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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
目覚めの章:統べ手無き土地
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40.悪魔の子 下


 悪魔は実在する。"悪魔の子"もまた実在する。

 かばねの山と血の大河。物語の果てにあるものだ。聞き飽きた、と思うのなら、再現が間近だ。


 ◆


 身寄りのない、ある少年がいた。

 のけものだった。村八分だった。

 正しい差別だ。なにせ血統が悪い。

 あびせられるのは罵声か汚物。つかまれば、訳もなく棒で打たれる。

 結界で、彼は逃げ出せない。

 自死を選ばず耐え抜いたのは、たったひとつの生きがいのためだ。

 心やさしい少女がいたのだ。彼女だけは、少年の味方だった。高貴な生まれの少女であった。困窮した暮らしを支えてくれた。

 ほんの逢瀬にも苦労する。苦労のぶんだけ、ふたりの絆はたしかであった。 


 年頃になって少女は娶られる。

 ほかの良家に嫁ぐのだ。

 実る恋だと、少年は考えていない。彼女を祝福した。

 嫁いだ後も、絆があった。

 だから少年だけが思いやった。

 少女は苦痛を強いられている。

 旦那の乱暴、女中のいじめ。

 立ち上がる時だった。村から一緒に抜け出そう。

 かつて試みて、ひどいめにあった。村境の結界は、村人を追いかえす。

 時に備えて、もう学んでいた。


 ――結界石を壊せばいい。


 「彼」の囁いた、救いの手立てだ。少年が頭の中で聞く、それは悪魔の声だった。

 きっといけない。ひとりであれば選ばずいた手だ。少女のためなら、何もかまわない。

 新月の晩、ふたりは村を抜け出した。少女も彼をかたく信じていた。

 結界石は破壊してある。

 境界を越える。

 暗い森を走る。

 追手を撒くのに、危険はつきない。

 守護する明かりのない夜だ。人を喰うけものが、闇には跋扈する。

 思い立つだけの少年には、守る力が足りなかった。ひとふりの木の棒で、なにも歯が立たない。

 追手はたやすく少年をとらえた。けものに臓腑を食われる少女を、呆然とながめていたのであった。


 連れ帰られた村で待つのは、壮絶な私刑だけである。

 少女がのぞんで逃げた訳は?誰も気に留めない。

 理不尽な暴力に、命を落とすもかくやのときだ。悪魔はいつも人の傍にいる。


 ――力を貸そうか。


 そうだ力だ。少年は思った。少女を守れた。村を出ず済んだ。覆すだけ、おおきな力さえあれば。

 少年の意志は、このときはじめて、自分のためのわがままを選んだ。悪魔の高笑いと対価を聞いた。


 ――望むだけ与えよう。その魂とひきかえだ。


 悪魔はきまってそれを選ぶ。

 安いものである。

 契約はたしかに果たされた。

 吹き荒れる暴力のさなか、少年は意識をとりもどす。傷がみるみる癒えてゆく。みなぎる力を感じとれた。

 たちまち、もろ手でひきさいて、村人たちは皆殺しだ。

 からだの痛みがすっかりひいても、悲しみまでは癒えてくれない。少年は、それでも進むのを選んだ。

 どこへ。

 理不尽のあるところへ。


 彼は性根のよい少年だ。


 悪魔に問うても、少女は帰らない。悪魔にさえも、それはできない。"星の理"が邪魔をする。

 泣いて悔やむのを、とっとと終えた。

 二度とおんなじ悲劇は生むまい。

 力を得たならなんとする?

 悪事をなす気は毛頭なかった。

 理不尽に苦しむ人々を、あらたな力で救うのだ。

 森にはびこる魔物を蹂躙した。

 道すがら、窮地の旅人らを欠かさず助けた。おそう悪党なら八つ裂きだ。

 風のうわさに聞きつけては、くだらない因習を大事がる村へゆき、破壊と殺戮のかぎりをつくした。

 どんな村にも「少年少女」がいた。

 血塗れた少年は、彼らを救って過去を聞かせた。だから、言い伝わっている。救われたものが、たしかにいるのだ。

 果てしない対価である。


 統治者からして、悪魔の手先だ。

 結界も彼を阻めない。魔物よりずっと(たち)が悪い。誰も殺戮者に気がつけない。人の形をした、悪魔の子だった。

 討伐団を、国と国とが結成した。あらそっていた剣をおさめたのだ。それは前代未聞の大軍勢である。

 少年はひとり立ち向かった。

 理不尽をよしとするのなら、国々というのもまた理不尽だ。


「魔物となにも変わらない」


 どちらの側も同じことを言った。

 たったひとりの少年を相手に、大軍勢が崩壊する。まことの"英雄"たちが散った。

 城にもまさる(むくろ)の山が、子どもの足場に築かれた。

 長く続いて、終わりもあった。

 悪魔の力にも際限はある。月が満ち欠け、満ち欠けて、少年は傷が癒えなくなった。怪力だけではもたなかった。

 心臓を串刺しにされる。めずらしいかな、槍の英雄の仕業であった。

 火炎が彼を焼き尽くすのに、三日も絶叫が続いたという。


 悪魔の少年は死んだ。


 ()の人々は、これでもかと見て聞いた。

 少年がながした血の涙。炎も絶やせない断末魔。とらわれがちなしるしを前に、きちんと見つけた人がいる。


 悪魔の少年がもとめた、真心からの救済を。


 教訓を得た統治者だけが、つづく戦乱の世を治めきった。戦没者らとおなじく手厚い埋葬を、悪魔の子にも采配した。

 おふれは別だ。きびしいものだ。伝わっている。なんぴとも、悪魔の囁きに屈するなかれ。 


 ◆

 

 悪魔は実在する。"悪魔の子"もまた実在する。

 公国域の物語である。

「物語」の例にもれぬよう、具体仔細には諸説ある。見解は更新され続けている。とくに、まつわる渦中の当人を、"ゼーレの少年"とか呼ぶが、実際その名は囁いた、悪魔そのものの名でないか?アズアゼッラないしアズアゼーレ、古い悪魔と似た音だ。アメイジアの史家が提起している。

 すると、ほんとうの名前は伝わらない。少年の名前を、誰も知らない。つじつまならあう。悪魔が食ってしまったからだ。 

 しるしもあいまいだった。

 血統差別の観点と、伝わる言葉のはしばしから、羊の徴の少年と、言われた期間が長かった。いまでは"獣憑き"説が有力だ。墓を丁重にあばいて、やはりアメイジアの科学が判じた。

 繰り返すよう、史実である。

 統治者たちの態度にあらわだ。"統べ手無き土地"の扱いをいう。エウロピア連合公国は、真東に広大な土地を余らせている。実りの悪くない土地だが。

 欲張るな。

 及ばぬ治世は理不尽を招く。理不尽は次の悪魔の子を産む。統治者たちはよく理解している。力なき統治は最悪である。乱れた人心は、更なる悪を招きかねない。

 むろん"四賢公"の手腕があった。戦乱の幕引き。連合の形成。みとめない者もいるだろうが、契機とすれば"悪魔の子"だ。"栄え愛得る地(エウロピア)"を目にすればわかるだろう。当代、その名にそむかない。


 史家めいた見方も、ともすれば加減どきだ。

 道徳である。戒めである。

 公国域で生まれ育つ人は、"悪魔の子"を、耳にするだろう。学ぶべきだ。

 差別、迫害、偏見、因習。

 あってはならない。

 残念ながら、とりあわない者が増えている。創り話だと。現実ばなれしているからと。

 はたしてどれほど稀なのか?

 悪魔が背中を押しさえすれば、軍勢を討てる子どもとは。 

 一側面が、おもしろおかしく強調されて、物語はあるべき姿をうしなう。

 少年少女の悲恋、英雄と悪魔の決戦、理不尽を打倒する爽快さ。"悪魔の子"は、かっこうの的だ。


 物語の神の名のもとに、"星の理"をひとつ明かそう。

 この星において、"名は(てい)を表す"。

 肩書き・冠するそのものに、良くも悪くも「方向性」を与えかねない。

 悪魔が「悪魔」と伝わって、「悪魔の子」はまだ終わっていない。

 なにも子どもにかぎらずに、この()の人は当代、"悪心の使徒"とか呼ぶらしい。

 進むべき道を示すため、物語は、うまく活用されるべきだ。ゼン・イージスの話を続けよう。




 ---




 もっとはやく、彼に教えてやるべきだった。"ゼーレの少年"がしたように、さっと一振りする前に。ある男が感情にまかせ、その少年を、"悪魔の子"と呼びすててしまう前に。

 無感動に正当性をとなえたゼンを、ヴィクトルはかさねたのであった。

「この物語の力点は、正しさのありか……なのだと思われます」

 イトーも卑怯な男であった。フランに"悪魔の子"を説くのに、史家めいて、一歩ひいている。

 貸し切りでない、宿の食堂である。おもに少女が聞き届け、"商隊"が再確認をした。もっとも聞くべき人物は不在だ。ひとり出たきり帰らない。夕食時をだいぶすぎていた。

 白昼灯はさらせなかった。悪魔にささやかせるほど、高価な道具だ。橙色のくらがりは雨夜に馴染んでも、肌にはつめたい。少女がすすり泣いている。


 フランはおのれが情けなかった。誰のため、この涙はとまらないのか。思いやりのありかを疑いどおしだ。頭がいたい。罰だった。吐き気がする。身勝手だ。

 "治癒"の修業でしくじっては、具合をくずすほど泣いた。もっと悪くて、救いがなかった。これを後悔と呼んではいけない。


 ――ありえない。ありえない。ありえない。彼は、私を傷つけたりしない。

 

 フランはとなえ続けていた。たしかにゼンを恐れたのである。あってはならないことだった。彼が賭してきたすべての努力、流してきた血に裏切った。 

 あとを追えずにいるのは、資格をなくしたと、おもうからだ。


 ――誓ったのに。彼を独りにしてはならない……。


 それさえできねば、じぶんはいったい。少女の涙の訳である。

 ほかはもっぱら静寂であった。 

 机に居座り、誰も去らない。つまり少年を追う意志もない――意志がない、そうであろう。ヴァンガードだけ、腰を浮かしはして。

(あに)食わせんだ、この席で?手前のクソけ」力づくならまかりとおろうと、迎える準備をまるで欠かしている。サルヴァトレスと呼ばれる彼が、もっとも事態を達観していた。この半端なお人よしどもに、つける薬までは持ち合わせないが。

 腹を空かせて帰りはしないか。その人がただの少年であれば、大人は勝手に思うものだ。"商隊"はしかし知ってる。彼はひとりでも生きてゆける。

「わたし、わたしが……はやく伝えるべきでした。知るだけの彼の過去を。みんなに……」

 フランが知るのもすべてではない。ほんの"一条"をのぞいては、"商隊"と変わらぬつきあいなのだ。

 されど決定的な"一条"であった。フランはそれを託そうとした。


 ゼンはむかしを多く語らない。せっかくの黒馬車だ、もっと楽しい話ができた。父母をなくして、旅出た少年。剣にすぐれて、山野にくわしい。訳ありらしいが人懐っこい。味方を見抜ける"異能"のせいだ。

 "商隊"はくわしく知らない。"穢れ"に"禁忌"、奪われた財産、三夏をすごした安心のないねむり。ゼンが護身に長けたあまり、村人がむけた弓矢の行き先。 

『何かを守りながら、たくさんと戦うのは難しいんだ』

 僕は三角、敵は四角……"聖域"の夜、フランは思った。三人組に、少年はやられてしまったと。

 ちがう。

 きいたのだから、たしか翌日だ。

 ゼンは返り討ちにしてしまえた。

 エマを逃がして立ち向かう。はなたれる矢は、うしろをめがけた。

 ナルガズトーワと、フランは名前まで知らないが、三人組は持ち出したのだった。

 本物の弓と矢である。

 殺しの道具だ。

 ゼンは"穢れ"で"禁忌"であった。大人たちが蔑み、いたぶる相手だ。

 何だって許される。

 子どもは、ただしい大人を見習って、言葉通りに何だってやる。

 ゼンはたいした守手であった。奇しくも、ナルガズトーワがその性をつくった。

 三本の矢をゼンはいなせた。反撃に出た。強く振るった、それとて棒だ。一振り二振り、殺しはしない。動かないなら、脅威は去った。

 失敗したとゼンは言った。

 あくる夜明けに、"復讐"はあった。

 寝込みをおそったのが、戦士団である。


 同じ目に遭わせてやる。


 ものの因果を誰もはからない。

 そのころすでに"闘気"のたぎる戦士だったから、ゼンは飛ぶ矢を見切れたし、私刑にも耐えた。"育て手"の制止と治療がまたあった。

 そっちは歩ける怪我ですんだと、ゼンはわらった。


 よく学ぶ少年だ。

 同じあやまちを二度しない。

 敵を打ったなら「復讐」が来る。それは、一対一とちがって手ごわい。

 だから"御許"にいるあいだ、敵であろうと打つのを避けた。

 森が味方だ。枝をとびかい、足を留守にする。不意に近いなら、武器をうばうだけ。弓矢を何度も持ち出すようなら、「射線」をおぼえて利用した。

 はやかったのだ、殺してしまえたら。

 今なら彼にもわかるだろう。鋼の刃は必要ない。

 ことわりは簡単に変わらない。

 ひかえた大切を守るのに、最適解とは、殺すことだ。

 "復讐"が枷をしていただけだ。


 同じ目に遭わせてやる。


 理不尽を少年は忘れない。三人組は殺さない。次の寝込みの復讐で、殺されるのは、困るから。

 会うべき父親がいるのであった。

 檻の中で耐え抜いた。

 つまらない死に方を避けた。


 死生観である。

 誰も殺さずすんでいた。

 復讐されると困るから。

「環境が悪かった、そうだろ」ヴァンガードには光明がある。

「何が悪かろうだ。人の命を木石も同然に、あの年で」唸り声である。

 けれど、数え七つで野にひとり。フランが言ってくわえると、ヴィクトルはすこし不利になった。

 むやみやたらと殺すなと、誰に教わるべきだった。矢をいかけてくる村人か。

 もちろん、ゼンも知らないはずがない。生家の炎にくべられた母、狩りの獲物へ捧げる感謝、散り際の青い花畑での奮闘。命には価値がある。それは何にも代えられない。

 純然たる敵のそれは?

 襲い来る敵だ。財産を、生を、仲間を、家族を、守るべきものを理不尽におびやかす、()()()たちの命の価値とは?   

 しかるなら用意してやるべきだ。納得できるだけの答えを。

 つづく議論から逃げないのが、ヴィクトル・サンドバーンの誠意であった。

「斬るんだろう、"使徒"だったら」ヴァンガードが攻めた。

「……一線がある。連中に改心はのぞめん」ヴィクトルは常識にこだわっている。

「それだよ。お前は、どうしてそれを覚えたんだ」

「おのずから気がつけるべきだ……」

 秘めた肩書きが彼を縛っている。殺すべき敵を選んで殺せる、男は特権階級だった。


 "商隊"は、ぽつぽつ意見を語りだす。まるで少女に教えるていで、聖者にむけた告白であった。フラン・フラムネルは聞きながら思う。ゼンの為なら、誰かを殺せる。

 イトーはまだまだずるかった。

「人殺しがなぜ禁ぜられるのか、僕には実際、うまく説明できません」

 虫も殺さぬ顔である。

「国が社会の無秩序を、許容しないから法で縛る……混沌は避けられるべきだ。これは、『私』の理由になっても、『あなた』の理由とするには足りない。

 法も社会も、復讐さえも、その人物がかまわないのなら、究極的に抑止の術はない。答えは主観に、聞き手の納得に頼っている」

 理屈をこねるのである。

「たったひとつの可能性は、万人が道徳を得ることです……」

 意図的であれなかれ、イトーはもっとも聞くふりをして、ゼンの過去に目を背けていた。教える機会にせよあった。

「責任は俺がとる。この後先がどうであれ、乗り合いは、俺の庇護下にあるべきだ」

 "商隊長"として、ハウプトマンは言うのだった。それから、ひとりの人として言った。

「知ってるな、俺は兵士だった」正当とされる暴力を、十年も肩に担いでいた。「照準に人をおさめはして、撃ち殺したのは魔物だけ。正直、ホッとしてるとも」

 先進国の軍人は、矛盾を嫌でも突きつけられる。

「やめたとたんに目についたもんさ――死刑反対、戦争反対。けっこう、けっこう!そのとおり。かたや思いもする、俺は兵士をやめたとて、誰も殺さずいられるか?わからんね。国を出たんだ、なおさらわからん。

 坊主ひとりの責にはしない。ただ励ますたってぇ、半端で格好もつかんのさ」

 ハウプトマンは、ももに拳をついた。

「こんどは後手で、すまなかった」

 少年少女にわびたのだ。たとえ、かたわれが不在であっても。

 顔をあげた夫の手をとって、ジニーは手短だった。

「こうなる前に、助けてあげなくちゃあ。それが大人(あたしら)の役目だろう……?」

 できそうにない。そのかなしみを活用できるかは、今後のがんばり次第である。

「ぼくはゼンくんだ」ダルタニエンは、"商隊"でもっとも若い大人だった。「ためらわない。きょうだいのためなら」

 彼はヴィクトルをみた。

「光の騎士なら、うまくやるのかな?」

 それから馬車主夫妻をみた。

「かなしいのは、ジニーとおんなじだ。彼はおとうととかわらない。それで言葉がでなかった」

 サルヴァトレスは、ダルタニエンの催促をうける。

「あぁ?おカド違ぇもいいトコさ……」

「じー……」

 しずかに座り直して、サルヴァトレスと呼ばれる彼は、面倒そうな表情をみせた。

「俺なァな、引っ込めとく。要はこれさ」

 隙はほんの一瞬であった。

「手綱を握れりゃ抜き差し自在!あら御覧、いかにもまともさま!あれがニブいタマかよ?ちげぇだろ。だからいねぇんだろ?杞憂ってェんだ、とっとと回せ」

 しっしと指をふるサルヴァトレスだ。

 ヴィクトルは机にひじを乗り出した。長く語るつもりだったのだろう。

「独善はいずれ破滅を招く。取り返しようのない惨事のまえに――」「へっ!そんときゃアンタのお世話様!なぁ、正義の騎士サマよ?」

 サルヴァトレスがゆるさなかった。

「手前は間違ったりしねぇ、そうだろ?御託の前に、とっとと始末をつけてこい。ほれありゃ悪魔だ、ちげぇねぇ!あのガキの首とってこいよッ……あンだってんだ、その陰気なツラは……あ?」

 サルヴァトレスは強く押し蹴った。ヴィクトルの椅子の脚だ。

「耳ついてんのか!?クソ食らえ!どんな立場でモノ言いやがる」

「俺は……」

「たいがい卑怯なツラぞろいだが、てめぇがお山の総大将さ。毒付きゃ(しめ)ぇでよくころばさねぇ。肩書きにカサ着てモノ言うくせに、ガキにゃ正体隠してやがる。なーにヌかしても、抜けてんだ!馬鹿がよ!」

「サルヴァ、それくらいに……」

「どっちつかねぇな脳筋野郎。てめーが世話するガキだろうが、あく(はやく)なんとかしやがれや」

「わかってる!わかってる!な、お前は味方なんだよな……」

「知ったことか」

 サルヴァトレスと呼ばれる彼に、ふだん立てない足音があった。

「気の毒なガキだね、とんだ細道歩かされてよ」

 "商隊"をひと睨みして、とっくに机をあとにしている。

 そこは倫理の小島であった。世界のすべてと錯覚するが、"統べ手無き土地"にかげろうだ。剣をなせねば死ねる土地である。我が物顔で道をゆく、先進国の良識は、どんな「特別」のもと実現されるのか。

 際立たせるのがヴィクトルだった。むっつりした口で、自己弁護に長けていない。態度から汲み取ってやるほかない。はげしい怒りにこめた意味だ。

 熟考するのが悪癖だった。異国語を選ぶ慎重さのあまり、かくなる態度だ。面倒そうだ。やっとでてきて、嫌味にきこえる。気が昂るなら、輪をかける。

 人命がそうさせたのだった。悪心の予兆を許しがたいのだ。危惧していたのだ、理性の不在を、あるいは理性の過剰さを。類稀なる才に恵まれながら、分別ままならないとは、なんとなげかわしい。

 かつては彼も少年であった。"光の騎士"を志した、ひとりの少年だった。弁えるべきをわきまえない、ゼン・イージスでは、"光の騎士"には程遠い。無限の可能性に、嫉妬の有無やいかに?まったくない、と唸ったら、肩書きに背くところがある。

 都合のよいだけ立場をかさねて、男はひとつ忘れていた。机をかこんで、嫌でも気がつかされている。

 あの少年を、「少年」としては見ていなかった。

 盲信気味のヴァンガードが、矛としてとるから素直になれない。

「伝え方なら、もっとあったろう」

「言わせてみろ。次はもっとうまく殺せ、とでも?」

「お前……!」

 盲信家と皮肉家の衝突は、ちょっとした嵐のようなものだった。ふたりの関係性が、すくいがたい意固地をもよおした。さんざん議論の果てである。ヴァンガードが怒鳴りちらすと、宿中のものがひっくり返った。させたヴィクトルの皮肉とは、こんなところだ。


「父親にでもなるつもりか?」


 だいぶの夜更けである。油蝋を惜しんで然りの土地柄、町の雨夜は暗黒だ。ヴァンガードの飛び出した先だった。

 宿の主が声の苦情を、おずおずと伝えに来る。おひらきである。

「誰も置き去りにはしない。明朝から、ゼンの捜索を開始する」

 商隊長は有無を言わさないでいた。誰かしらが夜番につき、玄関広間で何かを待った。びしょ濡れの大男がひとり、ときどき顔をだすだけだった。

 Lo what a fiend is here! said he:

 One who sets reason up for judge

 Of our most holy Mystery.


 「見よ!ここに悪魔がいる」と、彼は言いました。

 「もっとも聖なる我らの神秘を、理性の裁きにかける者だ」

  ――「ひとりの失われた少年」ウィリアム・ブレイク

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