったりと座り込んでいる。手には抜き身をのせたまま。ほかには誰もみあたらない。まったく誰もみあたらない。

「やっぱり罠かもしれない」

 と、このときにはすでに周知されていた。つまり昼ぐらいにはすでに、徹底的に。少年はただ念を押したのである。

「でも見捨てるわけにはいかない」「ああ」


●"賢狼の裾"標準時:14:52 / 環境所見:晴天 無風 / 視界:明瞭


 降下はともかくとして、安全な上昇にはそれなりの道具が要るだろう。

 ここに都合よく、三十六メル長の麻縄がある。少年少女の修行時代の、例の滝つぼに放棄されていたものであり、なかば記念品であった。もちろん実用性もある。

 空中懸垂降下の達人もあきれる力技で、騎士の師弟は谷底へくだった。術師の浸透させた水が、縄の偶力を打ち消していた。すばやいものだった。懸崖に声は反響した。

「バイタルは!」腹ばいになって、顔だけで底をのぞきこむフランだ。

「脈はとれる!意識はないが著しい外傷なし!」さすがに物慣れた風に少年も応えた。

「念のため頚椎固定を!」「了解!」

 ゼンが顧みるうしろには、周辺警戒中のヴィクトルがいる。ふたりとも酢のしみた布で口鼻を覆っていた。

(お願いできますか、僕は試料(サンプル)の採取を)

(わかった)

 やりとりはそんなところであろうか。

 下流域の不審死について、つぶさにはまだ明らかでないが、いくつかの仮説がはやかった。要約すると、谷底へ無策の降下は許されない。たとえば先行させたランタンの変わらない灯りようから、燃焼試験は合格している。

「だいじょぶ、お守りだって持たせてあるんだ」

 アムソフィヤがいてくれるからなせる無茶である。どんな頑強な戦士であっても、青酸をふくめばいちころだ。

「五分経過!」イトーが時間の管理をおこなった。「異常ありませんか!」

「とくには!」

 おろした縄はほとんどたわまないようだった。救護対象をくくりつけるのに、ヴィクトルの手を煩わせた。形ばかりイトーとジニーも手を貸すが、ハウプトマンはひとりでも、ずるずると引き上げてしまう。

「些細なことでもいい!感じたことは逐次つたえるように!」

 谷底組へアムソフィヤは告げた。瓶詰めにした試料がともに上がってくるにはまだかかる。検証はさらにそのあとなのだ。谷底の師弟は、しばらくなにかを相談していた。

「上よりかなり涼しいです!」

 意思疎通のすべは、これから著しく損なわれてゆく。


●"賢狼の裾"標準時:15:18 / 環境所見:晴天 微風 / 視界:明瞭


 引き上げられた救護者は、疲れた顔の、壮年の剣士であった。

「ゲイリー殿か!」

 先だっての春のあいだ、黒馬車の護衛長だったという。道にねかせた彼の拘束を、ハウプトマンがほどくかたわら、フランは診察をうけもった。

「……眠っているだけのようです」

 安静時にしては脈拍がはやいか。結膜が多少の充血、呼気がにおう――……にんにくでしょうか?――献立までは解明しかねた。改善効果が予測できないことから、"治癒"は見送った。

 いっぽう"薄灰色"の荷台では、試料の検証がはじまっている。冬の過ごし方が功を奏して、実験器具ならありあまっていた。

「酢酸鉛紙黒化!」見立てどおりのあまり、イトーの声も高くあがるのだ。「硫化水素溶存です!」

「よしきた!だいぶんボクにもやりようがある」アムソフィヤも胸をなでおろした。汚染の除去なら単純作業だ――ありもしない解毒薬の創出にくらべたら。

「……だけれども原因はなんだろね」

「地殻変動による、あらたな火山性ガス噴出孔あるとか――?」合理的な疑いをはねのけて、納得するのは簡単だが。「同定を続けましょう、念のため」青いゴム手袋のままで、イトーは眼鏡を押し上げた。

 真相にいかに遠かろうが、おこなうべきは決まっている。

 ひとつがまさしく人命救助。

「ジニー、なにか手がかりは」フランが言うのは"精霊の声"についてである。このあたり相性がよいそうな。

「うん……」周辺警戒がてら、ジニーは黒馬車の屋根に立っている。「はやく迎えに来てほしそうだ」

 青空を背に精霊弓をたずさえて、長耳をぐるり山肌へかたむけている。

「"誰かが取りのこされてるよ"」

「!」

「すごくためらってもいる」ふたりの目があった。「……"君たちはもう来ちゃいけない"」

 おこなうべきふたつめが、問題の究明と解決。達成せしめて最善である。

 言うまでもない前提は、"商隊"も無事に帰還すること。

「――!」

 谷底からだ。何かが聞こえた。

「なんですか!?」フランはばっとのぞきこむ。こうでもしないと音がよどむのだ。

「霧が!」

「いけないっ」アムソフィヤも一緒に聞いている。「有毒性を否定できない」

「ひとまず上がってこい!縄を投下する!」三十六メル長の命綱を、ハウプトマンはかつぎあげた。


●"賢狼の裾"標準時:15:25 / 環境所見:晴天 無風 / 視界:薄霧 視程六百メル


 異様な速さで霧はたちこめた。

 うねり道のさらにまたむこうから、渓谷の底をなめるように、それはもうもくもくと。

「風はないのに……!」

 上と下では環境がちがうのだ。じっさい上でまぬがれながら、フランは案じた。下にいるゼンは今しがた、縄にとびついたところである。ハウプトマンが必死で釣り合いを保った。

「間に合うか……!?」

 押し迫る白き壁は有無をいわせない。それがヒトを害するものであるか否か、実際には不明であるが。 


「ふたりともっ、()()を弾け!」


 アムソフィヤの声の響くや否やだ、綱のぼりもなかばのゼンは、白濁のなかに飲み込まれた。むろん番を待つヴィクトルも。

「間に合ったはず……」

 底の見えない大穴に、命綱なしで放り込みはしない。ただしアムソフィヤ謹製の防護手段は、ゆえあって音まで遮ってしまう。「無事ですか――!?」無事であったとしても――もちろんなかったとしても――彼らの応答を聞くすべはない。のぞいてみるにせよその谷間はいま、すっかり白く蓋されていた。

「生きてるさ、まちがいない」

 縄はつよく張りどおしでいる。まだかかるだろうか、"商隊"は待ちたかった。もふっとゼンが飛び出してくるのを。


「あ、アムソフィヤ・ネスフィヨルド!?」


 だしぬけに思わぬ発言者であった。みな一様にその方をみた。

「《ボクも偉くなったものだね!わかるよ》」

「《なぜあなたが……私は――》」

 護衛長ゲイリーである。肘で半身をもちあげている。血走ったまなこで、ささえる額には汗するようだった。年がらのためか頬がくったりしてみえる。

「"商隊"見参!ってトコさ」公用語をうながすアムソフィヤは一員面だ。「いまならなんと、ヴィクトル・サンドバーンの()()()つき♪」

「サー・ヴィクトル」壮年の騎士は、あっけにとられた面持ちで、ほんのしずかにつぶやいた。「――おられるのですか」

「この縄のむこうに」

「ハウプト殿……」

「ゲイリー殿、その節は」

 するとハウプトマンの手の中で、ひし、と縄がきしみだした。ゼンは様子を見ていたらしい。上昇を再開するのだ。

 "商隊"は一息つけた。

 ゲイリーももはや大事ないとみえる。革製の頸椎固定具は、フランがはずしてやる。

「……面目ない」膝ですっくとたちあがる彼は、何かを不思議がりはしない。「私の(つるぎ)はいずこに……?」柄のあるべき場所をまさぐっていう。

「こっちだよ」

「奥方」

「もすこし休んでたらどうだい」「いえ……」

 "薄灰色"の実験模様が、エウロピア人には奇異だろう。ガラス容器中の溶液につけてはさいばしで取り出され、黒く染まってしまう銀貨は、どうやらそれが一枚目ではない。

「……なにかしら未知の還元剤が?亜硝酸に有機硫黄。ヒ素!亜ヒ酸ですか、しかし――」かかりきりでいて、イトーは挨拶もまだだ。「少々お訊ねしても?」ご無事でよかったですねも言わない。「覚えがありませんか、印象的なにおいであるとか。吸い込んだおりの症状であるとか。ええ、かいくぐってこられたのでしょう、この霧を」

「つぶさには、どうにも。あいまいで」ゲイリーは寝覚めが悪そうだ。

「そうさ。ほかの子たちはどうしたんだい……?」調査にむかった顔ぶれは、長耳に言わせてみればなおさら、ほとんど子どものあつまりだった。

「それは――」

 (つか)をとりもどした壮年の騎士は、とにかく何かをためらっていた。およがす視線は、"商隊"の顔ぶれのあと、一本きりの縄へとゆきつく。それは谷底の師弟のために垂れている。

「むっ!」

 不意にハウプトマンが尻もちをついた。縄はちっとも手離さずいるから、引きあう相手を失ったのだ。

「落ちたんですか!?」

 あるいは、霧中で縄が断たれたのやも。

「強烈な腐食作用があるのかも……」

 アムソフィヤは懸念した。たくした"お守り"に不備はあるまいか――?

「魔物です」と、ゲイリー。落としがちな目をようやくあげた。「……霧の中では、魔物がでます」

 

●"賢狼の裾"標準時:16:01 / 環境所見:おぼろげな晴天 無風 / 視界:霧 視程三十メル


 伝言板――もとは"軒並みな居間(リビング)"にあった黒板だが。それの投下が、うまくいったかはわからない。おおむね必要な情報を記した。たとえばまず――。

「頭数分の防毒マスクはない」自給式呼吸器の購入申請は、本国に保留されていた。「フィルターの有効性も未検証だ」

 それから、先遣調査隊はコルパシア水源まで到達するも原因をつきとめられず、帰路の霧中で離ればなれになったというゲイリーの証言。

「可能性として、まだ付近にどなたかが……?」

「おそらく……」

「好材料その一。ゲイリーくんは夜半をさまよって、すぐには昏倒しなかった。ね、隊長さん」

 ハウプトマンは頷いてひきつぐ。「その二。上道の踏破は夕暮れに間に合う」突入に際して試算済みである。「ただし谷底は……」

 有視界とは思えない。

「動きは追えてる」アムソフィヤはいう。

 いくらあの師弟でもてこずるだろう。一方、その気さえあるなら、自力でどうにだってする。それが動かない。伝言板は投下済みだ。

「いざあらわれるなら、むかいだろうね」

 視差のある対岸の峰そして懸崖もようが、白くかすみはじめていた。おぼろげな日は頭上で拡散し、最後かもしれない虹を輪でえがいている。

 めいめいしっとりとしはじめた衣服をさすり、決断を待った。

「――動き出した」

 わかっていた。結局、はやいかおそいかなのだ。

「前へ……」

 霧はいっそう濃くなった。


●"賢狼の裾"標準時:16:14 / 環境所見:天気不明 無風 / 視界:濃霧 視程五メル


「今のはあぶなかった!」

 ヒヤりとする場面はこれまで幾度となくあったが、ハウプトマンはいよいよたまらない。

 生物には制約がある。光の届かぬ先を見ようがない。御者席からもう「ふち」が見えない。安全柵のない、峠道である。

 霧に包まれた勾配の歩きにくさのなかで、先頭の馬車馬のうちの一頭が、踏み出そうとするのは谷間であった。徐行にも限度がある。それか真っ逆さまか。 

「私が」

 くびきをたぐりよせ、間一髪で引きとどめたのはゲイリーだった。何か決心のついた声である。

「私が先導します」

「援護しかねるぞ!」

 正騎士である以上、腕前はたしからしいが。

「頭上にご注意を」はやくも音しか届かない、灰色のなかにゲイリーは溶けていた。「ヤツらは人をさらいます」例の魔物のことだ。

「聞こえたか!?」 

 かえりみても、うしろの様子はまったくわからない。やたら叫ぶのも悪手らしい、谷間に音が反響しまくり、方向を見失う。

(心配しないで、ボクがつなぐから)アムソフィヤは屋根うえである。目端で白い裾がひるがえるのだけ、御者台からみえる。

(こっちはいい、とにかく後ろをたのむ……!)

(わかった……)

 なにもかもがおぼめいている。

 ハウプトマンは汗ばむ手綱の握りを巻きなおして、ポンプ式散弾銃の薬室をあらためた。完全武装でいた。これで間に合わなければどうしようもない、ありったけの実包をひっさげている。

 射程はともかく、視界がきかない。

 霧が「ひとり」をしたてあげていた。

 いっとき、ひそめた息をのむ。

 ズズズ、と不吉なこの羽の音は、いったいどこから鳴っている。


●"賢狼の裾"標準時:16:28 / 環境所見:束の間にさしこむ陽 無風 / 視界:濃霧 視程一メル


 霧中にまいあがる、少女の影があった

 なにものかに攫われたのである。

「助けて!」

 それは人の声をまねた。

「キャッ」

 断末魔も然り。虹の光彩にどこからともなく撃ち抜かれ、谷底へと転落したはずだ。かかえた少女の影とともに。

(ジニー、いますか!?)

 本物の彼女は無事である。ただし濃霧の中である。荷台につないだ縄をたぐって、どうにか方向をおぎなっている。

(ここにいるよ……)

 手と手が触れてやっと、たがいに本物だとわかる。ふたりの分担は後方の守護だった。

(いまの、どうやって……)

 明るんだりかげったりする霧の宙に、自分の影がさすものだから、フランは幻術をうたがったものだ。

(ほら、静かな時間が長かったろう?仲良くなっておいたのさ)

 なんと幻術にはちがいなかった。エウロピアの地になじみはじめた、ジニーの"精霊魔法"である。

(不足ないようだね……)

 ()()の襲撃は、前方でずっとはげしいようだった。ひっきりなしの射撃音がある。耳栓をしてやったとはいえ、馬車馬たちが不憫だ。

(あんたもさ、つけとかなくちゃ)

 フランが首にかけたままでいる防毒マスクに、ジニーは手をやった。

(ひとりの無事がみんなの無事だよ)

 選択の時がこなければよいが。


●"賢狼の裾"標準時:16:44 / 環境所見:天気不明 微風 / 視界:濃霧 視程ごくわずか


(イトーくん!外にいたのか!)アムソフィヤはいま屋根上だ。

("魔法の居間(リビング)"は全面閉鎖しています……)

 実験の快適性という観点で、そこ、霧の立ち込める"薄灰色"は最悪だった。けれどもっと優先すべき事項がある。

(……万が一のことがあれば、無防備で無関係な地域に、毒ガスを送り込むことになる)

 つながり方が魔法理なだけで、"魔法の居間(リビング)"そのものは、この星のどこかに所在しているのだ。

(いまのところのこの煙霧体は、弱酸性を示すだけですが)

(そうなのかい……)

 急制動やら横揺れやらで、溶液はこぼれ、試薬はダメにする。ついでに銃声は炸裂する。だいたい手元がうやむやだ。二倍、三倍の労力をかけて、イトーは最後の実験を終えようとしていた。記憶だよりにあみだした同定手順を遵守してきて、もはや動揺の方がおおきい。

(気のせいならいい)よけいにアムソフィヤは告げる。(君に訊きたかったんだよ……いましがたから、なにか()()()()()())

(え……?)


●"賢狼の裾"標準時:16:47 / 環境所見:天気不明 無風 / 視界:濃霧 視程二メル

 

((リン)――) 濃霧のなかで、イトーはみた。(リン化水素……!?)

 アムソフィヤの手を借りてよじのぼる。黒い屋根うえをはって進んで、ハウプトマンの散弾銃がいまにも火を吹く、その色を、イトーはみた。

「発砲禁止っ」

 青緑色の炎だ。

「発砲禁止!」

 いま黒馬車は、引火性ガスのポケットにいる。

「火魔術もよして――!」


 まずおかしかった。溶液にひたしたのち大気にふれるなり、みるみると黒化した銀貨であった。溶存硫化水素の反応をはばんだ未知の還元剤――それはおそらく、リン酸なにがし――イトーのだした結論である。


「迎撃はぜんぶボクが受け持つ!できるだけ馬車に!」

 背負いすぎだ、とはアムソフィヤの肩書きがいわせない。

(いっさい火の気はいかんのか!?)ハウプトマンは不服げである。

先の一発は、足もとにむけた発砲だった。顔を突っこめば致死的な濃度は、現状を推するに局所的なものだろうが、(爆轟の危険はおかせません……!)ましてこの道、盤石ではない。

(リンって言ったね……?)霧中で腕輪をかき鳴らしながら、アムソフィヤはかたりかける。(気がつくべきだった。古いうわさだけれども、誰かさんはその鉱脈で一財築いたとか?)いまはあやしいこの峠道を、かよったことがあるのだった。(採掘穴のようなものなら、たしかに見かけた覚えがある)

(ありえますか?リン系有毒気体の自然生成なんて……)防毒マスクをおろしたフランだ。側面ステップに合流できている。

(ふつうは考えにくいでしょう。しかしこの腐魚臭ですから……) 

(腐魚臭(ふぎょしゅう)だって?)屋根にありついたジニーの復唱。

(ええ、にんにく臭とも……)

(にんにく――)のんきな自分をフランは疑った。ゲイリーの所見にあったはず、伝達ミスだ。(そんな!私、見逃して)

(ご安心を、履修範囲外ですよ)イトーにはまだ冗談が言える。(打つ手に変わりもありません)道は峠ののぼりにあった。おもたいガスが相手であれば、相対的に逃れることができる。ただし。

「谷底の彼ら!」

 アムソフィヤの気づきである。もっとも低いところではいかに。

「無防備も同然だ……!」


●"賢狼の裾"標準時:17:18 / 環境所見:天気不明 ときどき風 / 視界:霧 視程六メル


 峠の峠たる箇所にさしかかり、ひとまずの退避とみなすことにする。

「蘇ってくれるさ、彼らの生命力であれば……」

 ()()の更新は間に合ったはずだ、とアムソフィヤはつけくわえた。谷底の師弟に付与したそれである。

「何事かあったのですか」一時停止につけて先導から戻って、ゲイリーは問うのであった。

「彼らが先に進まない」

 アムソフィヤが濁さず答えてやると、ゲイリーは息を飲み込んだようだ。

「少しばか待ってあげてほしい」

 それから時は過ぎゆくばかり。じっとりと、霧につかった衣装(まとい)がつめたい。


●"賢狼の裾"標準時:17:58 / 環境所見:推するに夕空 風 / 視界:濃霧 視程二メル


「ま、まだゆかぬのですか」

 姿おぼろでも、声音でわかる。ゲイリーは気が気でないようだ。

「夜間の霧ではますます手に負えませぬ……」

 そうだろうとも。怪異に、毒に、何が潜むかわかった峠ではない。ただここ小一時間、"霧の魔物"の気配はなかった。

「そろそろ、意図のお話でもしてみる?」ため息がちに、アムソフィヤがこたえた。

「は……?」

「ゲイリーくんはきちんとした腕前だ。さすがに正騎士なだけある」

 たぶん彼女は立ち上がる。いつまでも屋根うえにいては、座り込むにせよ尻が痛い。

「……私を疑っておいでですか」

 みなたがいに、声だけがしるしだ。ゲイリーのそれは震えていたが、むしろどこか気楽になったようである。

「そうはいわない」アムソフィヤも、あいかわらずの気軽い調子だ。「でも、なにかしら黙っていることがあるね」

「いっそいかがでしょう。すべては私のたくらみだった、と……」

 ありえそうにない話を、とうとつに語らせるだけのなにかがあるのだ――たしかに。"商隊"がはじめにみつけた大隊旗のきれはじに、血でしるされていたのは『うらぎり』のひとこと。それは謀略、とも訳せる言葉だ。誰の文字かはわからない。

「だとしても」商隊長が代表する。「お前さんには償う余地がある」

 "商隊"は、わかったうえで踏み出してきた。当人のふるまいに、すべてをゆだねていたのである。

「……」

 静寂も音も、よく増幅する峠であった。


『それじゃ約束とちがうじゃない』


(この声は……!?)女のものだ。かぎられたしるしには、フランだけが気がつけた。

「誰だいッ!?」

 何ものか、霧中を歩みよる影を、反射でジニーは撃ったのだった。さいわいかな、精霊矢は火に由来しない。


『見ものね、覚悟とやら』


 今度は前方で声が鳴る。ハウプトマンの怒号がつづいた。

「よせ!」

 霧中のできごとであったから、解明はあとだ。ともかく散弾銃のポンプがジャッコ!と唸り。

「何を持ってる!?」

 しかし引き金は絞られず。

「止まれッ、ゲイリー殿!」

 ある種の無音がおとずれた。 


●"賢狼の裾"標準時:18:00 / 環境所見:爆轟発生


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