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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
誓いの章:悪心の呼び声
64/100

64.謀略 上


「いいですか?」

「うん、ちゃんと見てる」

 小型の複合弓だった。試しに引かせてもらったところ、意外と弦は重い。

「それっ……!」

 達者な構えだ。満を持しての披露であった。街道をまたいで十メルはある、的木を目掛けて飛翔して、五本のうちの三本が鳴った。残りも飛びざまに迫力があった。

「信じてください!練習のときはもっとうまく……!」

 ゼンは我知らずにっとした。

「もちろん信じるよ」

 練習に携わらなかったのは、まるきりフランの意向であった。目端に進捗をのぞいても、だいたい恥ずかしがられてしまう。ようやくまともに誘われて、昨晩の宴ほどではなくとも、ちょっとした催し事といえた。

(つが)えなおすのがはやいんだ。もちろん、いい意味でね」

 速射で先の結果であった。"緋矢"と同等を目指すというから、初心者にはかなり挑戦的だ。

「ちょっとみていい?」

 近づくと、フランは弓のことだと思ったらしい。差し出された手の方を、ゼンはとった。

 ちょっとうつむくだけで、彼女はなされるがままである。ものの三月で、背の高い方がかわっていた。

「あっ、ふふ……」

 ふにふにふに、としてみると、首をすぼめてフランはわらう。

「もう()()になってる。すごく練習したんだね」

 血のにじむような努力だった。

「痛くは?」

「平気です」

 君のこれは弓だこ、あなたのそれは剣だこ――はにかみあって、しばし訳もなくたわむれた。

 お披露目会はふたりきりだった。みんな夜更かししたのである。鼻高々だろうに、師たるジニーも立ち会わない。

 馬を世話するダルタニエンだけが、むこうのほう、黒馬車の近くでせっせとしていた。背の低い林道で、休息にはまだ時間があった。

「僕もやってみようかな?」めっきり引かなくなったとはいえ、ゼンも負けてはいられない。

「お手本ですね!」

「もうフランのが上手かも」

 矢を拾ってくるよと、ゼンはおのれの弓をとる。棒切れのようで粗末だが、きちんと狙えばきちんとあたる。フランのやる気をきいてから、あらためなおした手製である。

 はっきりとしない空色に、道は東西へひらけていた。すがすがしいまで広い、第一番主要街道である。最後の山を乗り越えて、一本道も岐路にいた。

 ほんの先ほどまでであれば、行く旅人も、来る旅人も見かけなかった。安全第一でたしかめた。的木にありつき、するとどうだ、左手のだいぶ来た道に、ぽつりぽつりと黒い影。駆け馬たちが山裾(やますそ)を、今にもくだってこようとする。

「フラン、下がった方がいいよ!」

「はーい!」

 察知するのに鋭敏さはいらない。まだ半キロルはあるだろうが、このあたりから()()も許可されている。


 ――急いでそうだな。

 

 火急の用の早馬だろう。次に射るのは過ぎてからがいい――至極まっとうに考えながら、ゼンは一本、二本と矢を引き抜いた。フランの視線を背でたしかめていた。

 三本目をとって胸騒ぎがする。力がこみいり、矢をだめにした。奥の茂みへ踏み入るのもやめた。


 ――それにしたって慌ててる……。


 林影で視界から外れていた。けれども音が尋常でない。

「ねぇフラン!誰か大人を――」

「あっ」

 遅かった。

 否だ。

 速すぎた。

 瞬きの間に、三騎が行った。

 首をよじるにも追いつかない。振り向くまえから、視線がたりない。

 路傍から、いるべき人が忽然と消えている。


 ――フランッ!?


 攫われたのだ。

 訳など知るか。

 すべきことだけをゼンはやった。

 いま巻き起こる突風、そして砂ぼこり。うがたんばかりに早く速く、ゼンは脚力を発揮していた。

 ダルタニエンがうしろで何か叫んだ気がする。高らかに鳴らす指笛と、きる風の音できこえない。

 もはや平凡な馬の襲歩くらい、朝飯前に負かせるゼンだ。けれど、その領域では足りぬほど、追うべき相手はでたらめだった。


 ――"蹄減らし"だっ!あいつら……!


 謎の一団はぐんぐん小さくなる。"瞬歩"でさえも撒ける高速だ。

 かえした砂時計からもはや、いくつの粒が零れただろう。"蹄減らし"には、蹄減らしでしか追いつけない。 

 なら駆けるのは無意味なのか。

 いいや。

 はずみをつけるのに役立つはずだ。

「ぶるるっ!」

 いまにも追いつく蹄音を、こまかくふりむきゼンははかった。ことは三度でたりていた。

『全速力で駆けつけて』

 と、指笛に、頼まれからエマは参じたのだ。疾駆をちっともゆるめずに、前を見たままゼンはとびつく。

 脈動する、鹿毛の背中は四拍子。松脂まみれもさながら、びたりとはりついている。裸馬をまたいで、なんて馬鹿げた乗り方と、世がわらっても何を構うか。

 これがふたりの最速だった。これでひとつの生き物だった。

 搭乗者として舵はきらない。かかとで圧する必要もない。どこへ我らはゆくべきなのか、互いに意志が通ずるのである。


 ――前を追って!

 ――追いつけない!追いつけない!


 だきしめる(たてがみ)は黒い。苦渋の決断に、ゼンとてさまよう。


 ――使え!使え!使え!はやく、マホウを!


 粒ひとつ、零れるほどのやりとりだった。


 ――ごめんっ、ごめんねっ……!


 他に術がない。だから呼んだ。わかっていた。"蹄減らし"には、蹄減らしでしか追いつけず、むろん騎乗が必要だ。持続的な高速は、人が闘気を付与するから実現できて。

 駆る馬の生命を代償とする。


過重な(カフカ)力の(クアト)付与を(セプト)……!』


 尋常でない加速だった。

 何もかもを置き去りに、エマは走った。

 速かった。

 そうでなくては報われなかった。


 刮目すべきその最大時速、三百キロルともいわれている。しかし為せる闘気はヒトのもの、ウマにとっては本来相容れない。どんな壮健な馬体であろうと、ひとつふたつと蹄を鳴らして、直行するのは命の終焉。一時間そこいらで、どんな個体でもぱたりと死ぬ。

 あっというまに蹄をすり減らし、またこの星から数を減ずる。だから"蹄減らし"。

 知らないふたりでない。

 

 ――追いつく!追いつく!

 ――うん!うんっ……!


 類稀なる人馬であった。追う者と追われる者とで、相違えるのは、すなわち人と馬なのだ。

 燃やす命を無駄にはできない。

 世間で言われるふつうの態勢へ、ぬらりとゼンはとりなおす。

 "蹄減らし"を許されて、だいぶならされた直線道だ。轢かれる方が悪いから、行く人は脇によけねばならない。良くも悪くも見当たらない。

 例の一団は十メルもかくや目前。瞼を痛める向かい風のなか、手掴みできそうにも錯覚する。三つの背のうち、比較的小柄なものが反応した。

「追ってきたよあの馬鹿!」

 女の声だ、脇にフランを抱えている。矢じりの陣形も後方右翼。


 ――殺すつもりなら、いま捨てればいい。


 しかししないのだ。あやまちひとつで大惨事の高速移動から、すくなくともフランをかばう意志がある。ゼンはくまなく見れた。必要な情報を二秒でそろえる。一団は後方右翼に速度をあわせていた。()()のぶんだけ鈍いのだ。

「フランーッ!」

 返答はない。おそらく意識がない。

 手元の武器は弓と矢だった――こんなときに剣を帯びていない!

 エマはまだ走れそうか――まだ走れる!もっと走れる!――息の荒さに胸がくすぶる。

 矢じりの頭は振り向かなかった。目立つ武装なし。

 後方左翼は不詳の剣士、迎撃の素振りなし。

 後方右翼の女も剣は鞘だ。


 ――……女剣士!?

 

 あらためてよぎるものがある。片手に手綱、片腕にフラン。防御は難だろう。

 二秒経った。エマは死の崖を転げ落ちながらも、徐々に差を縮めてくれている。

 即決即断。

 斜めにつがえた弓を、ゼンははじいた。狙うのはむろん後方右翼。

「っ!」

 なんて馬鹿だ。冷静でなかった。こんな速度では風に勝てない。矢はたちまち後方へ押し流された。


風よ(マルガン)通い路を(ヴェストス)!』


 どうか(いら)えよあってくれ。実戦ぶっつけの"精霊魔法"にゼンは頼った。

 聞こえた気がする。


 ――開こう道を、汝が為に。


 二射目はとびきり引ききった。(つる)が遅れてはちきれた。

 目算距離五メル。風圧をものともせずに、弾丸のごとく飛翔する一矢。狙いは定かで。

「ふんッ!」

 しかし後方左翼が抜きはらった。見向きもせずに、身を乗り出して。死角から死角へ、それも他人にむかう高速飛来物だった。"不伝の先見力"ではすまない。


 ――"騎士道剣"……!?


 かなりの手練れだ。やっと後ろに興味をもった。頭巾(かぶり)が暴風になびいても、横顔はあらわにならない。のっぺりとした白塗りで、ひっかき傷の仮面があるだけ。


 ――仮面の使徒ッ!


 確信を得た。これは"悪心の使徒の群れ"だ。

 もはや木の棒に還った弓は、むかい風にゆだねた。どのみちあたってくれたところで、決定打とはならなかったろう。それもエマのおかげで。


 ――もう飛び込める。


 一団まで三メル。最後の手札に唱えはいらない。


火床(ほど)(はし)深紅(しんく)煌策(こうさく)


 紅き一条が火花を散らし、顕現しきるすんでまで、よぎる無数の道筋は、さながら夏の稲光。

 一番ふとい枝はどれだ。


 ――"煌策(こうさく)"は前に見せてしまった。"仮面"には通用しまい。剣を奪うのは至難。フランの騎乗馬への攻撃は、一か八かで彼女まで殺める。今ならもっと安全がとれる。"煌策(こうさく)"の時限はおよそ七秒、ふまえて"仮面"を牽制、女剣士のぶらさげている鞘を狙う。並走を機に柄を奪取、飛び移りフランを取り返す。もっとも肝心なのは、これら意図を読ませないこと――


 "煌策(こうさく)"のほとんど先端で、"仮面"と一合、そして二合。さかんな火花が鼻先で散っても、エマは果敢だ。速度は落ちない。


 ――いけるッ!

 

 ゼンは前へ、身をのりだしかけた。仮面に夢中と思わせぶりに、次の一振りで右手から鞘を奪おう。けれど狙いを読まれたか。

「アナンッ!」

 女剣士が呼びかけた。消去法で矢じりの頭だ。

 敵は三人、把握していた。予期もしていた、いるからには、何か役割がある。

 なおぎょっとした。

 矢じりの頭は人間離れだ。腰から上だけで真後ろをむいた。被りのしたは、夜の肌色の女だった。

 言い得もしれぬ悪い予感。

 術師の類とみていいだろう。"抵抗(レジスト)"するのに、選べる手段は闘気で受ける――そうとも、強行突破しかない。

 勝てるのか。

 影絵遊びでもするように、女は手指をくねらせた。ぬらりぬるりと組み合わせ、それが「予備動作」だとは明確なのに。


『《星よ――》』


 ゼンはみはって動けなかった。

 並びつつあるこの距離感。剣士であれば先手をうてた。敵はしょせん有詠唱なのだ。

 動けない訳は、ぜんぶ言い訳だ。

 実力不明の魔術師だ。初見の攻撃だ。対魔術戦の経験が乏しかった。集約するのは莫大な力。この頃、待ちを意識しすぎた。

 言い訳だ。

 (つるぎ)があったら、はねのけられた。

 あえて動かなかった?

 馬鹿な。

 おびえて動けなかったのだ。

 やっぱり剣がなかったからだ。

 剣がないだけで恐れたのか。


 光の騎士を肩書く身なのに?


 思い出すべきだ。

 それは心臓に素手で触れてくる。

 剣士のその手に、剣がなかった。たったひとつでも懸念材料。これみよがしに、むこうはつけこむ。

 無条件反射だ。

 これに抗えるものならば、心臓だって意志で止められる。


 ――まけるかッ。


 常識外れの少年だった。しかし竦みから立ち直るのに、大事な刹那を消費した。往々にして、決定打となりうる時間だ。


『≪――分かたれん》』


 魔術に後手だ。反省は後だ。だが剣がないのは事実であって、たとえ剣があったとて、この結末を変えられたのか?


 身の毛もよだつ魔法理をみた。


 世界が崩壊をはじめたのである。

 がらがらと、音を立てて。

 どこも比喩ではない。


 ――!?


 現実だ。現実に見える。大地に、空に、黒い亀裂が走ったら、割れて砕けて落ちてゆく。

 この世の構造物はまるで、硝子細工だったとでもいうように。

 実際は帯状の崩落だった。

 むかう面前にして左から右だ。

 すべてはもろい。くだけてかけらになる。空は地へ、地は底へ、底には暗黒がうずまいて、いまにも全てがのみこまれてゆき。

 道を失う。

 よぎったのである。うつったのである。類稀なる剣士の眼にして。


 ――落ちるッ!?


急制動(ダムド)!』


 "蹄減らし"の安全策だった。唱えると、エマはびたりと速度を失う。駆け足を不自然にとめたのに、物理上の不都合さはない。

「ぶふん?ふん、ふーん、ふーん!」

 エマは魔法に不思議がった。荒い息のまま首を上下する。

 前脚の、ほんの数セル先は崖。

 真っ暗闇な谷底だ。

 蹄がぱかりとその場で鳴ると、土くれが端をつたい転げた。 

 むこう十メル漆黒だった。 

 とても跳び越えられやしない。

 かたや走行していた使徒らは、崩落にとりあわずいた。彼らには道があったのである。それもとっくに崩れている。風神に背を弾かれたかに、地平の先へ粒となり、一団はもう見えなくなった。

 ゼンは唖然とするばかり。

 まかれてしまった。どう追えばいい。ふとエマは言う。 

 

 ――追いついたね!追い越した!もういいの?


「あ……?追い……追い越し、た?」

 ゼンは馬首をみおろして、ようやく我に返ったのである。ふと正面を見直せば。


 正常な景色がひろがっている。


 空があった、大地があった、道があった。依然として、背の低い林のはざまであった。

 夢ではないかと思われた。

「そんな」

 下馬して大地に触れている。土だ、然りとそこにある。

「もう、今からじゃ……」

 ほんとうに夢ならばよかった。


 ――まだ走る?もっと走れる!

 ――お前が死んじゃうよ。

 ――でも速かったよ!一番速かった!これまでで一番!

 ――……うん。


 "蹄減らし"は俗称だ。唱え方にせよ地域柄がある。長耳流のを覚えていたから、覚えたままを使ったが、もたらす結果はかわらない。

 駆け馬は、加速度的に寿命を失う。 

 失うばかりの戦いだった。

「……くそッ!」

 ゼンは拳を大地にうちつける。奥歯を欠かんばかりに噛みしめた。

「くそっ、くそっ!」

 選択を遡上(そじょう)しては悔いる。生まれてはじめての悪態は、なにも晴らしてくれなかった。


 フランの傍にいてやるべきだった。

 あれが敵だとはやく気づけば。

 なんで帯剣していなかった。夜会のあとで浮かれやがって。

 ためらわずに馬脚を断つべきだった。

 肝心なとこで怯えあがった……!

 エマがくれた好機をふいに。

 止まらずに走り続けていれば。


 追跡続行の判断は、フランとエマとで天秤だった。それも、むこうは構わず走り続ける。またがる命を使いつぶして。

「ぶふん、ぶふん?」

「……ごめん、ごめんね、ありがとう。もう行かないよ。いっしょに戻ろう、みんなのところに、黒馬車に」

 かろうじてゼンが平常心をたもてたのは、身に秘める、冷徹な狩人の自分が、相も変わらずささやくからだ。


 ――命を取るのが目的なら、無限の殺しようがあった。

 

 まだ目はある。

 時の馬車なら、可能性がある。

 なんにせよ戻らねばなるまい。


 必要だった、剣が。

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