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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
目覚めの章:統べ手無き土地
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48.晴れ間


 太陽が、(まばゆ)在処(ありか)を知らしめている。闇を蹴散らす星助(せいじょ)の燈明、騎士なき時代の救い主である。光の神の御姿と、古くから信じる人々がいる。

「僕は知ってます。ふたりのことを、なんて呼ぶか」

「ん?」「む」

「英雄、です」

 碧天は炎節の兆し、雨季の終わりをうたうのだろうか。雲のひと粒までたち消えて、ひたすら広がる青、そのもとに。

「ははは、英雄!まったく大した肩書きだ。数歩ゆずって認めてみるとして……俺らふたりだけのいつぞやは、こうもうま~くはいかなかったよな?」

「左様。大波に延々飲まれては、ひどく攻めあぐねたものだ」

「なんなら今度のが()()()()か?」「否めんな」

「それがどうした不思議な話、俺もお前もぴんしゃんしてる!」

「ああ。かすり傷のひとつとない……」

「はじめてか?」

「はじめてだ」

「なんでだろうな!教えてやるならお前からがいい。俺は大げさだからって、ふたりは信じちゃくれないかも」 

「よかろう……深き闇のなかを突き進む心威とは、誰しもに宿る訳ではない。特別に能うと、認めて人は言う。倣うならばつまり――」 

 邪悪を晴らした四人がいた。


「"英雄"と、お前たちも称されるべきだろう」


 邪悪を晴らした、四人の英雄がいた。少年はそのひとりだった。陽の目にちりりと、つむじを焼かれている。歪みのない光の力だ。今という今は心地良い。

「俺らがいない間も、二人でうまく切り抜けたね」「俺はついに神子を見たぞ、フラン。守手を確かに果たしたな、ゼン。実に……」

「「よくやった」」

「うん!」「はいっ!でも、その……」

 偽りの夜は明けている。邪悪の気配もほど遠い。

 ただ。

 残滓、とはたして呼べるのか、その異物は。あまりに大きい。見逃せない。


「穴は……?」


 穴だ。

 そこには穴があった。

 直径優に十メル超。なおも水なき湖底の中心で、ぽかりと口をあけている。日輪がどれほど咲き誇ろうと、空虚な黒を晒してやまない。深淵として、果てなき果てとを繋いでいる。

「よくぞ訊ねてくれました!これこそ"穴"の厄介なトコだ。飛び出る魔物をどれほどやっつけようが、そしてやっつけまいが、いっぺんあいたら塞がにゃならん。デカけりゃデカいほど、これが面倒なうえ、放っておいたらまた悪くなる。まったく虫歯とおんなじだ」

「じゃ、はやくなおさなくちゃ!」「どうしたらふさげますか!」

「やり方……か。うん、心得ちゃいる!いるけどもな……」

 変だ。ヴァンガードがおかしい。自信を体現するその巨躯が、今ばかりどこかよそよそしい。さするのは金の無精ひげ。歯先ですぅーっと細い息。泳ぎだしたが青いまなこ――視線は、隣に立つ騎士へといきつく。ヴィクトルだ。特技はため息。塗り方を、常人の倍は持っている。にぶく重た~いそれで、何らかの同意を訴えた。

「ところで、だいぶいいお天気だね」「ああ」

()~な金切り声も聞こえなくなったし」「とんと聞こえんな」

「どうだい少年?魔物の気配とか……まだありそうかな?」

「え。ない……と思うけど」

 たとえ話題を曲げられようと、素直な少年、素直に答える。"穴"をさておけば然り、異常はひたすら見つからない。魔物の絶叫は聞こえない。地中から触手にいたずらされる予兆もない。ふと風向きによっては血生臭い。焼け残った"蛭頭"の死骸が、湖底にいくらか散らばっているからで――みんな動かない――死んでいるのは確からしい。すなわち()()()に、脅威はない。

「"穴"はよっぽど静かかな?」

「うん、すごく静かだ」

「だよな!だったら当面平気だよ。()()()はしばらく手が出ない。戦いは終わったんだ、俺たちが今やるべき分はね。安心して良い」

「そ、そうなんですか?……はぁ~」ぺたん。フランは座り込む。「ごめんなさい。私すっごく、疲れちゃってて……!」

 "神子"は無尽蔵の魔力を有する。とは、物の譬えである。まったく使い果たすまで、たとえば類にみない大魔術を、限界を越えてなお放つなど、試みた人がどうしていない。のこらず消えてしまったからだ。幸い、フランにはまだ余力があった。"光槌"だって、踏ん張ればいくつか打ち立てられる。おそらく控えておくがいい。からだは教えてくれている。"一条の道"と今日ではちがう少女で、強くなった。誰かの力を借りずとも、まだまだ立ち上がれるはずで、ままならないなら、見えない何かがひどく疲弊している。越えてはならない一線が近い。彼女はとても幸運だった。そばに三人も、負担を分かちあう英雄がいた。

「僕もちょっと休憩したい……かも」

 フランが休んでくれたので、ようやくゼンもあぐらをかける。くたくた具合も大概である。百か二百か三百か、刻んだ魔物はもっと多いか。振った数など、数を覚えてなおはかりしれない。ただ打ち込むだけとも訳がちがった。すこし過てば命が落ちた。今日をふたたび繰り返せと、時の魔法に強いられたとしよう。同じだけ上手くやる自信はない。記憶を持ち越せても、かえって危うい。折れるかもしれない。と、思うほどには、心身ともに限界だった。それでも休むのに気が引けたのは、神子より先では格好がつかぬ。と、肩書きが仕立てる、小さくも大きな意地のせいだ。


 ――まだまだ遠いや。


 大人はやはりおおげさに褒める。本物の"英雄"ならばきっと、これしき座り込んだりしまい。まさにヴァンガードとヴィクトルのように、堂々たる立ち姿を保って――はたして、いつまでいたろうか。変なのだ。ヴァンガードも、ヴィクトルも。

「ヴィ~?お前もさ、そろそろ休んでいいんだぜ。振って凌いで、だ、い、ぶ、疲れたろ」言いながら、戦友の肩に添える手は、心なし力がこもるようだ。すると同じ形の労いがある。

「貴様こそ遠慮をするな。さんざ暴れた果てにあの一撃、消耗も、か、な、り、見て取れる」

「いーやまったく!ハシゴでいけるぜ」「俺とて相違ない」「お、やるかい?」「その気概で足るか?」

 ささやかながらの決闘だった。疲れ気をいかに見せぬか、矜持の刃で火花を散らす。彼らは強い、それゆえに、なんだかんだと負けず嫌いだ。あるいは負けず嫌いだから、彼らは強い。日常けっして奢りを見せず、陰ではむしろ「ヤツは俺より強い」と互いにほめ称えすらして、いざ対面、しょうもないことで負けず嫌いだ。たとえばそう、剣盾礫(じゃんけん)であるとかも。

 少年少女は見あわせる。前にも、こんな出来事があった。ふたりの意地の張りあいは、ともすれば日だって暮らしてしまう。ひそり打ちあわせると、ばっ、とそれぞれの袖にしがみついた。ゼンはヴァンガードを、フランはヴィクトルを、「こっちにおいでよ」引きこめば、手ごたえ軽く座り込んでくれる。本気の英雄が抗えば、こうはいかない――だろうか。大人たちだって、それなりしかと疲れていた。

「ありゃ!これだと引き分けかな?」

「しておくか、そういうことに」

 ふふふ、とみんなで笑いあい、今度こそようやく幕引きを見る。




 ---




 馬車におきわすれた親父くさい帽子が、少年はすこし恋しくなった。燦々(さんさん)と日は加減を知らない。最低限の休息は終え、引き返したってよい頃合いも、いまだに座り込んでいる。来たりし「味方」を期す合間、"穴"の見張りを兼ねている。

「"使徒"にかぎっちゃ、お構いなしだからね」

 闇が祓われ、陽も高い。ヴァンガードが言うのは、輝きを厭うから、果ての魔物は顔を出さないが、この世の人たる使徒はちがう。という意味である。

「戻ってきたら大変だ……」

 七人もの使徒を捕り逃がした。"蹄減らし"を使ったという。"蹄減らし"は、"蹄減らし"でしか追えない。騎馬を前提とした魔法である。いかほど速いか?"瞬歩"を駆使する騎士すら撒いた、これが答えだ。とはいえ納得など、撒かれた当人に生むべくもない。

「遁走した西方で何か目論むらしい。この土地にはもう現れんだろう」

 西には、エウロピア公国がある。公国にはヴィクトルの故郷、ダンコヨーテがある。ヴィクトルは、公国の騎士だ。待つものひとつとないのなら、この一戦の消耗がなければ、どの脚といわず駆け出していたろう。

「引き返してくれようものなら、むしろ好都合だ」

「七人ぜんぶでも?」

「ああ。手間が省ける」

 騎士とはかくも恐るべし。使徒らの力量を思えばなおさらだ。元気なゼンが七人がかり、この場でただちに飛びかかったとして、返り討ちにあうのとほとんど同義である。

「俺らの余力は本物だよ。だからこそ、彼らは気の毒だ……」

 圧勝だった。余力を残せたのだから、圧勝だ。生きた四人に限ってである。王国兵についてを、ヴァンガードは言った。一山の認識票だけを託して誰も、(むくろ)の形を残さない。第二防衛線から一キロル超、彼らの脚を奮わせたのは、先発した王国軍精鋭か、突出した公国騎士か、両方か、今となってはわからない。非情ながら、足らぬ何かがあったのだ。とてつもない理不尽とまみえてからでは、間にあわせるのにもう遅い。覚悟に、力に。

「……噛み合いだ。共闘とてあり得た」

 みえないほんの一欠けら、それが巡るか巡らぬか。不意の小石に躓いて、難を免れる人もいる、肥溜めに溺れ死ぬ人もいる。巡りにとことん恵まれない日は、英雄にだって訪れる。戦いに絶対はない。終わりの意味だけが、平等だ。

「確かに。ばっちしヴィーと合流できなかったら、俺らだってどう転んだか」

「次もこうとは、ゆめゆめ思うな」

 "二巡目が、誰しも一巡目より得意"、そんな言葉もありはするが、慢心すなわち死が戦場(いくさば)だ――先例を兼ねた鉄則を、大の戦士らは言い聞かした。あんまりに口酸っぱく、言い聞かした。いつまでも真面目に頷ける少年はよし、うつらうつらとしだした少女は気の毒である。残る仕事も捨ておけず、日除けの手ぬぐいをかぶった彼女を、誰が一足先に馬車へ連れ帰ろうかと、話題も転ずる折りあいだった。期されし「味方」はやってくる。

 陽射しに遠景をめいめい(すが)めた。二十、三十、それくらいか。人馬を交えた一団で、もれなく湖畔の町並みを背負う。大小戦士は立ち上がって迎えた。何を隠そう残る仕事とは、引き継ぎである。


「ハァイ!王国軍特務保安部隊のマクリーナ・チェチェックです!」


 剣を帯びるから、剣士と知れる。濃緑色を基調の軍装に背後、ネコ科の尾っぽがぴこりと覗いた、二部咲きだ。短髪に生えるだろう獣耳は制帽で隠されている。浅黒い肌は張りをみせ、厚い唇はぷくりとあでやか、生気溌溂たるこの女性こそ、一団の責任者と察せられた。徒歩で先陣を切って以来、彼女の前に出た者はいない。

「ひょっとしなくともあなた達ねー?この湖に青空を返してくれたのは!子連れだからって疑わないわ、風の噂は聞いたもの――あら?」

 顔ぶれをざっと確かめてすぐ、チェチェックは目を見開き、続けざま、ぴんと背筋を伸ばした。カツ!と長靴の踵を鳴らした。額に右の五指を掲げた。ひとつ瞬く間をもうけてからは、「いえ、こちらね……」と、拳をつくって胸を打つ。順手に柄を握っていれば、刃が心臓を突き刺しただろう。左では帯びた剣柄を正している。

 ひとふた言ほどにも滲んだ彼女の愛嬌をして、一連の動作は、いささか芝居がかっても見えた。だが慣行にのっとり礼を尽くす様とは、総じて儀式(しばい)めいているものだ。盾の形の統括紋章、それはヴィクトルの胸元に輝いていて、知る人の敬意という敬意を引き出さずにはいられない。証左、彼女のうしろの兵士らにせよ、一糸乱れず(かしら)に続き、五指を掲げたままでいる。

「失礼、作法を弁えず」

 軍人然とした発声が、彼女の印象をあらためる。なれなれしさは消え失せていた。 

「かまわん。こちらとて所作には疎い……」

 対する騎士の、唸り声である。やや気だるげな答礼をもって「敬礼よ直れ」の意を伝えた。するとチェチェックは()()()をとる。後ろの一団もざっ!と続く。

 なにも輝く"盾"だけが、彼らをかくも振るまわせる(よし)ではない。一概に並べ立てては誤解も生むが、"統括騎士"の肩書きとはおよそ、王国に呼ぶ「将軍」相当を思って良いから、つまり、仕える国を異にしようと同盟の軍人ならば、それなりの、とるべき態度というのがある。互いにだ。(くらい)を下に持つ者は、上の品位を保とうとするし、(くらい)を上に持つ者は、下に余分な負荷を与えるべきでない。"騎士の礼"にせよ整然具合が、後先のあとが勝ったら、叱責とまで言わず、イヤミくらいの意味は持ちえた。と、皮肉屋さんならよく知っている。

「ヴィクトル・サンドバーン、公国騎士だ」

「!お会いできて光栄です。ご武功は我が国でもかねがね」

「……すまんが、貴国の言葉に慣れん耳でな。日常話法(フランク)の方が有難い」

 なまじ王都暮らしのアメイジア人などより、かたっ苦しい――ないし古めかしい――王国語使いをするのがヴィクトルであるから、唸り具合も方便だ。わかるだろう。この来た道を振り返り、笠に着る者がいたろうか、肩書きとは、おのれを律する掟にすぎない。

 チェチェックが「本当に?」と上目遣いで訴えかけると、「肩も凝ることだ……」と、ヴィクトルは付け足した。ぎろり、に他意は込められていない。

「そうおっしゃるなら、心得たわ」

 たとえ彼女が軍帽を脱ぐ日も、弾んだ声音で誰とわかるだろう。

 握手にはゼンも応じた。ヴァンガードの自己紹介のあとだ。うとうとするフランは、できる範囲でそおっとしておく。

「みんな、はじめてちょうだい」

 あたりも騒々しくなることだ。チェチェックの合図に兵らが散って、天幕の設営にとりかかる。手際も用意もこれほどなかった。作業に見惚ける隙も大概、たちまちひとつめが完成だ。特大のそれへ入ってみると既に、どんと中央に長机、そばにずらっと折り畳み椅子、隅には野外寝台までが当然のように用意されている。こちらへどうぞと言われるがままゼンは、腕の中で微睡むフランを寝かせ、やはり、こちらへどうぞと案内されるがまま、末席にちょんと腰かけた。脚部にふれると、ひんやりとする、めずらしい椅子だ。しかも――こんなに色々たくさんのモノ、馬の背中にのってたかな――どこからともなく現れて、不思議である。王国が千年先駆けるのは、なにもおそろしい技術ばかりを言わない、その一実例だった。

 一番の上座はヴィクトルである。その対面に、制帽を脱いでチェチェックが座る。やはりネコ科の耳がある。

「お疲れのところ悪いわね」

「これを怠ればより悪かろう。努めればせめてもで済む」

「ごもっとも。一粒だって無駄にしないわ」

 情報伝達速度にせよ、王国軍は抜きんでている。この"清涼なる湖畔の町"に起こった悪心を、仔細共有できたなら、今後起こりうるやも最悪も、幾らかマシになってくれる――先だってゼンは聞かされた。誰が言ったか、ヴィクトルだ。ふだん、期待を語らない口だ。しかし、現実を信奉している。こんな現実である。

 王国は、悪心抑制を主目的として、アメイジア外の情勢不安定地域、とくに弧大陸で治安維持活動を行っている。悪心有事その時には高い確率で――必然さながらの頻度で――現場に居合わせ、初期段階で鎮静化させる。例に漏れる万が一、たとえば"穴"の発見が遅れ、すでに大きな侵食が見られる場合には、急行した第一陣が遅滞防御策をとり、やはり数時間以内に駆けつける第二陣をもって事態を収拾しきる。完全にだ。できなかった、という話は聞かない。

 そして"統べ手無き土地"と言えば、王国軍がまさに睨みを利かす土地である――このあたりを語る際、ヴィクトルはつい苦く笑んだ。というのも、"清涼なる湖畔の町"はとりわけ"統べ手無き土地"も西端、エウロピア近域にして、公国庇護下と呼んで等しい。先駆けるのは公国騎士であるべきだ。それが、最寄りのシュワルコフ領から騎士団がどれほど急げども、"蹄減らし"で一日半を要する。危機その時に間に合わせるなど夢また夢、公国には王国の真似など、到底できない。これまた現実ゆえ苦く、覆せぬから笑うしかない。

 続きがある。鎮めてそれで終わらない"穴"だ。事後処理にまで、王国は巧い。魔物の波にさらされた居住区は安全化が不可欠であり、広がりかねない地獄の門は、どうにか早急に閉じねばならない。そこで剣は鍛冶屋に、錠は鍵屋に、王国は特殊技能兵を手配する。小銃を構え、表通りから屋根裏までをくまなく捜索する、市中掃討作戦部隊。杖を振るい、二度と綻ばぬよう"穴"を縫合する、魔導封鎖部隊。ヴィクトルは見て知っている。エウロピア駐留王国軍は諸条約に縛られ、領内では魔法じみた機動力を発揮できないが、代わりとばかり買って担うのがまさに後始末なのだ。一度や二度ではない。遅かれ早かれ必ず彼らはやってきて、公国騎士のみでは手に負えない大火とみれば、火の粉を浴びての加勢も辞さない。だから此度とて、かんかん照りに期して待った。待てたのは、騎士にせめてもの体面でもあった。

 視点を変えよう。玉座も彼方の土地にして、どうして王国軍(かれら)は尽力するのだろう?やはり自明である。災厄は、見て見ぬふりを通すほど悪くなり、みずから終わりを象徴しながら、終わりというのを弁えない。(しま)える誰かが必要なのだ。反転したあの空を仰げば、余計な世話と強がれる者はいまい。


「よし、七人目!こんなところでどうかしら?」

 人相書きが特技だそう。チェチェックが机上へ滑らした画用紙は、七人分にして七枚目である。

「ほんとう、牡鹿と似てるね!」

 都度のできあがりを、わくわく待ち構えていたゼンだ。絵の類ならイトーもうまいが、馬車旅とは延々揺られるもので、筆の成果はみみず文字で相場、精緻な似顔絵までなると、なかなかお目にかかれない。チェチェックがよこしたどれもは、絵心をまさに謳っている。まるで現実の切り抜きかだ。ごく短い時間に、ものの一本の鉛筆を走らせて、白地に黒を重ねただけが、千の色彩を宿してさえ見える。そして無論、(しるし)を欠かさない。七枚目ならば二本の角が迫力で、目深なローブの獣頭について、画用紙から今にもつき抜けそうである。

「これがガゼルの角なんだ」

「ええ。()()があって、ちょっとうねるけど、枝分かれはしないの。なぜなら……」

「山羊といっしょで牛のなかまだから、でしょう?」

「ふふ、その通り!もうばっちりね」

 主にはガゼルにまつわるそれだが、子どもの「知らない」「知りたい」にも、チェチェックはよろこんで答えてくれた。"さなかの言葉"が達者な彼女だ、ゼンにはとても親しみやすい。肩書きといい、シェリフマックが重なった――元気にしてるかな?今もどこかで、誰かを助けてるのかな?――消息を訊く機は、ついぞ逃した。

 天幕のうち、長机を立ったり座ったりで取り囲む大人には、ヴィクトルにヴァンガード、チェチェックと、チェチェックが「補佐官」「書記」「隊長」と呼ぶ王国軍の兵士らがいる。人相書きが出揃うまで、"商隊"に馴染み深い声ばかり行き交ったのが、ガゼル頭が見えてはちがう。"悪心の統手"らしいから、軍人たちはざわついたのだ。はしゃいだのもつかの間、知らない言葉を、ゼンは拾った。

「"統手"って?使徒とは違うの?」

「部分的には同じで、部分的には違う、と言えるかしら。正直、名付けた私たちにも、区別はだいぶ曖昧なの」

 チェチェックが私たち、と述べればすなわち王国軍である。続けた。

「一目でこれとわかる(しるし)が、どうしても定まらないせいね。使徒と同じく人の形をとっても、使徒にはない大きな力を持つ存在、というのが一応の定義だけれど。実戦的には……そう、魔物を"穴"から呼び出したり、操るそぶりをみせたら黒、と考えるべきかしら。まさしく騎士(サー・)サンドバーンが目にしたように」

「へぇ……」

 はじめてづくしの"悪心"だから、ゼンが聞くのは知らぬことばかり。本当ならばもっと知りたい。しかし人相書きも終わった以上、更なる「もっと」は続く仕事の邪魔になるやも。つのる興味を堪えていたのが、チェチェックにはどうやら見透かされていた。

「あとは、大穴に居合わせるなら、"統手"の可能性が高いとされるわ。今回の"穴"は規模等級三……いえ、見立てほとんど四の大穴だから、いたとすればその点、先例に従順ね」

 突然の大穴、徒党を組んだ使徒、まったく異例づくしだとは、後にも先にもよく聞いた。ゼンにはふつうがわからない。先ほども、これがはじめてだからと笑うと、兵士のひとりに、坊や一体いくつだい、と年を訊かれた。十かそこらだ。応えてみたその後に、見る目を変えなかったのはチェチェックだけだった。

「理屈は簡単。恐れもなく大きな穴へ近づけるのは、抗えるだけの力の持ち主に限られるからよ。どんな立場でも、どんな外見でも、変わらないものね」

 王国軍の規定によって、直径何メルで規模云々と、穴には都度の数字が振られる。いくつ以下なら昼間はもっぱら安全であるとか、いくつ以上でも悪心が枯れれば当面はおとなしいとか、チェチェックが教えてくれるのを、ゼンは熱心に聞き入っていたのだが、"さなかの言葉"でも数字の話とわかったらしい、ヴィクトルがいい顔をしなかった。

「……もっとも大事は身を守る術だ。小手先にあまりかまけるな」

 唸り声である。ゼンにはもはや頼もしいそれも、聞き手によっては恐ろしい。チェチェックをえらく慌てさせす。

「ご、ごめんなさい!私ったらつい調子に乗ったわ」

「む、いや……」

「そもそも大人だけで片付けるべき話なのに、悪心なんて……」

 予期せぬ反省まで招いていけない。誤解されがちなヴィクトル語だから、通訳が要る。多くはヴァンガードが担う。

「あは、チェチェックさん、ヴィーは別段責めちゃいないよ。(やっこ)さんらの現れる形は、時と次第でまちまちだからね。難しく覚えてもしょうがない、そんなトコだろ?言ったのはさ」

「左様。型にとらわれては危険すぎる相手だ」

「謝るなら先に俺らだ。急いてたとはいえ、少年に大事を教え損ねてた」

 この世の果ての存在に、秩序や理屈は求められない。遭うたび人は分別を試みるが、つかめて一時の傾向なのだ。

「今日の理解の仕方だって、いつまで続くかはわからない。踏まえた上で最先端を聞かしてもらうんなら……さほど問題ないだろ?」

「……まぁな」

「王国の軍人さんから直接教えてもらえるなんて、有るようだけど無い機会だぜ。こっちからお願いしたいくらいだ。な、少年?」「うん!」

「それだったら!」

 要請を受けてチェチェックは、より実戦に即した部分に限って、悪心にまつわる現状の「定型」を説いた。

 "穴"は、人の目につきはじめて目覚める。目覚めれば、"集団暴走(スタンピード)"もかくやの魔物を吐き出す。一定の周期を伴なうこれを、"波"と呼ぶ。

 "波"を構成する魔物は、およそ人間大を前後して、質より数に任せて迫る。働き蟻のような存在で、とりまとめて"尖兵級"と分類し、現場では"尖兵"と呼称される。

 大きな穴は、守護者を伴なうことがある。穴の付近に居座るので、あるいは地獄の門番だ。魔物が務める場合、総じて特異(ユニーク)な個体で、「作戦」や「罠」といった高度な概念を理解する。高強度の魔法を際限なく行使する例もあって、一筋縄では対処できない。これを"首領(ボス)級"と分類する。

 地獄の門番には、もう二種類が確認される。「"影の傀儡"と、"骸の傀儡"よ――」ここでヴィクトルが遮った。ゼンに向けて唸る。

「どちらも多くは剣士の(なり)だが、人型と思って惑わされるな。斃すほかないと弁えろ」

「わかります。"使徒"と同じ、ですね」

 徴を以て、名とは授けられる。現場判断もしばしばだ。戦いもさなかに相談などままならず、既知のどれともつかぬ半端な形が相手なら、誰かがつい叫ぶだろう仇名、それを拾って通せばよい。

 "使徒"もそうして名がついた。「遣わされし者」を原義に、かつては、招かれるべくして招かれた、聖なる証人を指す言葉だったという。当代では変わった。正反転して、核だけを残した。

 ()()()に与する人は、古くからいる。しかし、それぞれが如何な悪意を振りまいたかは、模倣抑止の観点から、あまり公にされていない。共通不変に語り継がれるのは、彼らが「仲間」を理解しない、という点だ。目的の為に悪心は、同士討ちなどまるで厭わない。歪な火炎は蛭を焼き尽くしたように、"使徒"であっても"使徒"を手にかける。

「たとえ血縁であろうとな」

「聞いてるわ。"四刃分界の大決闘"ね」

「妙な(うた)い名を被されたものだが、左様。詳しいな」

「ここ数十年で『おや?』と思われた、たったの一例だもの。怒られちゃうかしら、深堀りしたら」

「……いいや」

 聞いたや否や、張り切るらしい、えへん、とチェチェックは(しわぶ)いた。

「異なる町で二つの虐殺、行われたのは同じ時刻、行ったのは同じ顔だった。現れたのはなんと双子の"使徒"!追手がかかりじき判明する、どうやら彼らは落ち合うらしい。すわ凶悪な使徒の共闘か。いち早く双子と(まみ)えた()()()は、ひとりきり――」

「……ひどく窮した。奴らは確かに手を与し、先走った若造を殺せるだけの力があった。気の逸る若造が、俺だった。死すべき時に、しかし幸い、救援を得た。ひとり限りだが名騎士で、残る全ては彼の功績だ。束の間にして形勢は逆転、勝ち目が失せたのだと連中に悟らせる。弟の方がいち早く降参した。俺から退き、兄の背を刺して……乞命交渉の材と成せる、そう思いついたが為らしい」

 ヴィクトルが語りを引き継いだのは、チェチェックの期待の眼差しを受けてだった。張り切り虫は芝居である。その気にさえなってくれるなら、当事者の談が価値でより勝る。見解にせよ、最新だった。

「欲望の数だけ、親眷(しんけん)だろうと笑って殺す。それが使徒だ。困難を前には、在りし日の絆も泡沫に及ばん。(よすが)をもたぬ者同士で並べば、その利己主義などいつまで御せる。独占、蹴落とし、疑心に(まみ)れ、傍立つ間もなく仲違(なかたが)いは不可避だ……不可避と、思われてきた」

 改める日が来たやもしれない。ここに"統手"が現れた。使徒は仲間を知らないが、支配者ならば、戴くやもしれない――実戦的な部分の話は、これにておおよそ蹴りがつく。

「聞けて良かったよ。ありがとう、チェチェックさん」「ありがとう!」

「こちらこそ!提供してもらった情報は、軍部で共有するわ。もちろん貴国にも」

「頼む」

 悪事を為して、悪人は生まれる。しかし悪人に"徴"が有るか?使徒も統手も、事情は同じだ。道を行きかう善人に紛れ、息を潜めることも能う。再びの奇行凶行が、明るみに出るとも限らない。殺戮だとも限らない。騙し、盗み、汚し、傷つけ、望みを果たすべく貪欲があまり、(たま)の尻尾を見せるだけ。それも人相書きがあるなら、ちがう。"徴"が割れる。どこまで追える。追う人々がいる。

 

 引継ぎ作業も終わり模様に、湖底を響かす蹄音があった。天幕内まで届く近さだが、(おもて)の兵らは平静で、友軍の一騎とわかる。じきに守衛が応対する。「地区担当より、特務との面会希望者!」「問題ないわ、通して」「入室一名!」それで、みなして顔をあげた。

「失礼する!」

 ややずんぐりとした中年で、いかにも堅実そうな雰囲気。コルゴッサ大尉だ。町の防衛指揮を執っていたから、"商隊"とは面識がある。一方で。

「チェチェックよ。あなたの中隊とは初めてね、よろしく」

「よろしくお願いします、特務中尉殿」

 アメイジア人同士であるのに、こちらはどうにも初対面。階級と態度の相関にせよ高低あべこべで、おかしく思うかもしれない。どちらもひとえに王国軍事情だ。携わる人はあまりに多く、"特務"とは、階級以上に特別である。

「押した用件?」

「いえ、応援部隊の到着と陣容を報せに。それと――」

 ふつう、士官は伝令に馬など駆らない。急ぎでないなら猶更だ。続く「それと」こそ本題に相違なく、しかし、続かなかった。コルゴッサ大尉の視線は射止められている。机上に整然と並ぶ、煤けた認識票の数々に。

 慎重を声音に宿して、チェチェックが言った。「こちらからも、いいかしら?」

「……ええ」

 兵士の存在証明に、王国軍は、この星でもっとも丈夫な合金を採用した。だから灼熱にも耐えた。二枚綴りが一枚になるとき、すなわち戦死の宣告で、机上のそれはみな一枚。識別票の持ち主たちは、全員、大尉の部下だった。

「俺の不手際だ」

 全てを確かめ終わった今に、詫びたは騎士ヴィクトルの誠意である。"果ての霞"に包まれながら、前へと使徒を追わねばならなかった。後が続いたかなど、どうして知れよう。事情を解せない士官はいない。

「まさか、騎士殿に責など……私が悪いのです。ルメル准尉に任せきりにした……」

 王国軍の階級「准尉」には、ふたつの種類がある。叩き上げ、それか士官見習いだ。先の一戦に土防壁を指揮した"准尉"は後者で、まもなくの昇級を控えていた。昇級すれば、抱える隊は小ぶりだろうが、課される責務は相応だ。部下の命の数だけ大きい。だから最期は、せめてもを尽くしたのだろう。黒焦げになりながらも辛うじて生き延び、仲間の識別票をかき集め、ヴァンガードに託したその人こそ、ルメル准尉である。彼の識別票が欠けていてわかった。巣立ちも間際に、監督者である上官のコルゴッサ大尉に志願を許され、最前線を率いたが、いささか相手が悪すぎた。それに選択も誤った、前へ。

「迎えにゆこうと、考えたのでしょう」

 "商隊"にいるなら、いずれ元王国軍人(ハウプトマン)の口から聞ける。王国軍は、仲間を決して置き去りにしない。亡骸だろうと連れ帰る。ときどき、これは仇になる。

「失敬……」

 コルゴッサ大尉が目頭を抑える間を、天幕の一同は弔いにあてた。失われた命の数を思えば、さほど長くはない。戦士たちは泣かなかった。生きるのならば、なせることが有る。あげた(おもて)で大尉が言った。それは、彼の仕事の顔だ。

「伝達が途中でした」

「承ります」

「治安維持部隊より一個魔導化歩兵大隊が現着、二〇分前に町全周の封鎖を完了、統合統制指(ジャック)揮官はゲットリュー中佐。特戦および魔封は"マリー・タンゴ"の励起待ち、最長でも四十分以内に始動の見込み。鎮静化を受けて三班の外保特務の増援が見送り、待機中ですが、現況の如何に関わらず、内海空母を発進済みの即応一名が事後安全化作戦に参加予定です。以上」

 呪文さながらの報告だ。伝わる者にだけ伝われば良い。

「把握しました……即応担当は誰だかわかる?」

「なんでも、レディ・ベルだとか」

小母(おば)様が!後始末には過剰戦力ね」

「既に後方陣地にいらっしゃるやも。こちらの監視協力を要請しますか」

「いえ、魔封は日暮れに間に合うし、私の班だけで足りてるわ。予定通り動いてもらって」 

「了解。その旨、持ち帰ります」

 ふたりが敬礼で向き合い、直る。コルゴッサ大尉は一歩退き、踵を返すより前に、ヴィクトルとヴァンガード、それとおそらく少年少女にも向けて、深々と頭を下げてから天幕を去った。

 さて、とチェチェックが立ったまま呟く。席を見渡すと、補佐官たちが目顔で答えた。彼らの書類は片付いたらしい。

「だいぶ時間を頂戴したけれど……あなたたちを引き留める理由は、ほとんどなくなっちゃったみたい」ばしり、と彼女は片目を瞬き。「最後にひとつ!残っているほかは」

「なにがあるの?」

()()が出るの!掃除当番を代わってくれたお礼にね。我々が千人でかかるつもりだった大仕事よ。誰かもう言った?まだなら私が言っておくなくちゃ。よくもたったの四人でやったわね!空が晴れるのを大勢が見たわ。晴らしたのは、確かに、間違いなく、あなたたち。面倒な査定はすっとばせる!あとは中身の相談をしないと」

「結構だ」 

 間髪入れずにヴィクトルだ。応じて口疾くチェチェックは。

「それはあなたが騎士だから?」

「左様。務めのうちに褒美はいらん」

「百歩譲ってそうかもね!だけれど、彼らは騎士じゃない。いいえ、態度としては騎士でしょうとも、けれど貴国が抱き頂くような、公的身分の騎士位は持たない。違う?」

「む、しかしだ――」

 彼ら、とチェチェックがさした中から、一等大きな男が笑った。

「こりゃ押し問答になる!チェチェックさん、手早く丸める手があるぜ」

「聞くわ!」

こいつ(ヴィー)の名前に四人分、ツケってことにしといてよ。俺らの用は東より西でね、貸しがあるなら借りやすくもなる」

「おい……」

「モノより礼をお求めってこと?それも、上の方から上の方へ」

「いかにも」

「お望みとあらば拒む理はないわ、それはもう丁寧に!でも右だ左だ行きかううちに、贈り物だって萎むかも。なんだか損に思わない?」

「んなこたないさ!こいつ(ヴィー)は長いこと国をあけててね、実は気に病んでるったらないんだが――」「おい」「女王サマからお褒めとあらば、大公たちに面目も立つだろう」

「そんなに長かったの?」

「もう一年かそこらになるかな?」「おい」 

「なんだそれくらい!(ヒラ)の兵士にだってあって当然の権利じゃないの。十年来の剣聖に、休息がない方がどうにかしてるわ」

「いいねその話、礼状にでっかく書いといてくれ!そしたら何もかも差し引きしたって、エウロピアでお偉いさんに会えた日にゃ、褒美をたんまりせびれるこった」

「ふふ、よぅく心得たわ」

「おい!」

「なんだいヴィー、とやかく言うなよ!ご希望通り、()()()()()恩賞はなしだぜ!お礼があるだけさ、だろう?」「ええ、心ばかりのね」

「……まったく」

 意外な弱点だ。元気な大声に挟まれてしまうと、形無(かたな)しにされる唸り声である。


 すぐに終わるからね、とチェチェックは書類にとりかかった。それが最後の一枚で、実際、すぐに書き終えられる。しばし筆の音が走るだけの静寂。

「……つかぬことを訊くが」

 破るヴィクトル。「ええ」と手を休めないままチェチェック。

「この戦陣の先駆けは、貴国もきっての英雄だったと」

 筆が止まった。

「あー……」

 彼女の沈黙は、彼女が許さなかった。"穴"の前には四人だけがいて、それでも仕事は仕事だ。貫いてきた。

「そうよ、殺しても死なないような人」

「知り合いか」

「私の師です」

「……強者(つわもの)だろうな」

「指折りのね。だから……」

 筆が走り出した。

「だから、きっと無事。今は姿が見えなくても。そう、ちょうどね、例の小母様とはずぅっと仲が悪くって!応援だって聞きつけて、穴の向こうにでも隠れてるのね」

「……そうだな」

 額面通りに誰が受け取れた。天幕の内でゼンだけだ。"英雄"を思っている。言葉の意味を思い知っている。いかな戦いを前にして「負け」の見えない超人たち。彼ら自身が何と言おうが、死ぬはずがない。と、信じている。さほど保たない信仰だった。特別だろうと英雄は死ぬ。ふつうの兵士が死ぬように。

 筆が止まった。

「代表者の署名を、ここに」

 筆がヴィクトルに渡される。また筆が走る。筆が返される。チェチェックがまた、走らせる。

「はい、これにて全部おしまい!」

 そこには笑顔があるだけだ。五指の敬礼を掲げる隙に、彼女は目元をすかさず拭ったのだから。

(まこと)心威(しんい)有る此度(こたび)のご協力、王国を代表しお礼申し上げます」

 務めの仮面を大人は脱がない。ゼンが気がつけるのは、ずっと先だ。寝入ったフランをそっと背負う。用をなくして、天幕を出る。

「しまった!エコーズの要請、大尉に伝え忘れちゃった!大変、大変」

 ふりむいて、独り言だとわかった。チェチェックのおおきな独り言である。物悲しげな横顔が脇をすり抜け、裏手の天幕へ、人を探しに消えていく。やるべき何かはここにはもうない。そのはずなのに、つい訊いた。

「もう終わり、なんだよね?」

「そうとも、後は任せていいはずさ。帰ろう、みんなのところに」

 男は、くしゃりと頭を撫でて。

「……不平等だね、終わりってのは」

「え?」

「や、俺も疲れちまったらしい。今日は早いとこ休もうな」

「うん!」

 碧天に陽はまだ高い。ゼンは最後に、(いくさ)の跡を見渡した。

 獄炎で乾いた湖底が広々、ヴァンガードが諸々吹き飛ばしたので、目印として"穴"が残るのみ。その外周は鉄杭と縄で封鎖線がなされ、だいぶ様変わりしている。やや遠巻きでは更に、十数名の王国兵が砂色の軍服で取り囲み、見張りというのを欠かさない。

 だから、浮き立つ異色は目についた。黒い男だ。服が黒い。剃髪にして、ぽつんとひとり、ちょうど兵らをすり抜けて、穴へ穴へと近づいてゆく。よ、と掛け声、縄を跨り、深淵に傍立つと、有るだろう虚空をしげしげ顎で覗き込む。恐れ知らずだ。

 ――あの人も、王国の英雄なのかな?

 でなくば兵士が止めたはず。

 ――たぶん魔術師だ。剣士の格好じゃないもの。

 由来も知らずに、それを表すのは難しい。袖が四角く、裾が長い、寛衣(ローブ)の類だが被り(フード)は設けない。少年からして見慣れぬ意匠で、一番近いのは神子装束だ。色を(たが)えて質素にあつらえ、ともすれば死神の衣装である。夏の日のもとで暮らすなら、火傷しそうなほど真っ黒い。足元にだけ白がはみ出す。

 黒を装うから悪魔とは限らない。なにより内に白を抱いている。チェチェックにせよ、普通の兵士とは色が違ったのだし、ゼンはひとつも疑わなかった。黒衣(こくえ)がその低い声音を青空に向けよく響かせて、何事か唱え始めたところで、シェリフマックも通信装置を介しては、あんな仕草をしたものだ、と納得した。じっ、と最後に、なにを背負(しょ)うのかたしかめた。

 ――甲羅みたいにはねた笠……。

 それなり興味を失った。失うと、異色は見えなくなって、低い声も聞こえなくなった。不自然だとは思わなかった。少年は珍しい形の雲を見たのだ。見かけたにせよたまたまだった。必要ならまた縁がある。

 前を見据えている。湖畔の町並みの遠景がある。防壁はもう、残っていない。大きな戦士のふたつの背中に、追いつき、並ぶと、騎士が言った。

「急がねばな……」

「ああ」

 "総べ手無き土地"を、"商隊"は去ろうとしている。西へ。エウロピアがあり、騎士の故郷があり、あるいは使徒が向かっただろう、西へ。何者にも強いられてはいない。元来彼らの、望みであるからして。




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 いくつもの忌むべき名前を、"穴"は授けられてきた。

 それより「奥」など存在しないと信じたいから、穴そのものが"世界の果て"であると。

 しかし、ただならぬ勇気で一歩を踏み出せば、やはり()()()はあってしまうのだから、「果ての世界へと通じる穴」の意で、"果ての穴"だと。

 はたまた、冒涜的な邪悪をこの星に招く"(ひずみ)"であり、"亀裂"なのだと。

 あいにく呼び名を凝らそうと、穴は、穴である。一律にして、質を変えない。ここ千年で、変わりなかった。 

 大地に限って口を開く。空には開かない。水面にも開かない。水で満たされた底にも開かない。(しげ)く人目が通う場所には開かない。陽の目が絶えぬ時分には開かない。厳密に、一定の光度が満ちる中では、開かない。

 一度開けば、独りでにはけして消えない。醜い心のありふれた土地を好む。好物をむしゃぶり、すくすくと育つ。ただし、生まれは必ずちいさい。突然おおきく生まれはしない。

 すると、様々不可解だ。

 照らせば照らすほど"清涼なる湖畔の町"に現れたそれは、まったく異例づくしであった。

 この星の戦う人々は、事実は事実と受け止めるだろう。なぜ、を追い求めるより先に、適応せねば耐えられない。

「けれど、どれだけ善いまま耐えられる」

 真相の究明には時を要するが、真理を説くのはいとも容易い。

「潮は引けば満ち、日は明ければ暮れる……」

 たったひとりの禅僧が、墨染の(ころも)を翻し、柄長の錫杖(しゃくじょう)を鳴らした。湖底の砂を雪駄(せった)で踏みしめ、西へ向かって歩みだす。いくつか人影とすれ違う。駆け足でゆく、夜に溶け込む迷彩服たち。誰も雲など敵視しない。小銃の口も上がらなかった。じきに砂塵なら巻き上がる。

「今に来る、きっと来る、夜が来る」

 大型の回転翼機が背後で飛び立つ。眩い探照灯が消えた。濃い夜空の彼方へと、回転騒音が遠ざかる。

 静けさを見計らって、(くう)が答えた。

『もう来てますよ』

 いかにも、いたずら好きな声をしている。

「そうかもしれないね」

 黒衣の雲水がひとり、"統べ手無き土地"を歩いている。

「夜はこの土地も嫌うだろう。彼女のおかげで、数年ここらは晴れ通す。晴れの日は好きだ。君も好きだね?」

『もちろん。でも、あんまり降らなきゃ地が弱ります』

「そう。女王の年も千が更けた。長き晴れ間をみなが享受した」

『彼女は欲張りすぎました?』

「まだわからない。ともすれば我々も同罪だ」

『縮んだバネはよく伸びます。そして悪意に底はない』

「然り。持ち堪えるのを、ひとまず祈る。来たる最悪は?」

当代勇者(アルシヤ・レイ)でも足りない場合』

「……身の振り方を考えよう。強い灯りで備えないと」

 黒衣の袖が闇へ沈んだ。影に馴染んで、(しるし)はもうない。見かけたにせよたまたまだ。この星の人なら明日には忘れる。

「"三際十方、一条路、玲瓏八面、火中の蓮"……願わくば、あまねく軌跡のまどかなることを」

 しゃん、と夜闇に錫杖が響く。あなたは珍しい音色の(せせらぎ)を聞いたのだ。



【雲水】:行く雲と流れる水のように、行方を定めず諸国を行脚して修行すること。また、その僧。特に、禅宗の行脚僧。(明鏡国語辞典 第三版)


 戻りました。(24/8/17)



 次回話との齟齬がとくに大きいです。ご了承。

 以降、改稿前です。筆致違和などおおめ。修正をお待ちください。(23/2/28)

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