54 夢ならよかったのに-3
雲に埋まっていても、月の周辺はぼんやりと明るい。
「始めて見た時から思ったんだけど、君たちって仲いいよね。俺、ちょくちょく見てたんだけど、結構な頻度で一緒にいるみたいだし。……いいなあ」
突如現れた青年も、闇夜の中で不思議な存在感を放っていた。
「そう身構えないで大丈夫だよ。俺、確かに怪しさ満点な見た目してるけど、君たちをどうこうしようとかは思ってないし ! ……って言われても、まあ信じられないよね」
あはは、と苦笑を漏らす様子は頼りなく、儚げで相手の庇護欲を煽る。
表れ方とのギャップも相まって、どこか拍子抜けした雰囲気をまとっていた。
「……っ」
しかし、睦人は一層の警戒心を示す。
背後の如奈を庇う様に立ち、青年から視線を外さない。
(……どうしたら)
対策を考えるも、うまく頭が回らない。
混乱もあるが、青年を見てから睦人は強い喉の渇きを感じた。頭がぼうっとし熱を持っているようで、唾液を嚥下する感覚が妙に生々しい。
不快さに眉根を寄せる睦人の背後で、如奈が何かに気が付いたように口を開く。
「まさか、この人って……先生の言ってた、変質者 !?」
「え、変質者……? 俺、そんなふうに言われてるの ?」
如奈が小さく呟くも、静かな路地裏ではしっかりと響き相手に届く。青年はショックを受けたのか、変質者かー、と意気消沈しはじめた。
実際のところ、この変質者の件は睦人がキリアのことを学校に報告したものだが、それを訂正する余裕はない。
精神的ダメージに凹んでいた青年は、数回咳払いをし、何とか状況を立て直そうと試みる。
「ま、まあそういった勘違いもよくあるし……。これから知ってもらえたらいいんだからね、うん」
よし、と立ち直り青年は睦人と如奈に向きなおる。
二人はさらに一歩後ずさった。
「睦人…… ?」
その際、睦人がわずかによろめいたのを如奈は見逃さない。
睦人は先よりも体を火照らせ、吐く息は熱くなっている。目元も潤み、体温が上がっているのは明白だった。
しかし、睦人は自身の不調にはあまり意識を向けず、何とか状況を好転させる方法を模索し続ける。
(力技……は、だめだ。最悪如奈を巻き込んでしまう。それに、まだ何かをされたわけでもない)
短絡的になってきた思考を諫め、建設的な案を考えるも良いものは浮かばない。
先の発言からもわかるように、眼前の青年は睦人たちの周辺を意図的に嗅ぎまわっていたようである。覚えもない相手からのストーカー行為など、好意的には解釈できない。
それとは別に、青年を見てから睦人の意識が遠くから告げている。
―――この男に、近づくな。と。
「と、とにかく ! 俺もただ自己紹介をしに来たわけじゃないんだ。だからね、えっと、突然で悪いんだけどさ……」
前置きとともに、青年は睦人たちのほうへとゆっくりと歩き出した。
「俺と一緒に、来てもらえないかな ?」
青年が睦人に笑いかける。
「―――っ !」
その瞬間、言い知れぬ恐怖が睦人を襲った。
足元を崩されるような、飲み込まれそうなそれは、氷塊を飲まされたように一気に体温を下げる。
「おばさん、すみません……」
呟くとともに、睦人は鍋を足元に置いた。
「――如奈っ !!」
「え、わっ…… !!」
直後に如奈の腕を取り、睦人は来た道を駆けだす。
限界を超えた恐怖を覚えた睦人が出した、最善の策は、
「あっ !! 待って、ねえ !!」
逃げる、というものだった。
「……くっ !!」
竦みそうな足を叱咤し、睦人は必死で前へと進む。
「はあっ……はあっ……」
途中の人混みも、駆けてくる高校生二人に驚き道を開ける。
ぶつかりそうな時も数回あったが、走る速度に支障はなく、如奈の腕を引いて睦人は住宅街へと入っていった。
「睦人……ねえ、睦人 !!」
腕を引かれ、ともに走る如奈は睦人へと呼びかける。
「睦人、どこに行くの !?」
まもなく如奈の家の近く、というところまで二人は戻ってきた。
如奈の問いかけに、如奈だけでも家に帰すことを考えるが、睦人はすぐにその考えを打ち消した。
「――交番だ !!」
不審者に追われているのに、如奈を一人家にいさせることはできない。
家の近くの、以前にキリアを伴ってお世話になった交番に向かって、睦人は駆けていく。
如奈もその判断に明確な反論はないのか、それ以上は何も言わなかった。
「はあ……あ、くっ…… !」
ちらと背後を窺うと、白髪の青年はまだ二人を追いかけてきている。睦人の息も切れてきたが、相手がヒールを履いていることもあり、交番まで追い付かれることはなさそうだった。
そして、二人は如奈の家へと続く路地を通り過ぎる。
薄暗いその先は、睦人の家へと続く最短の道だった。
雨粒が落ちてきたことに、気が付くものはいなかった。
「はあ、あ……あ……」
全力で駆けてきたために、睦人の息も上がる。
体力の限界はとうに超えていた。しかし、睦人は足を止めない。
足を動かすのは、逃げねば、という危険信号。追ってくる恐怖から距離を置くための、一時的な逃避であった。
「……」
腕を引かれる如奈は、必死な睦人の背に、ただ心配そうな視線を送る。捕まれる腕はわずかに痛むが、縋るようなそれを外してほしいとは、到底言えるわけがなかった。
不審者から逃げるのは、確かに正しい対処だと思っている。しかし、それだけでは説明できない睦人の鬼気迫る態度に、如奈はただ心配するしかできなかった。
「待って、ねえ !!……ああ、もう !! なんで俺ヒールで来たんだ…… !」
背後から追いかける青年も、自身に悪態をつきながら二人の背を追う。
はじめこそ大きく差をつけられたが、二人のスピードが徐々に緩んできたために、その差は埋まりつつあった。
(足が、もう……)
必死に前へと動かすも、睦人の精神力も折れ始めている。それでも、睦人の記憶が正しければもう五分もしないで交番につくはずだった。
いつのまにか強くなってきた雨に足を取られながらも、睦人は走った。
「……うわっ !?」
その時、後ろの、そう遠くないところで青年の声がした。おそらく、雨水で足を滑らせたのであろう。
そして、
―――キキ―ッ !!
「……え ?」
直後に、大きなブレーキ音が聞こえた。
思わず足を止め、睦人は振り返る。
そして、視界に入った光景に瞠目する。
心臓を掴まれたような、体を揺さぶる衝撃に襲われた。
「わっ !! え、何 !?」
睦人が急に止まったため、如奈は睦人に追突しそうになる。
そして、睦人に倣い振り向いたところで、
「……!!」
睦人が手のひらで如奈の視界を覆い、
「……睦人 !?」
有無を言わせず、強く抱き寄せた。
その拍子に、如奈が抱えていたタッパーが足元に落下した。
無残に雨粒が追い打ちをかけるも、拾う者はいない。
視界に入った光景、それは
「――っ !!」
道路を逸れて止まったトラックと、
「……」
アスファルトに臥せった青年の姿だった。
「……嫌だ」
飛び出してきた運転手や、音を聞いて家屋から出てきた人の悲鳴や怒号が響く。しかし、睦人の耳には入ってこなかった。
睦人の思考や意思など無視して、乱暴なまでな強さで睦人を惹きつけるものがあった。
「嫌だ……こんなのは嫌だ」
頭の奥で、警鐘がガンガンと喚き散らす。
睦人の意識を支配するのは、赤い煌めき。
青年の白を汚す、闇夜に埋もれない、深紅の液体。
意識の裾野を捕らえ、瞼に焼き付けられる、場を埋めようとする、真っ赤な澱み。
思わず睦人は一歩後ずさる。そして、そこで気が付いた。
「え…… ?」
睦人が足を止めた場所。目の前で青年が轢かれたその場所は、
「あ……」
もう数年は睦人が来ていない、しかし毎晩見ている、
あの公園だった。
「嫌なのに……」
青年の姿は、大勢の人に囲まれ最早視界にはない。しかし、睦人には雨でできた水たまりすら、赤く色づいて見える。
周囲が赤い。世界が赤い。自身を溺れさせるそれに、身を委ねたくなる。
「何で…… !?」
譫言のように呟くも、その声は現実を生きる人々の音に消されていく。
「睦人 !? どうしたの、大丈夫 !? ……さっきの、えっと、何の音 !?」
妙な高揚感と、魅了される意識。
そんな睦人を繋ぎとめたのは、腕の中の幼馴染の悲痛な声だった。
「あ……」
大きな絶望と、強い拒絶。
睦人の脳裏に浮かぶのは、
「…… !!」
在りし日の、大好きな幼馴染の姿であった。
「くっ…… !!」
歯を食いしばり、睦人は如奈を突き放す。
「わっ……」
急に突き飛ばされた如奈は、バランスを崩しながらもしっかりと足をつけ、睦人へと振り返る。
「睦人 !? え、何が……」
そこで、如奈の言葉は途切れた。
何があったのか、と問おうとした文は今後音になることはない。
「え…… ?」
如奈の視界に入ってきたのは、雨とは違う滴を頬に伝わせる幼馴染の姿だった。
「……睦人 ?」
睦人の頬を、再度一筋の滴が伝う。
冷たい雨粒とは違い、その流れが温かいことが、今の睦人には救いだった。
「如奈」
呼びかける声に力はなく、それでも如奈の耳にしっかりと届いた。
睦人は、自身の意識が遠のくのを感じていた。
「如奈……」
先の光景と、毎晩の夢が重なる。
いつも途切れてわからない最後の言葉を、睦人は理解してしまっていた。
「……ごめん」
言うや否や、睦人は膝から崩れ落ち、重力に従いその場に倒れこんだ。
「睦人 !? どうしたの睦人 !?……睦人 !!」
如奈が必死に声をかけるも、睦人はピクリとも動かない。
「睦人 !! ねえ、しっかりして !!」
如奈の声は、睦人に一切届いていない。
水たまりに沈む体に、強くなった雨が容赦なく叩き付けた。




