第4話「聖域は安全で、弓はよく当たる」
「農の市」の画面を、俺は一度閉じた。
カタログはざっと見た。種も、苗も、農具もある。値段は全部、魔力払いだ。だが、仕入れは現地確認の後にするのが鉄則だ。この泉の水がどれだけ使えるのか、土は本当に作物向きなのか、そして何より、ここは本当に安全な場所なのか。それが分からないうちに在庫を抱える営業は、三流である。
というわけで、転生二日目は「拠点の調査」から始めた。
ワカバは朝から畑にいた。畝を一列、また一列と増やしている。
――めぐる、おはよ。はたけ、ひろげた。
「おはよう。……働き者だな、お前」
――たね、まだ?
「今日調べてから買う。待っててくれ」
ワカバが少し膨らんで、また土に戻った。催促されている。生後二日で、俺は部下に尻を叩かれているわけだ。
まず泉の周囲を一周した。直径百メートルほどの草原。その外側は、巨木の壁だ。前日感じた通り、草原の縁に近づくほど、背筋のあたりが冷える。耳を澄ませば、森の奥からは獣の声、羽音、時折、地響きのような低い音。
だが、その「気配」は縁を越えて入って来ない。
試しに、落ちていた小石を森に向かって放り投げてみた。石は普通に飛んで、木の根元に落ちた。結界のような物理的な壁はない。次に、俺自身が一歩、草原の外へ出てみる。足の裏の感触が変わる。空気が少し冷たく、魔力の「濃さ」のようなものが薄れる気がした。そして――背後から、視線を感じた。
慌てて草原へ戻ると、視線は消えた。
「……そういうことか」
観測結果を整理する。この草原の中は、魔物が本能的に避ける「何か」で満たされている。泉を中心とした、濃くて清い魔力の層。魔物はそれを嫌うか、格上と感じて近寄らないのだろう。理由の断定は保留。だが実務上は、これで十分だ。
「拠点は安全。ただし、聖域の外は自己責任」
ルールを一つ、頭の手帳に刻んだ。
念のため、ワカバにも縁まで付き合ってもらった。ワカバは平然と草原の外へぺたぺた出て、また戻ってきた。スライムには気にならないらしい。……いや、訂正。ワカバが「変な目で見られている」のを気にする素振りを見せ、すぐに俺の足元へ隠れた。やはり外には何かいる。姿を見せないだけだ。
境界の目印に、小石をぐるりと並べておいた。うっかり越えて死んだ、では女神に顔向けできない。
次に、川だ。泉から流れ出す小川は、草原を抜けて森へ下っていく。水量は安定し、魚影も多い。出入り口はこの川しかない、という地形も頭に入れた。将来、物を運ぶならこの川が生命線になる。
最後に、今日の本題。弓の確認だ。
支度セットの木弓を手に、草原の端に立つ。倒木を的代わりに、距離は二十歩。前世の道場では、的までの距離は十八メートルと決まっていた。まずは型通り、足踏み、胴造り、弓構え。
不思議なことに、矢が手元にない。
「……マナアロー、だったか」
女神の説明を思い出す。矢は魔力で作る。集中すると、弦を引く右手の指先に、ほのかな光が集まって、細い矢の形を取った。
打起し、引分け、会。――呼吸を止めず、体の中心で狙いを据える。
離れ。
光の矢は真っすぐに飛び、倒木の中心に音を立てて突き刺さり、霧のように消えた。
「おお……」
二射目、三射目。所作が正しく通るほど、矢の精度が上がる手応えがある。そして四射目を終えた時、体の中で何かが、ごく僅かに「広がった」感覚があった。
ステータスを開く。
魔力:八一五/八二三。
「……上限が、増えてる」
消費したはずの現在値は戻りつつあり、そして最大値の方が、八二〇から八二三へ、確かに増えていた。矢を放った回数ではない。型を通して、集中して、正しく放った分だけ、「器」が育っている。
弓術の所作そのものが、魔力の巡りを良くする行いなのだとしたら――。
俺は手帳の中で、この項目に二重丸をつけた。急成長はしない。だが日々の反復で、確実に積み上がる種類の成長だ。営業の数字と同じで、こういうのが一番強い。
ついでに測っておくと、マナアロー一射の消費はおよそ五。安いものだ。消費そのものより、型の精度で上限が伸びることの方が、よほど大きな収穫だった。
――めぐる。……おなか、なってる。
ワカバの指摘で、我に返った。確かに腹が鳴っている。干し肉と堅パンは、朝のうちにあらかた平らげてしまった。今日の食料は、川の魚と、草原の端で見つけた木の実だけだ。
「……よし。調査終わり。明日は仕入れだ。ワカバ、種芋と農具と、農業の本。予算は魔力で相談だ」
――たね! わかば、まってる。
双葉が、夕日の草原で嬉しそうに揺れた。
川で小魚を二匹、素手と悪戦苦闘の末に何とか捕まえ、木の実を拾って、その日の夕食にした。味付けはなし、量も心許ない。だが不思議と、不満はなかった。前世のコンビニ弁当より、ずっと「食った」という実感があったからだ。隣ではワカバが、泉の水を吸って丸くなっている。
腹を空かせた転生者と農家スライムの、本格的な開拓生活が始まろうとしていた。




