第2話「目を開けたら、大森林の真ん中」
目を開けると、緑だった。
視界いっぱいの、緑。背の高い草が風に揺れ、鼻先には土と水の匂い。遠くで鳥の声が層になって鳴いている。
「……本当に、来たのか」
寝転がったまま、まず自分の体を確認した。
手が、小さい。指が細くて、長年のペンだこの代わりに、弓を引いてできたはずの古い傷もない。顔を触れば輪郭は幼く、声を出してみれば、驚くほど高い。
「若い……十五、六ってところか」
鷹野巡、三十五歳、あらため――十五歳。いや、名乗りの問題は後だ。中身が営業部長級で、外見が中学三年生というのは、商談の場ではまず間違いなく舐められる。まあ、その商談の場がこの世界にあるのかどうかも、まだ分からない。
起き上がって周囲を見回す。
ここは森の中の、ぽっかりと開けた草原だった。直径で百メートルほどか。中央には清水を湛えた泉があり、その岸辺に小さな石の祠が建っている。泉からは細い川が流れ出し、森の奥へと消えていた。
そして森。泉を取り囲む木々は、どれも尋常ではない大きさだった。幹の太さは大人の三抱えでは足りず、見上げれば梢は三十メートル先で空を隠している。
試しに草原の端まで歩いてみたが、不思議なことに、開けた場所の外へ出ようとすると、進む気がしなかった。何かに阻まれるのではなく、背中のあたりが「今日はそこまで」とでも言うように、すっと冷える。魔物めいた気配は、どこにもない。
「……聖域、ってやつかな」
面接の書面には書かれていなかったが、女神が何の守りもなく死にかけの転生者を最前線に放り出すはずがない――と、信じたい。営業は希望と観測を分けるものだ。今のところは観測だけを信じる。ここは安全、ただし理由は不明。以上。
足元に、荷物がひと揃い置いてあった。
旅人風の服とブーツ、革の水筒、小さなナイフ、保存食らしき干し肉と堅パン。そして、木弓。
「お、弓」
手に取ると思いのほか軽く、素朴な作りだった。支度セットにしては正直、凡庸の一言である。だが弦を弾く音は澄んでいて、握りの馴染みも悪くない。何より、持った瞬間に体が思い出した。――前世で、俺は弓術をやっていた。道場の型、呼吸、弦音。三十五の体に染みついた所作が、十五の体でも迷わず出てくる。
これは、嬉しい誤算だった。
祠にも近づいてみた。高さは俺の腰ほどで、苔むした石造り。中には何も祀られておらず、内側の壁に、読めない文字の刻印だけが走っている。いや――読めないはずなのに、「言語理解」のおかげか、ところどころ意味が滲むように分かる気がした。
「……『巡り』……『止まるな』……?」
首を傾げて目を凝らすと、文字はまた意味を手放した。今は深追いするな、と営業の勘が言う。分からないものは、保留箱に入れておくのが一番だ。
次に、やるべきことを頭の中で並べた。水、よし。食料、干し肉と堅パンで三日はもつ。寝床は今夜、草を集めれば何とかなる。安全は、ひとまずこの開けた場所の中だけ。仕事でも何でも、生存でも、段取りは「確認できるものから固める」が鉄則だ。
岸辺では、小魚が水面を跳ねた。川魚がいるなら、食料の当ては増える。森の方からは時折、鳥とは違う、腹に響くような獣の声。音の遠さからして、近づいてくる気配ではない。――この草原の外は、間違いなく「こちら側」ではない何かの世界だという実感だけは、初日から骨身に沁みた。
干し肉を齧って腹を満たし、水筒に泉の水を汲む。冷たくて、やけに甘い。――甘い?
手を止めた。清流の水が甘く感じるのは、前世でも山の湧き水くらいのものだった。しかも飲むたび、体の芯がじんわりと温かくなるような気がする。確かめる術は、ひとつだけある。
「ステータス」
書面にあった「ステータス閲覧」。半信半疑で唱えると、視界の端に半透明の文字が浮かび上がった。
年齢:15 レベル:1
魔力:820/820
スキル:スライムパーティー(Lv.1)
言語理解
所持特典:農の市(未接続)
「メグル、か」
読み方は、前世の名の音のまま。巡、めぐる。神様なりの配慮なのだろう。姓名の「姓」の欄だけが空欄なのも、なんだか今の俺らしい。所属も肩書きもない。あるのはスキルと、魔力と、この広すぎる草原だけ。
魔力八二〇。多いのか少ないのか、比較対象がないから分からない。相場を知らない商品の値付けほど怖いものはない。分からないものは、測れる形にしてから考えるのが俺の流儀だ。まずは使ってみて、減り方を見れば相場の見当もつく。
一覧の中で、ひときわ存在感を放っている項目に目が留まる。
スライムパーティー。女神いわく、スライムを召喚して、パーティーを組めるスキル。進化して、ジョブに就いて、分裂して増える。――営業の勘が言う。この世界の「巡らせる仕事」は、まず相棒の確保から始まるのだろう。
深呼吸をして、泉のほとりに立った。
「……やってみるか」
両手を前にかざし、頭の中の「スライムパーティー」の文字に意識を向ける。
魔力が、腕を通って、指先から草原へ流れ出していった。




