82.送迎
「……ちょっと」
そらきた見つかった。聞こえないふりに心が痛む。
「ゼン君!?」
そろりそろりと近づく玄関扉は、ねばつく水で鎧われてしまう――ああ、希望は潰えた。
(フランちゃんは君のママじゃないんだよ……)
「フランちゃんは君のママじゃないんだよ!」
部屋のお片づけ代行を、アムソフィヤはきまって見抜くのだ。
「何か言った!」
「いえ、なにも……」
いささか出遅れ手痛いものだ。普段であれば、まんざらでもない顔の――アムソフィヤはそう指摘する――フランと説教をわかちあうことになるのだが、ただいま折悪く、もっとも悪い組み合わせでふたりきりであった。ほら、すっかりご対面。
「正直者な君だものね!」
「……なるべくは」
「そんな君は混沌の王でもあらせられる!ご自身の手際とは、とっても思えないんだけれども!」
「……はい」
どこに何があるのかぜんぶわかる。なんでも瞬時に取り出せる。自分で置くから当然だ。そんな生活様式を世間は。
混沌、とか定義するらしい。
納得ゆかないゼンである。
"軒並みな居間"をよごすならまだしも、自室であるからよいではないか。ものが多いからいけないのである。服も本も装具もおもちゃも、"御許"ではこんなに持たないでいた。
イトーなら『実家では僕もひどいものですよ』とか味方してくれる。家人がやってくれるそうな、それも共同生活では片付ける側だ。
ヴィクトルといえば、寄宿時代の恩恵で、おどろきの整理整頓名人だ。ベンキョウに一度のぞかせてもらった。部屋全体が謎にぴかぴかしていたし、ベッドのシーツなぞ、気味が悪いくらいぴんとしていた。そんな彼こそ家主であって、いつものごとく総責任者である。その人がだ。告げ口されても「ん……」とかいうだけ、日ごろ訓練に忘れ物がなければよし、と態度でもの語ってくれる。なんだからやはりよいではないか――。
とかなんとか、口にできない。
彼女はましてやかましくなる。
「もー、油断も隙もない」
アムソフィヤ・ネスフィヨルドである。
「ぴゅーっと逃げてっちゃうんだ」
よっぽど"ママ"である。
ながらくジガヴェスタ公に伺候していたという。
潔癖なところがあるかもしれない。
美魔女を目指してるらしい――意味が変わってきそうなものだが。
怒ると笑顔になる人種。
偶然にもいま、とてもにこにこしている。
「あのねぇ?」
ここまでものの三十秒。とってもながーい三十秒である。常だればゼンとてもう五分、十分くれてやるのだが。今朝はいけない。
「その!」
ふさわしい対抗措置が必要だ。この場合、自信ありげな挙手である。
「ちょっとあとでも――」にいっこりと、首をかしげるアムソフィヤ。ここで怖じないのがゼンだ。「……いいですか?」
ほら、と手ぶりで示してやる。
「見送りが!お見送りがあるでしょう!」
みんなは先に行っちゃった!と、情と論理に訴えかける。
「……お見送り?」
飲みすぎだ。たいがいな生活様式である。昨晩の、村での宴は幻覚だったか?あなたがひっつかまえて離さなかったあの肩とは、いったい何者のものであったか?アムソフィヤはもうど忘れだ。
「ロイスさんの……!」
鷲爪西端騎士団の副団長殿である。
ヴィクトルが審問会で不在のあいだ、護衛という名のもと、こまごまとした世話を焼いてくれていた。剣のほうもなかなか頼りになる腕前で、おかげで毎朝いい汗がかけた。
「…………」
アムソフィヤはさすがに物言いに詰まった。たいそうきまりが悪そうに、そして頭が痛そうに、しっしと解放してもらえる。二日酔いらしい彼女、火の用心に留守をまかされる話だった。薄明に救いを求めて、ゼンはとっとと玄関を出た。
――しめしめだ。
「とか思ってないね!」
「思ってないです!」
いやはや魔女め、おそろしや。
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アーロイス・ベルクルト氏は、声のでかい、ちょび髭の、いかにも気のいい親父な風体で、そんなあたたかい印象は、別れの最後のさいごまで、ついぞ変わることはなかった。
ただ同人が時折みせた、確固たる騎士の面影もまた、心根にふかくのこっている。親しくなりはじめの、ふたりきりのとき、彼は言った。
『……騎士位について三月の頃は、私も機会に飢えておりました。それがなんだ』はげしく涙するのである。『もののひとつきの?貴殿は。身分をてらうこともなく、幾万の民を救ってくれた――』
「見たことも聞いたこともない邪悪」と、人々は言う。ゼンにはふつうがわからない。
ただ感心しきって、アーロイスはいう。
『我らが剣に励むのは、ひとえ安寧を得るためです。成功や名声、まして他者を制するためでない……』
それはその通りと思う。
進軍出立のあの日、よごれた羊雲のした、騎士長ダコックに留守を託されて、心底、それは悔しそうに、泣きながらハンカチを噛みちぎっていたアーロイスである。誇張なく、ほんとうにそうした画であった。
これまでよい騎士ばかりに出会えてきたが、なかでも騎士らしい人だと思える。
村酒場に毎夜かよっても酒に耽らずに、その人がなにをしていたかといえば、まちがっても"商隊"に悪感情がないよう、つとめてくれていたらしい。彼にも不慣れな土地であるし、情報収集もあったろうが。
帰りすがらのやわらかい道で、ゼンはさまざま思い出す。
ひろい緑の谷間にある村落だ。のどかな牧畜が営まれており、ひととおりの職人がいる。
ここには政治的ないざこざがない。当代では主に、防衛戦力の然るべき均等化についての折衝をいう。騎士が休養にうろうろするにも、地域住民はなれっこなはず。
それなのに来たての時分。ほんとうに興味本位、社会見学かなにかのつもりで、なめしの工房であった、フランとひょいとのぞいたときのことだ。
主人の老夫婦を、とうとつに平伏させてしまう。たいそういたたまれなかった。
『おのずそうさせるのですよ、あなたがたの自然体が』
どんな冗談か、神妙にひかえるアーロイスは、よりあらたまった口調であった。
冗談ではなかったのだ。
『騎士のまなざしだ』
アーロイスは代弁する。通訳が必要だった。
『返すべき恩があるのだと、彼らは』
あずかりしらぬ恩返しである。
『では、先払いだと思ってください』
むろん利用するのに賃ははらった。それとして、ますます気が引き締まるのであった。
『間違われたのやもしれませんね』あとでイトーは言った。『いずこの大公の子女であるかと』
たのもしい大人たちに後ろ盾され、よいものを帯び、よいものを食べ、よい暮らしをしている。あたりまえに甘えてはならない。
今日も誰かれ牧人と目があうと、あわてて奥方がでてきて、かご一杯の鶏卵をさずかった。
「ありがとう。以前のものも、とてもおいしかった。これもたのしみです」
礼儀であろう、これくらいなら土地の言葉だ。
まだ日は昇りたてである。常のよう、午前は鍛錬に励む。




