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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
誓いの章:忘れじの谷
82/106

82.送迎


「……ちょっと」

 そらきた見つかった。聞こえないふりに心が痛む。

「ゼン君!?」

 そろりそろりと近づく玄関扉は、ねばつく水で鎧われてしまう――ああ、希望は潰えた。

(フランちゃんは君のママじゃないんだよ……)

「フランちゃんは君のママじゃないんだよ!」

 部屋のお片づけ代行を、アムソフィヤはきまって見抜くのだ。

「何か言った!」

「いえ、なにも……」

 いささか出遅れ手痛いものだ。普段であれば、まんざらでもない顔の――アムソフィヤはそう指摘する――フランと説教をわかちあうことになるのだが、ただいま折悪く、もっとも悪い組み合わせでふたりきりであった。ほら、すっかりご対面。

「正直者な君だものね!」

「……なるべくは」

「そんな君は混沌の王でもあらせられる!ご自身の手際とは、とっても思えないんだけれども!」

「……はい」

 どこに何があるのかぜんぶわかる。なんでも瞬時に取り出せる。自分で置くから当然だ。そんな生活様式を世間は。

 混沌、とか定義するらしい。

 納得ゆかないゼンである。

 "軒並みな居間(リビング)"をよごすならまだしも、自室であるからよいではないか。ものが多いからいけないのである。服も本も装具もおもちゃも、"御許"ではこんなに持たないでいた。

 イトーなら『実家では僕もひどいものですよ』とか味方してくれる。家人がやってくれるそうな、それも共同生活では片付ける側だ。

 ヴィクトルといえば、寄宿時代の恩恵で、おどろきの整理整頓名人だ。ベンキョウに一度のぞかせてもらった。部屋全体が謎にぴかぴかしていたし、ベッドのシーツなぞ、気味が悪いくらいぴんとしていた。そんな彼こそ家主であって、いつものごとく総責任者である。その人がだ。告げ口されても「ん……」とかいうだけ、日ごろ訓練に忘れ物がなければよし、と態度でもの語ってくれる。なんだからやはりよいではないか――。

 とかなんとか、口にできない。

 彼女はましてやかましくなる。

「もー、油断も隙もない」

 アムソフィヤ・ネスフィヨルドである。

「ぴゅーっと逃げてっちゃうんだ」

 よっぽど"ママ"である。

 ながらくジガヴェスタ公に伺候していたという。

 潔癖なところがあるかもしれない。

 美魔女を目指してるらしい――意味が変わってきそうなものだが。

 怒ると笑顔になる人種(タイプ)

 偶然にもいま、とてもにこにこしている。

「あのねぇ?」

 ここまでものの三十秒。とってもながーい三十秒である。常だればゼンとてもう五分、十分くれてやるのだが。今朝はいけない。

「その!」

 ふさわしい対抗措置が必要だ。この場合、自信ありげな挙手である。

「ちょっとあとでも――」にいっこりと、首をかしげるアムソフィヤ。ここで怖じないのがゼンだ。「……いいですか?」

 ほら、と手ぶりで示してやる。

「見送りが!お見送りがあるでしょう!」

 みんなは先に行っちゃった!と、情と論理に訴えかける。

「……お見送り?」

 飲みすぎだ。たいがいな生活様式である。昨晩の、村での宴は幻覚だったか?あなたがひっつかまえて離さなかったあの肩とは、いったい何者のものであったか?アムソフィヤはもうど忘れだ。 

「ロイスさんの……!」

 鷲爪西端騎士団の副団長殿である。

 ヴィクトルが審問会で不在のあいだ、護衛という名のもと、こまごまとした世話を焼いてくれていた。剣のほうもなかなか頼りになる腕前で、おかげで毎朝いい汗がかけた。

「…………」

 アムソフィヤはさすがに物言いに詰まった。たいそうきまりが悪そうに、そして頭が痛そうに、しっしと解放してもらえる。二日酔いらしい彼女、火の用心に留守をまかされる話だった。薄明に救いを求めて、ゼンはとっとと玄関を出た。


 ――しめしめだ。


「とか思ってないね!」

「思ってないです!」

 いやはや魔女め、おそろしや。




 ---




 アー()()()・ベルクルト氏は、声のでかい、ちょび髭の、いかにも気のいい親父な風体で、そんなあたたかい印象は、別れの最後のさいごまで、ついぞ変わることはなかった。

 ただ同人が時折みせた、確固たる騎士の面影もまた、心根にふかくのこっている。親しくなりはじめの、ふたりきりのとき、彼は言った。

『……騎士位について三月(みつき)の頃は、私も機会に飢えておりました。それがなんだ』はげしく涙するのである。『もののひとつきの?貴殿は。身分をてらうこともなく、幾万の民を救ってくれた――』

「見たことも聞いたこともない邪悪」と、人々は言う。ゼンにはふつうがわからない。

 ただ感心しきって、アーロイスはいう。

『我らが剣に励むのは、ひとえ安寧を得るためです。成功や名声、まして他者を制するためでない……』

 それはその通りと思う。

 進軍出立のあの日、よごれた羊雲のした、騎士長ダコックに留守を託されて、心底、それは悔しそうに、泣きながらハンカチを噛みちぎっていたアーロイスである。誇張なく、ほんとうにそうした画であった。

 これまでよい騎士ばかりに出会えてきたが、なかでも騎士らしい人だと思える。

 村酒場に毎夜かよっても酒に耽らずに、その人がなにをしていたかといえば、まちがっても"商隊"に悪感情がないよう、つとめてくれていたらしい。彼にも不慣れな土地であるし、情報収集もあったろうが。

 帰りすがらのやわらかい道で、ゼンはさまざま思い出す。


 ひろい緑の谷間にある村落だ。のどかな牧畜が営まれており、ひととおりの職人がいる。

 ここには政治的ないざこざがない。当代では主に、防衛戦力の然るべき均等化についての折衝をいう。騎士が休養にうろうろするにも、地域住民はなれっこなはず。

 それなのに来たての時分。ほんとうに興味本位、社会見学かなにかのつもりで、なめしの工房であった、フランとひょいとのぞいたときのことだ。

 主人の老夫婦を、とうとつに平伏させてしまう。たいそういたたまれなかった。

『おのずそうさせるのですよ、あなたがたの自然体が』

 どんな冗談か、神妙にひかえるアーロイスは、よりあらたまった口調であった。

 冗談ではなかったのだ。

『騎士のまなざしだ』

 アーロイスは代弁する。通訳が必要だった。

『返すべき恩があるのだと、彼らは』

 あずかりしらぬ恩返しである。

『では、先払いだと思ってください』

 むろん利用するのに賃ははらった。それとして、ますます気が引き締まるのであった。

『間違われたのやもしれませんね』あとでイトーは言った。『いずこの大公の子女であるかと』

 たのもしい大人たちに後ろ盾され、よいものを帯び、よいものを食べ、よい暮らしをしている。あたりまえに甘えてはならない。


 今日も誰かれ牧人と目があうと、あわてて奥方がでてきて、かご一杯の鶏卵をさずかった。

「ありがとう。以前のものも、とてもおいしかった。これもたのしみです」

 礼儀であろう、これくらいなら土地の言葉だ。

 まだ日は昇りたてである。常のよう、午前は鍛錬に励む。



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