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ゼン・イージス ―或る英雄の軌跡―  作者: 南海智 ほか
目覚めの章:統べ手無き土地
29/106

29.仲直り

 何がたぁ言わず、そういうモンだ。



 誰にでも、虫の居所の悪い日はある。サルヴァトレス・ドルトルにとっては今日がその日だ。もとより癇癪の()があった。なにかにつけては唾が飛ぶ――はなはだ、これらを自覚している。

 怒鳴りちらすたび、努めはしていた。突沸を予知して、矛先だけは気にかける。正誤を取り違えたのが手前なら、素直に謝る。一度がなったら、後を引かない。理不尽でいては、けっしていけない。サルヴァトレス・ドルトルは、そうでなくてはならない。

 なおもって、本日のサルヴァトレス・ドルトルは、虫の居所が悪かった。さぞかし悪くあるべきだった。


 起き抜けに、馬どもの糞溜まりを踏んずけた。磨いたばっかの靴を汚した。

 クソ、大鍋かかえて見えなかった。なんて間抜けをやらかしやがる。 


 昼飯の支度どきになって、ダルタニエンの食い過ぎに気がつく。時はもどせない、手遅れだ。 

 またやった!毎度考え及ばねぇ俺も俺さ。


 仕事道具の洗浄にかかっては、愛用小鍋の柄を折った。

 ガンコな焦げにかまけたらッ。手前の落ち度だ、情けねぇ。


 全てが全てでないにせよ、手前の落ち度がつらなった。そのたび、(そら)を怒鳴りつけた。誰かのせいにはしなかった。

 けれど王国人が言うように、巡り合わせとはあるもので――はて、「時機が悪い」のもそのうちだったか。

 商隊が次なる休息どころに選んだのは、大陸道沿い"麓の町"だ。恒例の観光に繰り出た幾人かは、昼をおぎなう飯屋を探した。

 屋台がすぐさま目につくだろう。大門通りに居並んでいる。もっとも、店構えなどは貧相そのもの。"さなか"でだいぶ目が肥えていた。腹ペコだって、そそられない。

 だのに。

 おいしそう、だ?

 買い食いしようた馬鹿なやつだ。

 ゲロまずそうな串焼きを。

 いや、いいさ。手前の金さ、

 好きに買やいい。食やいーさ。

 どうせゲテもん。味なんざ知れてる――堪えて、長く続かない。厨房を預かる身の上は折しも、時機悪くして、ひどく狭量であった。

 聞き捨てならねぇ、俺ぁ悪かねぇ。サルヴァトレス様ならキレて然るべきだ。

 なんせ食ったその舌が許せる訳ねぇ……やつぁ、うまい!とぬかしやがった。

 焦がしたネズミの丸焼きだった。やつぁ、うまい!とぬかしやがった……!


 はたして「馬鹿」とは誰なのか。

 食いしん坊のダルタニエン?

 もしも、だったら、いつものことだ。

 馬鹿ヤロー!

 すましてやって、しまいであった。

 ならなかった。

 うまい!とのたまう ダル坊ではない。

 うまい!と言ったな、ゼンである。


 サルヴァトレス様がこしらえてやる三度の飯に、言った試しのない、うまい!だぞ!?

 よりにもよって、わかる言葉でだ。俺ァまだ耳にしたこたねぇな?毎度に聞くな、先生越しさ。それでも可愛がってやってきたのを!

 なンだってェんだ!馬鹿舌坊主が!なんでもかんでもうめェのか!?

 よりにもよって、三流の、お粗末な、場末の、魔物の、ゲテモノを、うまい!だって!?


 おわかりだろう。誇り高き料理人サルヴァトレス・ドルトルであれば、憤怒するのが正しかった。


 料理人サマは虫の居所が悪ぃ。

 手前の誇りを傷つけられて、たいがいヘソを曲げちまったのさ。

 ふつふつ沸き立つ怒りのついで、なんだかどこか悲しかねーか。そら悲しいさ、きまってら。

 手製の料理でいてほしかったもんだ、うまい!と目の当たりにするにゃ。


 サルヴァトレス様はご機嫌ナナメ――にも、関わらず、二人きりでいるな馬鹿舌坊主。てめ何だクソ坊主俺様の料理にどーたらこーたら!とさんざ叫び散らした後の祭りさ。

 町の調味料屋にむかってる。

 だいぶ待ちかねた店なんだ、道を聞いてから狙ってた。

 味覚がよォ、馬車にゃ足りてねぇ。馬鹿にも足りねぇが、そうじゃねぇ。風味を言うんだ、俺様は。どれほどぷんすかしてようと、こなす仕事は最善さ

 ガキはどうしてついてくるんだか。社会勉強を眼鏡はのたまうが、とかく料理人サマの知ったこちゃねぇ。怒鳴り散らしたのに、けろっとしてやがる、おかしなガキだ。おかしなガキなら、クソほど見てきたが、こいつはどうにもとびきりだ。

 料理人様と馬鹿舌は、暗い石造りの中にいる。窓がない。日がささない。もとはた言や、こだわりの本格香辛料屋さ。ガキは入ってしばらく鼻をおさえた。

「ちッ、ウロウロすンじゃねぇーぞ」

「わかりました」

 アメ公崩れの丁寧語が、調子をどーにも狂わせる。お上品ぶりやがって、ガキなら「うん」と応えやがれ。

 些細なモンにもイラついた。勝手に見物してろってんだ、俺ァ手前の仕事をこなすだけだ。

「いらっしゃい、何をお探しで?」

「あァ。刻印付きの胡椒を十缶、辛子種を二瓶、黒蓋のやつだ。鷹の爪を三十(ふさ)――」

「あ!少々お待ちを」

 のろまな店主さ。大口の注文とみるや、あわてて台帳に数を書きつけた。

「エイグラム単位で甘恵種と釘ノ子を百、小豆香と肉桂皮を二百、芹籾、遠蕩草、黄金根、それぞれ五百……黒ノ甘草はあるか?"さなか"産のじゃいけねぇ」

「はい、北産のものが」

「じゃ、それも百」国を出ちゃないない尽くしを言う輩もいるが、あるとこにゃあるもんだ。俺はかえって頼ったね。「それから、聞いてるぜ。ここらにゃ"アレ"が入ったんだろ」

 やるべきことをなしてきたから、料理人サマは当然知ってる。

「"アレ"、ですか?」

「ああ、"アレ"だ」

 胡散臭ぇ、そう見えるべきだ。カウンターに肘から乗り出して、アレ、アレ、と求めるもんだから、なおさらな。だが店主は気味悪がらなかった。当座は、気風のいい客ぶりだった。

「んん。アレァ、この辺じゃなんて呼んでんだ?」

 白く粒状で、きめ細かくて、見た目ばっかし塩か砂糖のアレは、多くても少なくてもいけねぇ。

「たしか、真名の由来ってぇーたら――」

 アレには中毒性がある。一度会ったら、やめられねぇ。俺様がまさに虜なのさ。乗り合い連中は露ほども知らず、毎日毎晩、口にしてやがる。

 まったく切らしたら、どうなることやら。やつらよっぽど泡を食うぜ。お高く留まった都会の連中にゃ、その効能ったら騒がれるようだがな。

 例の白い粉、末端価格た法外ときた。この辺じゃボラれるかもしれんのも、覚悟してきてる。"境"を越えた値よりはマシなのさ……何、正体が気になる?仕様がねぇな。

 粉の名は。

「うまみの髄!"味の源"」

「ああ!」

 冴えねぇ中年の顔色は、さぞ明るんだ。

「よくご存じで!たしかに入荷しております。おい、アレだ、アレ!」と、四つ耳の使いッ走りを裏手へやった。

「あるだけ頼まぁ!」

「ははは、今日は店じまいかな」 

「ふっかけてくれンなよ」

「もちろんですとも」

 お目当てのモンが見つかったとくりゃ、俺様のむかっ腹もおさまりかけたが。

「これ、なんです?」

 ガキだ。俺様のご機嫌を損ねてんのに、まるで臆さねぇ。色とりどりの香辛料より、置かれた()()に夢中ときやがる。

 値の交渉中なら聞かずにいたろうが、まだモノも揃わねぇうちだった。答えてやるくらいの度量が、サルヴァ様にもあってもいい。もちろん、怒りとておさまっちゃねぇからよ。

「……そりゃ、天秤のお化けだ」ぎろり、面倒そうに唸るのさ。

「てんびん……」

 ()()()が伝わったかは知らねぇ。足なし幽霊、人トカゲ、ツギハゲお化けに吸血鬼、それくらい聞かぁな、王国人に。

「…………」

 たしかにその秤ゃデカかった。床置きで、三つ子の赤ン坊も寝転ぶ受け皿さ。店のしるしって風格だ。その台座のまわりを、ガキはぐるぐる踵を鳴らした。挙句、もの問いたげに何度も俺を見る。サルヴァ様は内心叫んだワケだ。知ったことか!見てみぬフリだった。

 じきにカウンターは各種香辛料もとより、白い粉の袋で山積みになった。王国の材料工学ってな目をみはるもンで、薄い包みが透けてやがる。品質は一目瞭然、上等だ。一キログの個包装だってことまで、サルヴァ様はよくご存知だった。

「こちら純正品の"味の源"、袋一キログあたり中央銀五!エウロピア銀なら一で、現品限り!」

「大銀一!?えれぇ安値だ」

「大量にお買い上げくださいますので」

 破格だったな。海の向こう――共和国(サンズバル)なら五倍はする。や、そもそもモノが手に入らねぇ。"さなか"もたいがい玉座の彼方だが、大陸道沿いサマサマだ。

 さて、混ぜ物はありえねぇ。王国式の包装の封を、もとに戻せる奴はいやしねぇ。そいでも一応つつくのは、料理人サマの流儀だった。

「……どうにも話がうますぎらぁな」

「まさか!優良店で通ってるんですよ、ウチは。こちらだって純正です、秤に誓ってね」

「ん……」

 言って店主が押し出すのは、ばね秤さ。どっこい悪い野郎だね。ばねなんざ、仕掛けがあっても見抜けやしねぇ。

「だら、あのデカい方にしてくれや。ずっと明々快々でェ」軽けりゃ浮くし、重けりゃ沈む。同じじゃ釣り合う、なかなかねぇモンだ。

「もちろんですとも!」 

 わけもねぇ、と店主は首をすくめると。「おい、いつまで突っ立てる!リュピン氏への配達はどうした」使いッ走りを使いへやった。

「失礼。して、秤皿など確認されますか?」

「してぇとこだが骨が折れらぁな。重しをひとッ通り組み合わせてくれや」

「承知しました」

 指針は見たさ。分銅の規格も。俺様の目が曇ってるとすれば、そりゃ、冷めやらねぇ怒りのせいだった。

「いかがです」

「あァ、よさそうだ。はじめてくれ」

「では個包装一キログ!こちらの確認から――」「あの、サルヴァ」

 ムカつくガキだ、まったくよ。ちょいちょい腰帯(ベルト)を引っ張りやがって。

「かんねぇのか、仕事中だっての!邪魔くせッ!」

「…………」

 怒鳴ったところで怖気づかねぇ。じーっと、ガキは見やがった。いいのか、本当に、聞かなくて。俺様は面倒臭くなった。

「あーったよ、言ってみろ!」

「水が、欲しいです」

「水ぅ!?馬鹿抜かしやがって!」焦げたゲテモノ食うからさ。まっとうにいきゃ、そうキレるべきだ。俺様は、たしかにキレた。「ここがどこだと思ってやがる!?渇くんだッたら表へ出やがれ!手前の足で井戸まで走ンな」

「…………」

 ガキは見上げて、眉をひそめるだけだった。まさか聞き取れなかった訳じゃあるめぇ。黙ったまんまで俺らは待った。見かねて店主が口を開く。おずおずと、そこまでおっしゃらずとも、だとよ。

「飲み水でよろしいですか?」

「ありがとございます」

「……すまねぇな」

「いえいえ」

 店主がおっつけ奥から持ってきたのは小さな杯さ。それでも水が注がれるから、商売の命取りになりかねぇ。水気に弱ェ店内だった。

「こぼさないよう、お気をつけて」店主は杯を渡した。

「あァ。心命にかけてこぼすんじゃねーぞ、品にゃあな」俺は伝えた。

 こくり、とチビは頷いた。いかにも物わかりよく、従順に。実際そうだったんだろう。途端に杯を逆さまにした。水はまるっと、石畳の床にぶちまけられた。

「てめ、なんてこと!」

 サルヴァ様は泡食った。誰だってそーなるべきだろ。やるなと言ったらやりませんと、オウムに返すようなガキが、もう「方便」を覚えやがった。

「い、いけませんねぇ」

 もっと泡を食ったのは店主さ。ぶちまけられた水はどこへ行く?奥へ、奥へと流れてる。見上げたガキは言った。

「この部屋、まっすぐ?ではないです」

「傾いてる、って言いやがれ!」

「はい。ここ、傾いています」言っとくが、俺はそれ以上教えなかったぜ。「くらくて、よい風通り。香辛料にやさしいです。でも水の行き先、やさしくないです。何故?」

 店主は青ざめてたさ。そんな必要がどこにある?口実にしたって、もっとあッたろう。

「はは!いやはや、古い建物なもので!しかし、量るのにはなんら差し支えありませんよ……」

 だろうとも。天秤た、そういう造りになってるモンだ。たとえ部屋の傾きと、目盛りの幅と、壁の模様と――ひっくるめて錯視を誘うのに絶好だとしても。だのに、どうして秤の話なんかした?

「それから、店員さん?足元で何をしていますか」

「何ィ!」「うっ!?」

 穴だな。

 穴がありやがる。

 俺様も気づいていい頃だ。

 ばっと、腹ばいになって俺は、お化けの台座の影を見つめた。ちょろちょろ水が行きつく先だ。(ひか)んのは蝋の明かりだけ、なまじ商人じゃ見抜けねぇ。秤の根っこが居つくのは、台座じゃなくて、床下だ。

「ははーん、こりゃ大掛かりな()()だ」

 お化けの支柱たァ太かった。デカい皿だから、釣り合ってみせる。つつくと、うつろな音がする。

「針を操る仕掛けが地下にあンな。おっと!ただの倉庫た言わせねぇ。水気に弱ェ商売だ……」

 種明かしだけ、もうちょいしてやる。山と積まれた"味の源"の個包装ったら、実際は嵩のビミョーに減った小量規格品なのさ。表記の細工と、怒りのあまり、サルヴァ様は見過ごしちまっただけで。

「さーてさてご店主、どうしてくれやがる?あり得るなぁ、今日()店じまいってな」

「ひぃ……!」

 こんなとき、不気味に笑むんだろうな。俺はサルヴァトレス・ドルトルだから。




 ---




「デカしたぞ坊主!カタコトがありゃ響いたな!」

「はい」

「えれぇ傑作だぜまったくよ!」

「けっさく……ああ!傑作かもです」

 からっと晴れてサルヴァトレスは、いかにも上機嫌であった。秘密を対価に香辛料を買い叩いた、その帰り路である。ゼンはちょっと試してみようと思った。もうすぐ「ゲテモノ通り」に差し掛かる。先駆けては、例の物を買って戻った。

「サルヴァ!これ」

 癇癪をぶりかえすだろうか?ゼンはわからない。荷で手一杯のサルヴァトレスにさしだすのは、「クソ不味そうなネズミの丸焼き」である。

「なんだってぇーんだ」

「あげます」

「何ィ?」

「食べてください」

「……腹ぁ空いてねぇよ」

 ゼンはわからない。サルヴァトレスは先ほどまで、本当に怒っていたのだろうか?たしかに機嫌を損ねたのだろうか?ともかく行く手に立ちふさがった。

 見た目の悪ぃ串焼きからは、ベトベトのタレが滴っている。商隊の料理人はつきつけられて、青筋の一本や二本、ぶち飛ばすだろうか?そうでもなかった。きっと活躍したからだ。サルヴァトレスは渋々ぶりに、一口かじった。

「ん……」

 よく咀嚼したのを覚えている。天を睨んだのを覚えている。それから、職業人らしい感想を垂れたのも、ゼンは覚えている。

「甘辛ダレ……鳥に近ぇな。油がのってて、無難な口触りだ。肉汁にはうまみ……牛酪(バター)に香草か?お上品にまろやかじゃねぇの。焦げの苦みと調和してくどくねぇ……外見ときたら最悪だが」

「どうです?」

「へっ、案外いけンな」

「はい。この串焼き、けっこううまいです」

「……あァ」

「でも、サルヴァの料理、もっとおいしいです」

「そうかよ!へへっ」

 ゼンはどうしてか思い出せない。どんな顔だったのか、思い出せない。瞳の色は、髪の色は、肌の色は。胡散臭くて、怒りんぼうで、がなり声で、身軽そうなサルヴァトレス・ドルトルが、実際にどんな見た目の人だったのか、しるしを幾つも覚えていない。 

 そんな不思議さを気にかけたのは、道々、仲直りをしたこの日の限りだ。




 ---




「――ということが、ありました……公用語で、伝わりました?」

「ええ!甚だしい上達ぶりです」

 "統べ手無き土地"は、なにかにつけて油断ならない。怒りに曇った料理番を補佐せよ、とは、イトーから下った命であった。見事にゼンは役目を果たした訳だが。 

「どうすれば、よかったでしょう?」

「そうですねぇ……」

 ふたりの議題は「謀られた秤」についてだ。ほかに何が考えられよう?上達は定かにせよ、不公平さを素早く訴える手段として、ゼンの公用語はまだ拙かったのだ。

「今なら慌てませんから。ゼン君の考えを是非聞いてみたいですね」

「はい。えーと……」

 サルヴァトレスは得をした。実に、悪事を見逃す代わりの得だった。「騙されるやつも悪ぃーんだ!」と、料理人サマは言うけれど。

「サルヴァは、僕らにわからないことを、知っています」

「ええ」

「きちょうな調味料が、たくさんとあれば……」

「たくさんあれば」

「あっ、間違えました!たくさんあれば」

「はい」

「商隊のみんなで、おいしいもの、食べられます」

「そうですねぇ」

「それと、みんなに……ちがう。まちのみんなに教えて、ひとつぶの調味料も、えられないのと、どちらがいいか……」

「うんうん」

「天秤?にかけること、僕にはできません」

「ほう!粋な踏まえ方ですね。ええ、ええ。ゼン君の仰る通り、サルヴァにはサルヴァの行動原理があります。それこそ彼の職業意識であり、僕たち"商隊"への思いやり、とも捉えられます……」

 イトーはそれから道徳を言った。ゼンに期待をかけていた。

「生きる限り、選択が常に迫るでしょう。善と悪とを、するかしないか。より善い方を選べるように、しるべとして、道徳はあります。

 けれどもこれは、果てしなく曖昧な概念だ。経験だとか、教えだとか、我々は有難がるけれども、東と西とで良識は異なります。法の灯火に照らされていてさえ、正しい道を選べるかどうか。況や、法無き土地では霧中の如くです。

 僕らは善きことを常に伝えたい。でも過つことだってありえます。ゼン君には、ゼン君の秤を鍛えてほしい。どうかその曇らぬまなこのままで、見張っていてほしい」

「……イトーは、どう思いましたか?秤――お化けの秤のほうです」

「誓って言いましょう、僕はこの件に関してサルヴァを責めまいと。共犯と呼ばれても、彼なりの頑張りを見ない我々ではありませんから。

 それに、土地柄を思って、すこしあらためたのです。僕は、この町の柵の内側で、詐欺師がどう裁かれるかを知らない。義憤に駆られた告発がもたらすのは、大門に吊るされた店主の一家やも。

 どちらを選んでも灰色ならば、せめて寝覚めの良い方を……サルヴァトレスは内緒に、引き受けてくれたのかもしれない。そう考えては都合が良すぎるでしょうか?」

「いいえ。だってサルヴァの料理、いつもおいしいです。いちばんです。僕たちを、よく考えてます」

「ええ、そうですね。いつだって、一番です……」

 ふたりはこっそり"薄灰色"にいた。黒馬車が道を行かない日も、少年は考えるのをやめない。


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