第7話「芽が出るまでの仕事」
芽が出るまでには、時間がかかる。
指南書によれば、アルバの発芽は植え付けから七日から十日。つまり一週間以上、畑は「土のまま」だ。何も起きていないように見える畑を前に、初心者は不安になる。だがこの一週間こそ、やるべきことが山ほどある期間だった。
第一に、寝床の格上げだ。
泉のほとりに、小屋を建てた。柱は森の縁に落ちていた倒木の枝、壁は編んだ草と泥、屋根は大きな葉を重ねて押さえた。俺が組んで、ワカバが材料を運ぶ。ワカバは木の枝を体に取り込むと、重さで少し平たくなりながらも、文句ひとつ言わず何往復もした。
――わかば、にぎやか。……いえ、できる。
「『荷物』って言いかけただろ、今」
――いってない。
小さな嘘が上手くなってきたのも、成長の一つだろう。
二日かけて完成した小屋は、人が一人と潰れたスライム一匹が寝られる大きさだった。雨が降っても、もう葉っぱの下で震えなくていい。
雨の日もあった。三日目の午後、空が急に暗くなって、激しい雨が草原を叩いた。完成したばかりの小屋は、幸い雨漏りひとつなかった。雨音を聞きながら指南書を読み進める時間は、悪くなかった。肥料の配合、病害の見分け方、収穫の目利き。知識が増えるたび、この土地でできることの輪郭がはっきりしてくる。
ワカバは雨の日、決まって小屋の入り口で丸くなった。雨粒が体に当たるのがくすぐったいのか、時々ぷるぷる震えては、小さな声で笑うような音を立てた。
――あめ、たのしい。はたけ、のんでる。
「ああ。畑にも良い雨だ」
誰かと雨宿りをするのは、前世ではなかった贅沢かもしれない。
第二に、日課の整備だ。
朝は畑の見回りと水の調整。午前は拠点の仕事。午後は弓の稽古を二十射。夕方は指南書の読み込みと、明日の計画。数字も記録し始めた。魔力の上限は、稽古のたびに二、三ずつ伸びて、一週間で八二五から八四一になっていた。劇的ではない。だが複利の力は、こういう地味な積み重ねにこそ宿る。
小屋の壁には、木炭で作付けの暦を描いた。発芽、追肥、土寄せ、収穫の見込み。季節の区切りと、その先の仮説まで書き込んだ一年分の見取り図だ。ワカバはその壁画を、毎日誇らしげに眺めていた。相棒に見つめられると、不思議と計画の解像度が上がる。
川には魚の仕掛けも作った。葦を編んだ籠を夕方に沈め、朝に揚げる。前世の知識ではなく、指南書の生活編に書いてあった工夫だ。初日こそ空振りだったが、二日目には小魚が三匹入っていた。食料の当てが一つ増えるだけで、生活の足元はぐっと固くなる。
第三に、追加の仕入れだ。
指南書の教えに従い、肥料を「農の市」で買い足した。品名は「畑の実り」、土の力を底上げする粉末肥料で、魔力九〇。今回の教訓はこれだ。――仕入れの頻度が上がると、魔力の回復速度が全体のボトルネックになる。金と違って、魔力は借り入れができない。毎日の回復量の中でやりくりする「回転資金」の感覚が、この商いには要る。
施肥はワカバの仕事だった。粉を体に取り込み、畝の上をゆっくり進みながら、均一に土へ混ぜ込んでいく。
――つち、おいしくなった。
「お前が言うと、土を味見したみたいだな」
――あじみ、した。
しているのか。スライムの味覚は謎が多い。
七日目の夜は、この世界に来て初めての満月だった。月明かりで草原が銀色に染まり、泉の水面が静かに瞬いていた。ワカバと並んで月を見上げる時間に、俺はふと考えた。前世で最後に見た月は、ビルの窓越しの、霞んだ白い点だった。この一週間は、前世のどの一週間より「生きていた」気がする。
死んだからこそ、取り戻せたものがある。それは、少し皮肉な収支だった。
そんな日々の八日目の朝だった。
見回りのワカバが、畝の前で弾むように震えた。
――めぐる! めぐる、みて!
駆け寄ると、畝の土が、一箇所だけ小さく持ち上がっていた。その割れ目から、淡い緑の芽が、ちょこんと顔を出している。
五十株のうちの、最初の一つだった。
「……出たな」
――でた。ぼくたちの、はたけ。
ワカバの双葉が、朝日のなかで嬉しそうに揺れていた。その隣で顔を出した畑の若芽と、双葉の緑は、よく似ていた。
その日の見回りでは、他の畝からも五つ、六つと芽が続いた。発芽率の高さは指南書の標準を上回っている。この土地と、水と、そしてワカバの世話の賜物だろう。
俺は作付け暦の壁に、木炭で丸を一つ描いた。発芽の日、とだけ添えて。
――つぎは、なに、する。
「芽が揃ったら、間引きと土寄せだ。それと――」
川の方へ目をやった。仕掛け籠の魚だけでは、食卓はまだ単調だった。
「そろそろ、川の恵みを本格的に頂きに行こう」
――さかな。わかば、はこぶ。
どうやら相棒は、運搬係の仕事をもう理解しているらしい。頼もしい限りだった。拠点は少しずつ、ただの草原から「暮らしの場所」に変わりつつあった。芽が出た畑が、その中心で静かに育っていた。明日の川行きが、今から楽しみだった。




