89.卒業
なにか宮殿のような内部構造であった。石造りの階段をくだったさきで、広々としながら窓がなく暗く、あちらこちらから水が滲出しており、どうしても迷いがちになる。
湖の小島にあらわれた"迷宮"踏破を命ぜられたのは、卒業式の朝であった。
「かんたんにやってのけたねぇ」
ただしアムソフィヤが掃除をしたあとだ。管理された脅威を退けながら、行って帰ってみただけのこと。いまさらふたりで訳もない。
「スライムのお化けには驚きました……!」
「おお、そうだろう?」
「巨石をごろごろ~って転がしてきて……すごい使役です!」
「……そうだろう?」
いかにもボスづらの、原生の巨牛をさばいたあとに降ってきた、透明な、半人型の"アレ"までが、アムソフィヤ製の"スライム"だったか、いささかあやしいものである。
ともかく引率ヴィクトルの剣を抜かせずにはすんだ。
「腕をあげたな、斯様な大仕掛けを」
「あっはっは」
ゼンは聞かなかったことにしてやる。
(うん、ぜぇんぜん初耳ね。こわ……)
酒場に急ぐふりをした、アムソフィヤのひとりごとであった。なるほど、使役スライムとは格のちがった肌感だった。
いざというときは、なんじのかかとを信じよ――無責任な方針で放りこんでくれたものだが、現実なんてこんなものだ。ないものはない。たとえばとくに命綱。
「ゼン、お昼までひまですか?」
「うん」
ふたりでこのごろチャンバラが趣味である。口実づけた雑談であり、いまになって、おおかた思い出話になってしまう。
最新版イトーの寝ぐせ傑作三選。ヴィクトルが割った大量の薪のゆきさき。アムソフィヤがまとう一枚布の見分けかた――おんなじようで何枚もあるのだ。
あとは黒馬車を待つばかり。秋とどちらが先だろう?
この稽古場とあいまみえるのも、たぶんかぞえるほどであった。
扇にひらかれた森のひとかどであり、ふみならされて草も生えない。あってあたりまえのなにもかもが、徐々にさまがわりした結果である。
木材仕立ての懸垂機、剣かけ、日よけの屋根、小会議用の机、みんなでニスを塗ったベンチ。
西の小道をゆくとあの滝が、支道をゆけばあの湖が。東にすこしもどれば"家"がある。
あたりの樹々の模様など、くまなく覚えてしまうほど。
だから異常は目につかないか、ふたりはすばやく目を走らせた。とうとつながら遊びはしまいだ。
「ヴィクトルを」
聞くが早いかフランは行った。いまの彼らにさえそうさせる、危機的な悪寒が走ったのであった。
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人は死したらどこへ行く?
かっと光がかがやいた。あやめもわからぬそれをつかみにかかって、男は、たぶん敗けたのであろう、おのれをすこし思い出せた。
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少年が、剣をおくので男は問うた。
なぜ殺さない。
「救いはまだあります」
立ち上がる力がのこっていない、男は木の根によりかかる。解くべき武装を、すでに失っていることに気がつく。
――おまえが裁きの剣を曲げることがあるとしたら、それは贈り物によってではなく、慈悲の心によらなくてはならない。
もはや価値のない箴言だった。おのれの名だって思い出せぬのに。
「ダミアンサン・アメンペック、それがあなただ」
チッチロリが鳴いてる。
自由意志による無力化を、この幽霊にほどこしたらしい。少年はそれから、蝋ぬりの仮面をそっとうばった。
信じられないような光景を、男はむこうで見てきたのである。
暗闇の渓谷に瞬く白銀の光。焦げつく大地に燃え盛る玉座。守られていたのは、聳えたつ、星をも喰らわんばかりの腕。
連中はそれを呼び込んで、手に触れられる実体にしようとした。おぞましい目的のために。人類を一掃して、この星をどこかわざとらしい、常ならざる場所へと変貌させるために。
「あなたには家族がいる」
そうだ、家族。
少年の声に、男は引き戻される。
「あなたは"永久の国"の英雄だった」
記憶をむしばまれるのは、光と闇から逃れた対価だ。
「気高い人だった……」
しかし束の間、ダミアンサンは思い出せたのである。
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「無事なのか……」
往時の影もないがらがら声で、ダミアンサンはつぶやいた。判じづらいがそれらはおそらく、彼の妻の名、娘たちの名。
ダミアンサンをもってして、力及ばぬ窮状に、そして闇と親しい属性のために、むこうに目をつけられたのだろう。不当な契約を強いられて、彼はかれなりに意志をはたした。
ゼンは勘ぐっている。"黒剣"には妄念をはらう力があるのではないか?手にしていたのは実験都合で、たまたまだった。
トンネルを抜け出す、ほんの手助けができたならいいが。もっとはやければどんなによかったか。
もはや彼にほどこせる唯一の「治療」とは、かすかな希望の火をともして、痛みをやわらげることだけだ。
「半年前までの消息がたしかです」
ダミアンサンの家族についてだ。いくさの続く土地であり、終息にむけて王国軍の介入が秒読みだった。
「……今この足では赴けないし、あなたの代わりは務まらない。ただその時があれば誓います」
できるだけ正直でいたいものだ。
「あなたの家族に手を差し伸べる。ゼン・イージスの名にかけて」
尽くせる最大限だった。
「騎士よ」
おそらく盲いたダミアンサンは、うつろなりに手でつかみかかった。ほんのいっときのことである。覇気を取り戻す。
「おのれのともしびを手放すな――」
引き寄せた耳元であとを言い切る。ぜぇ、と一息つく。うなだれる。
「お亡くなりになりました……」かがんで脈をとっていた、フランがいった。
「……彼はなんと?」見守っていた、唸り声である。
ゼンは立ち上がる。その箴言が仮面でくぐもることはなかった。
「……"朝まだきに影は蔓延るものだ"」




