62.想起
手づくりサイダーは蜜の味。松葉の香りのさわやかさが、ひとくちピリリとはじけるたびに、少年少女は目をぱちくりさせた。
もはや誰でも満足の仕上がりだ。炭酸割りと果実汁で調える、料理人のひと手間があった。
「祭りとまではしゃれこめんがな!」
ハウプトマンが開催を宣言したのは、少年少女の"誕生月祝い"である。ひそかに企画されていた夜会だ。
ジニーが六弦琴の腕前で驚かせた。
「ほんの見様見真似さね」
伴奏つきの誕生歌を、大人たちが斉唱する。
「よぉー、こいつぁだいぶ手間暇かけたぜ!」
晩餐の主菜は、こんがりとした鳥のまる焼き。詰め物仕立てで五羽もある。野外で組みたてる炉だって制約のなか、フランが手伝ったのであった。
「なに、収穫祭に振舞うものだろう?こいつは?」
ふだんであれば食事時、ムスっとみえるヴィクトルが、陽気に茶々をいれるのであった。めったにない酒をいれていた。
「ぼくからはこれだぁ!」
ダルタニエンが食後に披露するのは、町のほりだしもの屋でみつけたという、家族との思い出の品だった。すごろく遊びである。
「まだまだ、こちらもありますよ」
"魔法の居間"も二階に秘蔵されていた、フルーツケーキがふるまわれる。火を貸していたのに、フランも知らずにびっくりだ。
ほかにささやかな贈り物もあった。
あとは大人たちが、おのおのの誕生日の思い出を、おもしろおかしく語って聞かせる。夜更かしをしてもおこられない、火のともる聖域の夜であった。
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うとうとしはじめ少年は、ダルタニエンにもたれていた。
大人たちの声は、気持ちひかえめ、たまの笑い声。そのたび、うまく内容がきこえなくとも、にんまりとした。
焚火をぼんやり眺めていた。
実父のことを思いだせた。
不在をまことに実感したのは、剣の稽古が途絶えてからだ。
こうも長い別れだとは、別れた日にはおもわなかった。
もの静かな人だった。
読み聞かせはよくしてくれた。
物をよく説いた。
こんこんと、しずかに話す人だった。
「悪ガキだった」と、おばばは言うけれど、とても影から想像できない。
それで記憶は終わってしまっていた。
ああではない、こうでもない、誰ともちがう、彼ともちがう。
さびしい。
比べることでしか思い出せない。
たとえばどんな顔だった?
霞がかっていている。
おぼろなむこうが、ふと鮮やかになることもある。
この道を行くはたで見た、些細な出来事がカギになる。
べつの大人に剣を学んだ。
ヴァンガードはとにかく褒めた。
褒めすぎなくらい、褒めた。うるさいくらい、褒めた。
でかした!うまいぞ!よくやった!いいぞ!その調子だ!
大げさだよ、と言っても聞かない。
ちょっとでも手ごたえがあると、満面に笑み、それは喉が枯れるくらいの大声で褒めた。
どうしてそんなに?訳を訊ねれば。
『俺だったらその方がいい!稽古なんて、ただでさえツラいもんだろう?』
たしかに楽しい稽古だった。視野も飛躍的にひろがった。
――やさしいけれど、お父さんのとはちがう……。
ヴィクトルの稽古は、静かな稽古だ。
静かすぎるくらいの静けさだ。
ただでさえ、ふだんはもそり。そうでないなら、だんまりが、輪に輪をかけて無口なのである。
野生の獣だって尻ごみさせる、あの「ぎろり」で、こちらをくまなく観察して、はじめにいった方針を、耳から尻尾までやりとおす。
とても厳めしい形相である。
簡単なことでしくじったら、こっぴどく叱られやしないか?
意外に何も言われない。
かえってちょっとおそろしい。
はたまた、今のはどうだ!手ごたえアリだ。
そんなときでも、むっつりしたまま。
――僕をどこまでもはかってる……。
ようやくちかごろ、進展があった。
はじめてきけた。
『よし』
と、唸り声である。
ばぁっと思い出せたのだった。
実父が、どんな顔をする人だったか。
やはり静かな稽古であった。
稽古のあいだは静けさで、間違いがあると、淡々となおされる。
振る時間だけ考えてみたら、なかなか堪える部類だったろう。
あんまり長くて、誰かに呼ばれた。背中に浴びる、その声のあるじは。
――お母さんだ。
みっちりとした木柵で、あたりをかこまれている。守られていない外側には、あまり出たくなかった。
――家の裏庭……。
雨の日も風の日も、父が用事でいない日も、そして旅立ってしまったあとも。
――剣だけはやめなかった。
苦しいと思ったことはない。
上手くできたとき、かならず父は、「うん」と満足げにうなずいてくれる。
優しくほほえんで、「よくできたね」と頭を撫でてくれる。
すると胸いっぱいに嬉しくて、それが何よりも楽しみだった。
むくわれた。
思いだせたのであった。
見上げていたあの微笑みを。
ひとたび胸元でつかまえてみると、何もかもたぐりよせることができた。
――ちょっとガンコなところがあった。
散らかしてたのをかたづけないで、お母さんによくおこられてた。
ちいさくなってあやまって、うしろの僕にはべろをだすんだ。
あの「物語」を、きかせてくれたのは、お母さん
でも、意味を教えてくれたのは、お父さん。
約束は守れ。
いちどだけ、ひどくおこられた。
あんなにおこったお父さんは、たった一度しかみたことない。
約束をやぶったから?
ちがう。ぜったいちがう。
あの日にはまだ、"じーさま"がいた。おばばとおんなじくらいの、としよりだ。ふがふがしゃべるその人を、おもしろがったか、こわがった……それでおこられた。
すべての人のしるしを、大切に思うようになった。
(寝ちまってるぞ)
(おや、もうこんなにも夜更けですか)
(中まで運んでやってくれ)
(はーい、そぉっとね)
(……やつも居てやれればな)
おきてるよ、まだおきてる……。
暖炉のあるリビングだった。ソファでねちゃうと、ベッドまで運んでくれて……。
それも、うれしかった……。
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"深い根に霜は届かない"。種があるから咲かす花がある。
どんな悪意にさらされたとして、君は君として生きるんだろうね。
人知れずに立てたその誓いを、いまのところは僕だけが知る。
もう力になれないのが惜しい。肩書きにはさぞふさわしかろうが……ありふれた、いばらの道だ。
"Deep roots are not reached by the frost."(深い根に霜は届かない)―― J.R.R. トールキン『指輪物語』




