56 知らないところで目覚めるとパニックになる
赤い。
世界が赤い。
上下も左右もわからない空間の中、睦人は一人で漂っていた。普段の夢とは違って、いつもいてくれる女の子もいない。
見たくない、と思いながらもいないと寂しさを覚える。
しかし一方で、いなくてよかった、という安堵もあった。
「……ーん」
(誰だ……?)
思考を巡らせようとするが、赤い世界に入ってきた声は睦人に簡単には届かない。
「……さーん、起きてよー」
(ああ、起こされてるのか)
仄かに耳に残った言葉で自分が起こされてることはわかり、思考だけが緩く動き出した。
(でも、嫌だな……)
拘泥に囚われた意識は目覚めを拒否する。赤い世界は、寂しくもあったが、寂しいからこそ誰も傷つけない、という安心感もあった。
しかし、それも長くは続かなかった。
「大丈夫だよ、ここに篠崎さんはいないから」
「……!」
幼馴染がいない、そのセリフに今まで感じたことの無い思いを覚え、睦人はゆっくりと目を開けた。
「あっ、みゃーこさん起きた」
視界の中心に、横たわる睦人を見下ろす人物が見える。ぼんやりと見えた姿が徐々にはっきりとするとともに、自然とその名前を呟いた。
「弥……」
「おはよー、みゃーこさん」
赤茶色のはねた髪に着崩した濃紺の着流し。いつもとは違った装いで弥こと桐生弥は嬉しそうに破顔した。そして、傍らに手をついた体勢で睦人を覗き込みながら首を傾げた。
「大丈夫?ちゃんと起きてる?」
「……ああ、まあ」
まだどこか呆けている睦人に、弥は安堵と気の抜けた様子を滲ませる。
「良かったー。みゃーこさん全然起きないから、てっきり永眠してるかと焦ったよ」
「……勝手に殺すな」
「だから起こしたじゃない。あー、本当に生きててよかったよ。……病院、行った方が良かったかと」
あはは、と笑う桐生は笑顔であり、緊張から解放されたような、睦人にはわからないものがそこには浮かんでいた。相手を慮るような、心底、という表現が相応しい笑みであった。
言葉の最後は聞き取れなかったが、睦人は見たことの無い弥の笑みを訝るも反応を返さず、視線を巡らせて周囲を見回す。
低い灰色の天井、薄茶色の砂壁、障子張りの装飾のされた蛍光灯。
弥の自宅だろうか、とぼんやり思いながら睦人は起き上がろうと試みる。
「……っ」
しかし、体を持ち上げようとすると頭がグラつき、体が重く感じる。よろめいたところを弥に支えられ、睦人は蹲る(うずくまる)ようにして上半身を起こした。
「っと、大丈夫 ?」
「あ、ああ。……すまない」
「いいよ、別に。なんだろう、貧血かな ? みゃーこさん、昨日から食べてないし」
「貧血……」
回らない頭で、弥の言葉を繰り返す。
霞がかかる頭が緩やかに動き出す。すると、白い靄の中に真っ赤な映像が浮かび上がってきた。
「嫌だ……」
「みゃーこさん ?」
それを切っ掛けに次々に映像が脳裏を駆け巡る。
「嫌だ……こんなのは嫌だ」
真っ赤に染まる世界。煌めく紅の濁流。
溢れる澱みの真ん中、横たわる動かない肢体。
睦人は顔色を失くし、自分を抱き締めるように腕を回した。
「嫌なのに……何で !?」
「みゃーこさん」
パニックを起こし震える睦人の頭に、弥がポンと手を置く。
「……?」
「大丈夫」
そのまま頭を数回撫で、手を滑らせて頬へと添える。
「大丈夫だよ」
睦人と視線を合わせ、弥は瞳を覗き込む。
恐怖と怯え、不安と憔悴。焦点が合わず彼方を見る睦人に、此方を見るように弥は促した。
そして、弥は静かに語りかける。
「ねえ、みゃーこさん。……血、見ちゃったんだよね ?」
「…… !!」
睦人はビクッと反応し、茫然と弥へ視線を送る。
それを受け、弥は瞳で弧を描き微笑んで見せた。
「寝起きでこんなこと訊いて申し訳ないんだけどね。でも、教えて ? みゃーこさんが何を思ったのか。……それを見て、さ」
何を、と睦人は思った。しかし、その思いは声にはならず、喉元で引っ掛かり消えていった。
「……」
睦人は首を振って拒否する。
しかし、その動きは睦人が思ったよりずっと小さく、弱々しいものだった。
「大丈夫だよ、僕、何があってもずーっとみゃーこさんと一緒にいるから」
安心させるように、ただ慈しむように弥の声は柔らかい。
弥の言葉を、睦人は頭では理解できなかった。
ただ、涙が一筋、静かに頬を伝う。
「……嫌だ」
気が付くと、睦人の口が動いていた。
「嫌だ……こんなのは嫌だ」
言葉を追う様に涙は後から次々に落ちていく。
そんな睦人を、弥は黙って見つめた。
「嫌なのに……何で」
そこまで言うと、睦人の中で何かがプツリと切れる音がした。
嗚咽交じりの声で、睦人は心中を初めて音にする。
「何で……――美味しそう、なんて !!」
血濡れの幼馴染を見て、幼い睦人が抱いた感情。
驚愕や心配なんて比べられなかった、すべてを凌駕する強い本能。
―――あの子から流れる血が、美味しそう。
「ぐすっ、うっ、ぐっ……ぉえっ」
そんな自分にショックと罪悪感を覚え、そのことを後悔し、今日まで過ごしてきたのだ。
泣き崩れる睦人の背中を撫でながら、弥は宥めるように優しく声をかける。
「大丈夫。……大丈夫だからね」
そう言う弥の表情は、恍惚に濡れている。
頬が桜色に上気し、浮かぶ歓喜の笑みはただ綺麗だった。




