66.満月
"商隊"が行き着いたのは、地図に載らない村だった。
長耳の、「追跡魔法」と聞こえはいいが、頼りの精霊は気まぐれである。棒を倒すよりマシな程度だ。よそ様の馬尻を、追いかけている節は大いにあって――かえって確信めいたものを得られた。
たったひとつの入り口は、導かれなければ、獣道として見過ごしただろう。
蔦が絡まるなかばの倒木。放棄された朽ちかけの馬車。文様の意味不明な苔むした石碑。
そのむこう、かつては誰かがすんだのだろう。けれど今更いやしない、自然へ還った土地なのだ。いかにもそうして装われている。
精霊たちには関係なかった。
場所柄はむしろ決断だ。一縷の望みを、"商隊"は絶やさなかった。
樹木の拱廊をくぐる。出くわした、さびれた村である。
荒んでいても死んではいない。人々があり、生活があった。
そよ風にがたぴしと鳴く、廃材仕立てのほったて小屋たち。戸口は数えて二十かそこら。窮屈な広場には傾いたガス灯が四本。地中で発酵させた人糞を用いるのだ。
村人は散りぢりになって、"商隊"から逃げた。むろん大きな馬たちと馬車だから、そばをゆくだけで彼らの住処をおびやかすかもしれないが、それにしたって、そそくさ逃げられた。
逃げ遅れたのをつかまえた。聞こえは悪いが、緊急事態だ。訊ねるべきことを、さっそく訊ねる。
来訪者がほかになかったか、大人三人子どもが一人。
「はぁ……」
と、気のない村人だった。若い只人の男であった。片脚をうしない、粗末な杖をついている。
再度問うても、しばらくまごつく。聞く気の有無からしてあやしい。
さらに押す。三騎もくれば、どたばたしたはず。それさえわからぬか?
男は、頭をかきむしりフケを散らした。あたりを見るのに貴重な時間を費やし、ようやく口を開いても、そう言われましても、ときた。
「ここはね、棄民の村ですから」
小さな村だ、何村だろうとわかるはずだ。
「いやぁ……」
手がかりは得られそうにない。
精霊たちはここまでだった。こまかなヒトの区別が、彼らにはむずかしい。村にはそれだけのひと気があった。
隠れ場所にせよ事欠かない。
しかしここではないかもしれない。
せめて後ろを排除して、あとは三方、山か森。
たよりの村人たちは、おびえきっていた。
獣人、病人、戦傷者。物陰にのぞく、なにがしかの目を、戦士の脚でもっと捕まえてみる。甲斐がない。
口を利いただけ、第一村人はましだった。
どんな説得も無駄であった。銀貨も金貨もうけつけない。みんなだんまり、頷かない。肩をびくつかせ戸口へ消える。屋外の人影はとうとう失せた。
蹴破ってまわる訳にもゆくまい。
どこもガタつくボロの戸だ。その気になれば、何枚だろうと造作もないが、まるきり無関係ならば?
地図に載らない村だった。
たしょう奥まった所ではある。とはいえ街道から馬鹿げて離れてはいない。あえて人目を避けている。手記に残すにも困った場所だ。曰く"棄民の村"であった。
事情だったら見て取れる。彼らは税を払えない。安全な土地で居場所がない。
先天、後天、それぞれだろうが、迷信と、たぶん社会の仕組みが、彼らをここに追いやった。
そして「棄民」を自称するのだ。来訪者に、山賊も騎士もあるまい。
似た場所はもっとあったのだろう。ただ見逃してきただけで。
この期にヴィクトルが不在であるのに、"商隊"は息ついた。役所の手入れと思われかねない。
さる公国騎士の残した助言とは、
『借馬屋を注視しろ』
だったか、あいにくそんな上等な店はなかった。以来、別行動である。
馬車から目を離さぬよう、サルヴァトレスは声をあらげた。
なめられたとき、賊に化けるぞ。
ここに法の秩序は及ばない。おのれを守らぬ国の理屈を、遵守したいと人は思えるか。
清く貧しく、そんな生き方もあるのだろうが、富もうとするなら、道はか細い。
うしろぐらいなら、省みればいい。けれど囁きに屈する者どもにとっても、身を隠すには格好の土地だ。
真相にたどり着くまで、"商隊"ははやかった。
訪問者にせよ、滞在者にせよ、誰かの所在を明かすのは、この村にとって密告だ。そしてどんな対価にせよ、住処には代えがたい。
ここが中継地点にすぎぬとすれば、追跡は絶望的だった。
「僕は、ここだと思う」
帯びた剣柄に、ゼンはてのひらをかけどおしでいる。村の中とまで確信はないが。
「……近くにいる気がするんだ」
そうして針はしめされた。二手に分かれて、"商隊"は探り続ける。
思いのほかきつく縛られていた。
使徒は村人に扮しているかもしれない。
目下おとなしい彼らも、なにがきっかけになるのやら。
日没が近い。
「いまのところ、敵視はないよ」
戦力分散、強行だ。
忍耐強くあばら家の戸口を叩いてまわる。かたや村外周を探索し、痕跡を採集する。
ここを終着とのぞみたい。それは同時に危険度をいう。待ち受けるほうがずっと有利だ。こちらは見えない。むこうは見えている。使徒の頭数が、既知より多い可能性だってある。
ヴィクトルの不在が痛んだ。彼の事情だから、また責められない。
とくとくと時は過ぎた。手がかりらしい手がかりは、ゼンとダルタニエンが小山をまるまる駆けずりまわって、まあたらしい蹄の跡から、馬の死骸をみつけたくらいだ。
「まだぬくかった」
手配犯を追う"山狩り"ではないか、村人たちは厭うようだった。
「俺たちはアメイジアから来た!この領の役人じゃあない!」
知れ渡っても、みな顔を隠したがる。
ぽつりぽつりと聞けるようになるのは、くず話ばかり。物で釣ってやっと、知ったかぶりにいろいろ言うが、中身はどれもうつろなのだ。
少女?あっちの家で見たよ――もとから住まう娘がいる。
新顔をみた気がしなくもない――いいや、やっぱり見ていない。
そっちに誰か行ったかもしれない――調べつくした小山であった。
ついにすべての戸を、合意のもと開け終えた。フランは見つけられなかった。脇をお邪魔して、家捜しにかかるサルヴァトレスは、村人たちに見えていない。
「中にゃいねェ」
付近の小山もあと半分、定時の報告と安否確認に、ちょうど一同つどったときだ。
「《ウチのガキをどこやった!》」
つっかかってくる村人がいた。ハウプトマンと軽くもみあいになる。こちらの台詞だ、イトーが通訳した。
「いなくなった、いなくなったぞ!アンタらが来てからだ!」
たしかに見かけた少女ではある。しるしは黒髪、やつれていたが、背はフランとおんなじくらい。
「馬車ン中に匿ってんだろ!?出てこいアンネ!油売りやがって!」
娘思いの父親であればいい。監視下でほどほどにあらためさせた。"魔法の居間"を明かせはしないが、どのみちひとりの少女も乗せていない。
「……偶然じゃない」ゼンは断言した。「攪乱する気だ」
因果をあやまってはならない。
"しるし"が割れてはじめて、ふつうの追跡魔法は機能する。
性別、体格、年齢、髪や目の色、そのほか徴だ――情報が、そろっていれば強固だが、半面、似通った別人にたどりつく可能性もある。
「ヤツら、やっぱりすぐそばにいる」
闇はそこここで蔓延っている。虱潰しを続けられるか?錆びたガス灯が、ちかちかと灯る頃合いだった。
「あッ、見て!」
北西も未探索の山あいに、鋭い光がうちあがる。
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人の来訪をはばかる村にも、人が営む以上、人の目がある。
それすら厭う者がいたらしい。
山も奥まるはずれに、かの丸太小屋はあって、戦端は前で開かれた。
「巨人を!」「槍使いっ」「女ァ!」
めいめい向かう敵のしるしを、"商隊"の戦士たちは叫んだ。
何もかも即興だった。
月光がしめす敵影はみっつ、ともども立ち去るすんでの格好、そのほか、良くも悪くもみとめられない。
危ない橋なら渡り通しだが、もっとも脆い足もとだ。
見えているのが、敵の全戦力ではない。
それでも。
灯りのともらぬ"はずれの丸太小屋"に、もしもフランがいてくれなければ?
散弾銃を手に突入するハウプトマンが、遠からず答えを出してくれる。事の次第で捕り逃してみろ、いよいよすべての手がかりを失う。
――失敗はクソだ。
とりつくろうため、さらなる無茶を強いられる。
ゼンは必死だ。たとえ"光の騎士"であれ、ただいまその身に"鎧"はなかった。
状況でいえば四対三で、およそ五分五分。器用な短剣使いと、的確な精霊弓の援護を侮るわけではないけれど、この星では剣士が強すぎた。
炸裂する虹の光彩を、"女剣士"はものともしない。正面でかかるサルヴァトレスは、五秒かせげれば上等だ。
ゼンは得意な戦い方を、"巨人"に押しつける。力勝負に取り合わない。走った。小突いた。身を翻した。幹を駆けのぼって、額を踏みとばす。はたで打ち鳴る槍と槍、小柄が薙ぐほうを跳び越えて、サルヴァトレスに割り込んだ。
――悪ィな坊主っ……!
――ほら、立てなおして!
"巨人"が手隙だ、放っておけない。
持ち場を行ったり来たりして ゼンは要らぬ擦り傷をいくつもこさえた。
「まだなのっ、ハウプト!」
打開のしようならあるが、ひたすら答えをまっている。
"巨人"の剣をはねのけた。砕く思いで、膝を踏み蹴る。呻くのだから効いている。すこし退く、場を俯瞰する。
槍手と槍手は互角、ただちの援護は無用。サルヴァトレスも要領をえたらしい。回避に専念、ひきつける間に、"女剣士"の肩を、指先大の"貫きの矢"が抜いた。
僅差だが有利。ふまえてなおゼンは待ちきれない。
「わからんっ!」
ちいさな小屋の中から、ハウプトマンである。返答としては尋常な速度だ。
――わからないって何!?フランはいるか、いないかだ!
決断を迫られている。尋問ためには、使徒を生け捕らなければならない。それは必ずしも、三人ともでなくともよい。
実現するための剣が、もはや少年の手にあった。
――……選ばなきゃ。
どれでもいい。敵方の首がひとつ飛べば、雪玉式で事は片付く。この加減からなる均衡は、たぶんダルタニエンだけが察している。
――……彼か。
巨人の剣士が狙い目だった。
一撃は侮れない。
つづく二撃目にはあくびが出る。
大柄だから、脚を狙うのが常套手段だ。
潜り込む。膝を断つ。それから、それから。殺せるだろう。
――……クソ。
即決即断、これができない。枷がある。錠はみずから施したのだ。
ほかにも道ならあるはずだ。
そうとも、脚を不能にするだけでもいい。
葛藤にまた、ゼンは刹那を費やした。いつだってこれを、敵は見逃さない。
――あ!?
奇妙な視線だ。見られている。ちかくに新手がいる。
――攻撃の示唆!?
混濁した情報である。瞬時に判別できないでいた。意図して濁されていたのやも。
力の予兆、それと殺気。でどころは夜空、不自然に一角が真っ黒い。
"飛泉の構え"でゼンは受けて立つ。"巨人"の脚を斬りつけたばかり。
「あぅ!」
闇が雨となり降り注ぐ。ダルタニエンは捌く隙に、敵方の槍をもらった。サルヴァトレスはもっと回避に専念、"女剣士"に自由を許す。その剣気といえば、無防備なジニーをめがけていた。守るため、ゼンだけが飛び込めた。
仰ぎ見なおすとまんまるな月。ぽかりと浮かぶほか、いまや無害な空である。
――まただっ、あの"術師"……!
使徒らはとっくに遁走していた。これで終わらせてたまるものか。
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泣き崩れるジニーを背後に、ゼンは疾く駆けだしている。
「ひとりで行っちゃあ!」ダルタニエンの静止もむなしい。サルヴァトレスはその手当てだった。
"丸太小屋"には、ふたつのむくろだ。
物入れに窮屈に詰め込められた、首のない男性。木こりで暮らす、小屋のあるじだろう。
一部屋かぎり、さびしい机につっぷしていたのは、顔を焼かれた少女。
しるしは、かなりフランと似通った。フランが着るべき服を着ていた。
乏しい灯りの中だから、ハウプトマンには判ぜなかった
ジニーは早とちりをして取り乱した。
のぞいた玄関口からでも、ゼンには見抜けた。
――あれはフランじゃない。
なにか近くでじっくり見るまでない。だから走る、がむしゃらに追う。ただただ最後の機会と思えた。
――すくなくとも、命を奪ったね……。
"巨人"の脚には一振り浴びせた。闘気で耐えても際限はある。
小道とみなすには、開けた森の狭間であった。月明かりの青さに血痕がしみていた。そうでなくともよく香る。
ひひぃん!と聞こえた。いななきである。連中はいまにも木立から、逃走用の馬を引っ張り出すところだ。
――剣域まであと一息でッ!
すくなくとも"巨人"は捕れる。露骨に脚を引きずって、足並みがそろわない。そこを驚くべきかな。
「ベンッ、お前は行け!」
"槍手"だ、手綱をかなぐり捨てて舞いもどる。いかにも最後をうけおった。
「ばかにするな、これぐらい」
うけて"巨人"もむきなおる。苦悶ながらに親しく笑んでいた。
――……かばいあうのか。
対峙して目前、ゼンはチクりとした。決意がにぶる。これじゃどっちが悪者だ。
「フランをどこへやった!」
返事に期待はしていない。正当性を確認せねば、気が済まなかったのだ。
「ひとりでのこのこ!馬鹿ガキがよっ」
「……さっさとやろう」"女剣士"も戦う構えだ。
「ゆだんだめだ、こいつやるぞ」
一対三。ゼンは得意な方である。けれど今晩、ナルガズトーワとはいかない。
――無理だ。
負けやしないが、手はもう抜けない。
「やッ!」
"槍手"のお突きをいなして、ゼンは回った。"女剣士"を背中でさばく。"憤怒の構え"のこのあつかいは、シェリフマックから見て覚えたのだ。
手負いの"巨人"はやはりにぶい。ものの半歩の間合いでも、足さばきだけで統制できる。"槍手"の二突き目を構っている。
盤面は一度ととのった。
横一列に"巨人"、おのれ、"槍手"、"女剣士"になるよう、たくらんでいた。
槍にはばまれ、"女剣士"は手がでない。"巨人"を思えば"槍手"は薙げない。次のお突きにせよ、引く動作が要る。
一対一を繰り返すのが、数的不利の攻略法。ひいて相手の道を狭め、困難な選択を強いる。
――とれる……とらなきゃ。
思うほど、一筋縄ではいかなかった。同士討ち覚悟の薙ぎを、またもや意外、"槍手"は繰り出したのだ。
――やる!
挟み撃ちだ。"巨人"に構えば、槍には無防備。跳べばどちらも避けられる。ただし着地の不利を負う。
覚悟には覚悟でむくいよう。
"巨人"の横薙ぎを、まっとうにゼンは受けつつある。
――……使い手の意識せぬ方に、"剣気"はうまく働かない。
勢いの、死んだ刃をつかみとる。戦にあたって備えがあった。実戦にあたう手袋だ。
おのれの柄は左手にたくしていた。"槍手"の薙ぎを凌ぐのに、不動の大地の力を借りる。突き立てながら右手では、"巨人"に自由を許さない。
"槍手"は背後でたじろいだだろう。すぐさま引かねば、むこうにとっては決定打たりえた。時をみはからいおのれの柄を、ゼンはすっかり手放している。
"巨人"のベルトをたぐりよせるのだ。先だっての傷は大腿部、めがけて踵をねじこんだ。
「つぅ……!」
覚悟に覚悟でむくいたのだった。"槍手"の突きには動揺がみえた。掠める脇腹にせよ鎖帷子だ。大地から柄をとりもどしてゼンは、"女剣士"を払って牽制、仕切りなおしである。
「こんガキ!馬鹿に肝据わってやがる!」
「いった、ゆだんだめ……」
対峙している、一対三。簡単ではない。けれど内容は悪くない。"巨人"はみるからにのろく、"女剣士"も穿たれた肩を使いづらそうだ。
――もう二、三十秒でいい。稼げば援護がくる。
事情は敵も同じだった。
『私は影にて宿りし命』
彼我の距離が安全の基本だ。虚空を響かす、くぐもった男の声に、ゼンは大きくとらざるをえない。
増えるのは視線。ほとばしる影。凝縮するのに人型で、間もなく実体を宿すのだ。"光の騎士"として、ゼンは見抜いた。
――"傀儡"とは別。転移魔法……!?
青光りする夜闇だった。生まれ落ちたのが、"仮面の使徒"である。剣を抜いている。三人組をかばうようだ。
「ベンを連れて引け」
仮面越しだからくぐもった。理性のたった声だった。
「ダメだね、じきその坊やのお友達が来る」「おちおち馬にものせられねぇ!」
まやかしでない。
たしか「ダミアン」とか呼ばれていた。
只人なりの偉丈夫で、たずさえる、実直剣をも短く見紛う。
転移魔法は、こなさなければならない前提が多い。個人でなせるなら、悪心の力の転用か――隅をつつくのを今はよそう。
当座の問題はその人の実力が、剣を握ったヴァンガード級、ということだ。
ふーっ、とゼンは息ついた。単純な足し算だ。一対三でほぼ五分だった。一対四なら?
――さすがに……ッ!
苦しすぎる。"仮面"を先鋒に、 使徒らは一斉に攻めたくった。とうぶん息をつく間はない。
"仮面"の上段は半端でない。"女剣士"に首をとられかけた。"巨人"はのそいが、もとの威力が威力だった。槍をもらって、鎖帷子が裂けた。
――浅い!
あの湖畔の戦いとはちがう。しかし確実に追い詰められている。
手番が一巡、二巡した。反撃の余地がみつからない。
しのぐ、いなす、しのぐ、いなす。
逃げようもない。
どんなに上手くやったところで、かならず二方はとられてしまう。まだ十秒にも満たないはずが、一時間ぶりの呼吸に思えた。
――ハッ、ハッ、ハッ。
あと何秒要る?その何秒が、刹那にいるから、無限にひとしい。いちばん頼りはダルタニエンだが、じっさい傷はどうだった。
――ハッハッハッ。
待つ。ひたすら信じて待つしかないのだ。たとえ誰にも追いつけないのが、残酷な真実だったとして。
――ハッハッ!
うるさいな。気が散った。
――……あ?
無限と思ってまた何秒だ。あらたに増えた視線の主が、ダルタニエンならはやすぎる。それと。
――ハッ!
それらはげしい息遣いとは、おのれが発するものではない。
「グルルルルル!」
「何奴っ!」
"仮面"がくだんの仮面の下で、どんな顔をしたか見ものである。驚きざまならゼンも負けない。何せはじめて目にするのだった。
――人狼。
「ラァッ!」
青き月明かりにさらされて、かの救い手の白銀の毛並みは、目もくらまんばかりに輝いていた。
彼は森から跳び出でると、戦いのさなかにひととき立ちはだかり、全身の毛を逆立てた。吠えた。なりふりかまわず、使徒の一群に飛び込もうとする。逃す手はない。ゼンは続いた。
"銀狼"としよう。
巨人じみた体躯である。
人をなぞらえるのに、人と乖離した輪郭である。
鋭い爪は"剣気"と火花を散らせる。隆々とした前かがみの背筋は、しなやかさがあり、うつくしい。
"満開"なぞより荒々しかった。だれがどうみても"獣人"ではない。
獣だ。
単に怒り狂えるそれと、異なるところがあるとすれば、理性のひとみが琥珀色である。
"銀狼"は、"仮面"の刃をうけおいながら、かたてまに槍を捕まえて、使い手ごと明後日へぶん投げた。
「マテウッ!?」
あわてる"巨人"を、ゼンは押し返す。大きな背中に背中を重ねて、"女剣士"の足をすくった。
"巨人"をゆうに吹き飛ばしたのは、"銀狼"の脚力である。"仮面"の突きは、ゼンがさばいた。"銀狼"の脇をつかせない。
今度はおのれがおぎなう番だ。
――彼は強い。
が、あるべき姿を思ったら、どうということもない。
"銀狼"が、三人組に夢中になると、ゼンは"仮面"と一対一だ。やはり背中を預けあうにせよ、これがもっとも安全な分担と思えた。敵手をあらためる。
――対人剣名手。仮面で目線がくみ取れない。踏み込み幅、ほぼヴァンガード。後ろ手に未知の魔法を行使しないか警戒。
手堅い中段の攻防から、刃元で斬り結ぶ。真っ正面、力勝負に勝機は皆無。はやめに抜け出す、切っ先同士で牽制がある。
たがいに隙をみつけられない。
間合いをはかって、またいなしあう。
――なにをとっても僕の不利……。
思えるだけの余裕があった。
この手の「強い剣士」とは、来た道、もっともやりなれていた。相応な時が、そろそろ稼げる。
「ガルルルゥ!」
おそろしい、"銀狼"の唸り声である。
使徒三人組も気圧されるほどだ。ゼンがちらりとみてみたその時、"槍手"は片腕をへし折られ、"女剣士"は腹をかばい、"巨人"は得物を取り上げられていた。
「シェリーがやばい!」"槍手"が叫ぶ。
「退くぞ!」"仮面"である。
結果論だ。
ヴァンガード級の剣士を倒す。一対一をつかもうと、ゼンは躍起になりすぎた。
飛び退いていたのである。戦術の上での仕切り直しは、大局をみて悪手であった。なにがなんでも、"仮面"を拘束し続けるべきだった。
敵の第一目的は、この場を退くことなのだ。
隠し種をくらった。ちらりと前を見ない隙に、"仮面"がいなくなっている。
――背後!?
視線でやっとわかったのだ。せめて狙いはおのれでなかった。いまに"銀狼"を牽制し、"仮面"は"巨人"をひょいと担いだ。おぎなうためにゼンは突っ込む。
――まずい……!
どういうわけだか"銀狼"は硬直した。月が落とした彼の巨影を、"仮面"の刃が貫いてからだ。健在に飛ばされる三々四五の"剣気"から、白銀の毛並みをかばうために、ゼンはそのそばを離れられない。
順々、使徒らが馬にありつく。これで互いに剣域を外れる、ゼンは前のめりにいて。
――追うな!
声なき声が射止めるのだった。"銀狼"の琥珀の一対がある。
――なんで!?
――無理だ。すまない。限界だ。
断片的な意識が流れ込む。ゼンはダメもとの一振りだった。しかしこの距離、今日の"剣気"で散らせるのは、馬の尾の毛でいいところである。しばし並走を試みるも、"蹄減らし"だ。撒かれてしまう。
いよいよ逃がした。
ただ黙然と両膝をつく。
消耗、それもあるだろうが。
積み重なったおのれへの落胆。
つかみ損ねた数多の機会。
不透明な次回の展望。
――次?次なんてあるのか。
信じられないほど身が重い。いまや"光の騎士"とはいえど、十一度目の夏だった。
「ルルルル……」
「あ……」
ふりむくと、もはや輪郭が遠巻きだ。苦し気な"銀狼"の、唸り声である。彼はざっと、月影に青い森へ飛びこんだ。何度目か。
「助けられて……足りなかった」
回復可能な傷だと、よろこぶべきだ。ダルタニエンがやっとくるまで、ゼンは座りつくし、呆然と空を眺めていた。
いつの間にやら雲が盛り、夜の主ははざまに光芒をさらすのみである。
月。
"銀狼"が駆けつけたあのとき、頭上に引き下ろすかのように、はっきりとかがやいていた。見紛うことなき、その形。
「わかりきったことだったのに……」
"満月"の夜に、ヴィクトル・サンドバーンはいない。
師にして優れた守護剣士。公国人民の盾たる統括騎士。弧大陸に名を轟かす大英雄。
そのいずれの有り様でも、満月のとき、彼はありえない。
のぞんだところで、かなわないのだ。




