83.経過
時計をあわせて今日がはじまる。ゼンは朝五時に玄関を出た。
――「時」とはかつて、誰かの専有物であったそうな。打ち鳴る鐘がそれを配布し、祝祭をしらせ、四季をかたどる。
それもやがては世俗の手にわたった。自由になって、持ち運ばれもして、誰もが時間にひたれている。
小説もそうだ、時の運び屋だ。
記憶を、歴史を、血と肉と魂の変遷をきざみ、万人に再配布しながらも、前後撞着を許容する。
読者はおもしろがることも、おびえることもできる。
と、ゼンはこのごろ、何かで読んだ。
ヴィクトルの帰還の翌朝であった。
「散策はしたか?」
「ええ、こうして」
こぶしにふかした息が白い。不自然な間をゼンはあやしんで、やっとおとなりの顔をみあげた。なんだかさびしそうであった。
「ここから北北西の半腹に……」
落葉と枝が鳴る、鹿の道をいま借りている。暗々とした樹々のはるかなむこうが、ヴィクトルには見えているようだった。
「それはうつくしい湖畔がある」
見回りはさぼらずこなしていたよ――のぞまれる答えとちがったらしい。
「行ってみます、今度の休みに」
「あたたかい日がよいだろう」
あいにく時の流れには逆らえない。冬めくおだやかな夜明けだった。
「暮らしに不満は?」
「まったく!」
とくに遠慮する間柄でもない。
言うに言えないあたたかさが日々にあり、ゼンはどうにか伝えてやりたかったが、思いついたものはくだらない。
「道具箱がいいですね」
腕で四角をつくってみせてやる。各自室ベッドの足もとにある、大きなヤツだ。その気があれば、なかで住まえる。
「なんだか、宝箱みたいで」
よそにしてもうだいぶちらかっている。アムソフィヤの潔癖ぶりを、ゼンはまだ知らない。
「そうか……」
訊くべきだろうか、審問会のなりゆきについて――ゼンは思いすごした――言わない、ということは、とくに言うことがない、ということだろう。
「昨日、騎士らが訪れたろう……」
「ええ」
「ずいぶん消沈させたな」
意外であった。説教というわけでもないらしい。
「……もっと取り繕ったほうが?」
ゼンはにこやかにフランを送り出したが、アーロイスがいて、かろうじて許したのだ。やりたいだけで騎士はつとまらない。
「本音を」
「いや……」
ふん、とヴィクトルははばからなかった。
「ただのおもしろがりだ」
水煙がひややかである。もはや木立はあとにして、苔むした岩壁の、ひろい空間に出ている。
「順調か?」
詰問じみているとは思わない。
「ほどほどです」
俺がこなして有効だった手立ては、お前にもすべて試みさせる、といった旨を、はじめヴィクトルは唸ったのだった。
「やはり手本がないと」
「よし……」
ヴィクトルが平然と歩きだすのは、暁闇をうつす水面のうえである。
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「これが滝……」
「はじめてか」
「すごく大きな音です」
ごうごうと、それは滝つぼだ。年がら過ごせば、なにごとにだってなれようか。かがやく碧色なほとりで、カッコウがまだにぎやかに鳴いていた。
「ここへと至るまでの道、よくよく振り返ってみた」
唸る手もとにはメモがある。
「俺に益ありと思われた鍛錬は、お前にもすべてこなさせる。これがその最たるひとつ」
ゼンが一緒に見上げると、しぶきに虹がかかっている。かなりのものだ。
「俺は一年より多くをかけたが」
くしゃりとメモはしまわれた。あいかわらず琥珀のひとみであった。
「なにもそこまで真似ずともよい」
その昼、ヴィクトルはグリフォーンで発った。
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「そりゃもーすごかったんだから!」
アムソフィヤ、底抜けの陽気さで笑う人だ。
「"道場破りのサンドバーン"ってね」
「へぇ……」
彼らが思い出話をするときは、肉親じみた声がする。
先入観のないままに"守護剣"にのぞんだことを、アムソフィヤはたかく評価した。
「初心者が陥りがちな罠なんだけれども」
その場から動くとてんで使えない、という一線だ。想像しやすい。
のぼりくだりの坂をゆきながら、また切り株の上で踊る日さえ、ゼンにはあった。むしろそれくらいしかなかった。基本にうるさいヴィクトルが、あえてだんまりでやらせてくれて、たいへん奏功したのであろう。
「とっくに守護剣士のツラしていいね」
「ヴィクトルにはとても及びません」
アムソフィヤの見識はひろい。
『矢削ぎの門』『瞑背の要』『泡沫の兆』『不落の城』
ぎょうぎょうしく呼ばれる、守護剣奥義の実態にさえくわしい。順に距離、方角、感度、容量への特化をいう。
ヴィクトルの唸るところ、どれも基礎中の基礎である。全部とりそろえてようやくだ。そして師弟して同じな主義らしく、技の名前など関心がなかった。適切に発揮できればよい。でなければむしろ余計な取っ手だ。
しいて言わば、ゼンは「城」が欲しい。
「目標が明確でけっこう!」
アムソフィヤは嫌味なく手をたたく。ついで質素な腕時計をみる。ゼンも懐中時計の鎖環をたぐる。たちかえって秋日和の、正午まで折り返しであった。
「もちっと観察させてよね。二、三日して本式といこう」
アムソフィヤは器用に筆をとると、革表紙の手帳になにやら書きつらねだす。もう一組をちらちらと見てもいる。
「フランちゃんにも、なにか用意してやらなくちゃ……」
なにはともあれ学習法の策定だ、とは"水君"らしい、かしこい物言いであった。
「そら!そろそろ交代しよう、ヴィクター!?」
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「まただ!」
唸り声である。
「らしからん」
たがいに雪がつもっていた。曇天のむこうの陽ざしに、あたりの森が白々と明るい。ぎらぎらと、白刃も然り。
「俺はなんと伝えた」
「習慣に策を見出すな……!」
「悪癖と化すぞ!」
なれない雪は言い訳にならなかった。理詰め、理詰めの対人剣稽古である。
ここでひいたな、何故押さない――押すのですか?返すのでなく?それだと……――頭を割れない?なぜそう思う!
大上段でもよいスジを、ここぞとばかりに避けてしまう。もはやたびたびの指摘であった。
背が高いだけ面を臨める。腕が長いだけ間合いがとれる。対人剣のことわりであり、ゼンはこれまで「劣る側」に徹していて、つまり。
「いつまでも子どもでいるつもりか」
「いいえ……!」
「よし、次!」
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「いつからだい」
アムソフィヤの哲学ぶりであるから、ますますこの冬、イトーは退屈しないですんだ。
「なにがです?」
「……ひさかたぶりに、ふたりで話しこんだのだけれど」
そんな彼女をもってして、哲学少年と言わしめる、ゼン・イージスの話であった。彼はそらんじたという。
『奈落の底に何があるのか、つきとめずにはおけないと。お供の諫言にしたがわず、みずから穴へと降りてゆきます』
おのれが"騎士"だと信じ込む、男の物語であった。
『その暗闇に入るがために、この世の光を見捨てて行きなさる。どうぞご無事に、また帰らせて……』
名残雪にまぎれて、待雪草が芽吹いている。
「彼自身がそうでないかと?」
「ふ、それこそご覧じろだよねぇ!」アムソフィヤの引用もすばやいものだ。「ああ光のお導き、騎士の上澄み!」
「いかがお答えしたのです」
「そりゃ、しごくかんたんに」
もー最近じゃこれが口癖だ、と、昨日も一昨日も聞けた。
「やれやれだね、君は!」
我らのみなす"少年"が、とうに少年のそこにいない。
そばのだれかれを指標にようやく、日々つじつまをあわせることで、ようやくらしさを取り戻す。
鐘はとっくに鳴り終えたのではないか。
――だとしても……。
いつであったか、似した話をした日のことを、イトーはよぎらせた。
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「今年は冬がはやいねぇ」
さぶいさぶいと、みずからを抱きさするわり、アムソフィヤは常の衣装であった。
「この谷がとくべつはやいのかな?」
この先も、手製の首巻きをくわえるくらいだ。彼女はよく、少年少女を案じてくれていた。
「雪んこの日もあれ、するの?」
風邪ひいちゃうよ、とはあからさまである。狼の言い分も聞いてやるべきだ。
「止めたところでやりたがる」
「あきれたねぇ!」
ごうごうと、碧なほとりで我らは見ていた。
「……少々指摘をしてくる」
それで友人の友人同士の、あの特有の空気感に、私は見舞われる。いずれは親しくなれるだろうが、そのためには今後一切『素人質問で恐縮ですが』はよすべきだ。
「イトー君は?」しゅっしゅと声にだして、アムソフィヤはそぶりをした。「剣、かじったの」
「はは、握り心地からあやふやです」
特性について、昨夜は談じたのであった。先天的な個性が、道をどれほど呪うかである。どちらに取り柄もない私は、そうとうな半端ものだ。
「ただ、こんな環境ですから」記録ならやめていない。「耳目ばかり肥えるものです」ゼン少年に関するヴィクトルの見解を、私は文字をつうじて再展開する。
一度の指摘で、別人のようによくなるそうな。
こだわり癖がどこかへいった。気づきと柔軟性に富んでいる。
裏を返せば、へたな一言で個性を殺しかねない。
剣術百面相。
あの大男とよく似てきた。
「ボクもあらためて、初回の感想戦をしてみた。見事なものだった」
抜かない剣士は無防備だ。あわよく繰り出せたとして、刃を破壊されたら手が出ない。
「あなたにはいつだって、それができたでしょうって」
我らはゆきつく。なにがあの少年を、かようにもすばやく、いまの肩書きに仕立てたか、である。
「まったりに見えるそうだね、飛翔する弾丸でさえ」
「"戦士の時間"?」
「そう……ないし"刹那"に生きる彼は――」
アムソフィヤは確信しているらしい。
「彼らは、ボクらからして、何倍の日々を生きている?」
どこまでふつうかわからない。けれど合点はたやすい。
まして戯れているときの子どもの瞬間は、主観的に永遠と記憶されうる。
「おそろしい情報の取得量だ」
私の年間読書で何万文字だ。一生をかけた総量であれば?アムソフィヤとあわせたとして、いずこで追いつき、抜かされよう?言語の上達ひとつとっても、このごろ圧倒されるまであった。
「ボクでも目が滑るような野暮ったい背表紙の本を、ぺらぺらとまくりまくってる」
そんな要領で読めるもの?――ええ、これは三周目だから。
「うふ、それがお遊びだって」
我らは共通項をみいだしていた。これっぽちも、彼をねたんでいない。
「"鉄は熱いうちに。実は甘いと思えるうちに"、だもんね!」
よい関係を築けそうだ。
「アレの特異性は、基礎の強度にある」
水びたしなのをぬぐっている。ヴィクトルのしたたりようを、アムソフィヤは手をかざして、はじいてやった。私は私で拭きものをやった。
「ふつう、ひとりでこなせば、こなしただけ歪む」
冷えるだろうに、彼はこの場にとどまった。いままた我々と見守っている。
「それがない」
鏡のような"精霊"と打ちあえたからと、当人はいう。
「誰も彼にはなれないの」再現性の話である。
「やる気の問題だ……俺が思うに」
むずかしいことをやすやすと、こちらの騎士もたいがいだ。
「剣を志す同年代など、目があえばあうだけ見つかる」
ただし羨まれるところがあるなら、とくわえて。
「飽くなき欲求が、常にふたつあった、ということだな」
ここにきてから、彼はすらすらとよくしゃべる。
「俺の師も左様であったという。夢中で剣を学んだと」
常のからかいぶりだから、またはぐらかされてたまるものかと、当時たいへん憤ったというのを、ヴィクトルはわらった。意外な人物像かもしれない。
その"精霊の夢"というのは、すくなからず保護者に気味悪がられる。ヴィクトルの夢も、父君の剣幕で途絶えた。
「せめて有益なものを学べていればな」
「いいじゃん、今のもかっこうよくて!」
そう、夢の産物で、ヴィクトルは水上歩行を優美にこなす。画家を呼び寄せて一枚飾るべきだ。
「よかろうな、"虹もかからんよりは"」
まさに輝いていた。
「でもさ、平気だったかな。ことさらゼン君のばあい」
間をおいて、アムソフィヤは思いついたようだ。
「精霊だって無害じゃない」
はて、と我らは彼女をみた。
「お話するには、お駄賃がいる」記憶こそ通貨になるという。「ふつうは幼児期健忘ぶんのを食らえばすむけど」
「そうなのですか……?」
「そうらしいのよ、だから――」
とつじょだ。アムソフィヤは馬でもいなすよう、両脇の我らに手をむけた。
「ちょい待ち!」
最たる興奮のしようである。
「この話、ボクらで済ませちゃもったいなくない!?」
それはたしかに。
であれば機会をいつ設けるかだ。
「むふふ、なんだか妙案が……」
のちに興味深い説を聞く。"神子"は俗人と異なって、"精霊の夢"を見続けられるのではないか?
ただ彼女たちに、自覚がないから潰えぬだけで――たしかめるなら、大人になってからがよかろう。
しばらくして、アムソフィヤはぶんぶん手を振った。彼ら、いまひとところにいる。
「さぁ、お昼休みにしよー!」
「あと五分!」「お願いします!」
聞き分けのない少年少女に、
「もー!やれやれだね、君たちは!」
アムソフィヤはこれが口癖になるのだ。
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「手紙……じゃないね」「どなたからですか?」
「ええ、残念なお知らせやもしれません」
お昼休みだよ、と伝えれば、素直な少年少女の時代であった。
「ロイスさんは明日、発たれるそうです」
気を使ってか、稽古場には顔を出さなかった。しかし礼儀に一筆というわけだ。アーロイスはきまって"家"にも長居せず、村の宿場で夜を過ごす。
「……ほー、ほー!」
かたや新顔のアムソフィヤである。別れというのに、うれしそうに忍び寄ってきた。少年少女は稽古のあと片付けにかかって、もう遠い。
「もちろん、あるんだろうね……?一夕の宴が!」
私の内心には、ほのかな緊張感がはしった。まえもって「要注意」ときかされた項目に、それはあった。
酒である。
「……そうですね、僕は少々ご挨拶だけ――」然るべき報告を、試みようとはしたのだ。折悪くヴィクトルだけは外していた。
「イトー君、さてはァ……!」
がっしと腕をつかまれて、私がどうして場を立ち去れよう。彼女のあやつるこの粘った水には、ゼン少年でも難儀する。
(誓ってもらおうか。今宵に何が起こってくれるか、ヴィクターにはナイショだ……!)
先が思いやられたものだ。
ちなみに彼女は――うしろの騎士の聞き耳をしらず、これからこってりしぼられる。




