第25話「雪の拠点」
雪が、本格的に積もった朝だった。
戸を開けると、世界が白かった。畑は白い畝の連なりに、小屋の屋根は白く厚く、泉の周りの岩まで白い帽子をかぶっていた。
――ゆき。……ぜんぶ、白い。……きれい。
ワカバが、戸口で長らく動かなかった。雪景色に、すっかり心を奪われていた。その横顔のような体を見て、俺は少し笑った。食うことと働くことの毎日の中で、「きれい」を見つける心を、この相棒は一度も失っていなかった。
ワカバは雪を集めて、小さなスライムの形を作った。自分とカブトと、俺……は人型に挑戦して崩れたらしい。三度目の挑戦で、弓を持った棒人間が立った。
「才能あるじゃないか」
――へへ。
カブトの方は、朝から苦労していた。重くて硬い体が、深雪にずぶずぶと沈むのだ。見回りの途中で立ち往生している盾役を、俺とワカバで引っ張り出した。その後カブトは、体を薄く広げて雪の上に乗る方法を自分で編み出した。接地面を広げれば沈まない。当たり前の理屈だが、発見は彼の工夫だった。見回りの小石の目印は雪の上でも見える位置に並べ直され、雪の上には三人分の通路が踏み固められていった。
昼前には、雪中の型の稽古をした。冷たい空気は、呼吸を澄ませるのに向いていた。足場の悪い雪の上では、胴造りの基礎が試される。会の静けさは、雪原の静けさと同質だった。
魔力の数字は、九六五。千まで、あと少しだった。
夕方、水を汲みに泉へ行った時だった。
泉の氷は真ん中だけ薄く、湧き水の流れで完全には凍っていなかった。その薄氷の下を、ゆっくりと、大きな影が横切った。
魚ではなかった。影は泉の幅の半分ほどもあり、形は丸く、動きは悠然としていた。氷越しで輪郭は滲んでいたが、俺はその質感にある予感を覚えた。スライムに、似ていたのだ。信じられないほど巨大な、スライムのような影だった。
――めぐる。……あれ。大きい。すごく、大きい。
ワカバの声にも、驚きと、それから理由の分からない懐かしさのようなものが混じっていた。
影は泉の底の方へ沈み、やがて見えなくなった。祠のある、この始まりの泉。女神がスライムパーティーを託した場所。その底に、何が棲んでいるのか。
俺はその観測を、手帳の「保留箱」のページに、大きく書き留めた。
その夜は、ワカバの発案で「雪見鍋」になった。塩漬けの肉と芋と、干した茸を煮込んだだけの鍋だったが、炉の火と雪景色と三人の食卓は、立派な宴だった。ワカバは上機嫌で、カブトは鍋の番をする役を買って出た。静かな盾役は、火加減の番人としても優秀らしかった。
食事の後、俺は祠へ行って、手を合わせた。女神への祈りというより、報告と礼のような気持ちだった。冬を越える備えが済んだこと。仲間が増えたこと。泉の底に、大きな影を見たこと。……報告の最後は、自然とそうなっていた。
答えは、なかった。だが祠の静けさは、嫌いではなかった。
手帳の冬の観測欄には、泉の氷の張り方、影の出現時刻、カブトの雪上移動の工夫、薪の消費ペース。地味な記録が、冬の財産として積み上がっていく。商いの世界でも、記録を制する者が流れを読む。森の冬も、同じことだと思った。記録は、未来の自分への仕入れだった。
雪の季節の楽しみも、少しずつ増えていた。雪合戦ではなく、雪の造形に夢中なワカバ。雪道の工夫を毎日改良するカブト。三者三様の冬の過ごし方が、拠点の色になっていった。家に色がつくというのは、なかなかいい感覚だった。前世の部屋には、なかった色だった。その色の正体を、考えてみる夜も悪くなかった。結論は出なかったが、それでよかった。数字にならないものは、急いで定義しない方がいいのだった。冬の静けさが、その答えの保留を許してくれていた。外では、雪が静かに降り続いていた。明日も、穏やかな一日になるはずだった。その予定は、静かに実現していくはずだった。少なくとも、この夜まではそう思っていた。夜明けの出来事までは、想像もしていなかったのだ。冬の森の静けさは、時として予告なく破られるものだった。そのことを、俺達はまもなく思い知ることになる。
だがこの夜は、まだ平和だった。炉の火に手をかざし、明日の稽古の段取りを頭の中で並べる。ワカバの寝息のような小さな音と、カブトの規則正しい気配。雪に閉ざされた小さな家は、確かに「守られていた」。
泉の底の影のことも、考えてはいた。いつか向き合う日が来るのだろう。その日が、穏やかな日であることを願いながら、俺は手帳を閉じた。
夜は更け、雪は拠点を柔らかく包んでいた。三人の冬は、静かに始まったばかりだった。そして、冬は始まったばかりの頃にこそ、牙を剥くことがあるのだった。その予感めいた静けさを、獣たちは敏感に嗅ぎ取っていたのかもしれない。空腹の冬は、人にも獣にも等しく厳しかった。その厳しさが、夜明けに牙の形を取ることになる。俺達はまだ、その足音に気づいていなかった。




