第1話「過労死した商社マン、女神と面接する」
午後十一時四十七分。豊州商事、本社ビルの二十三階。
フロアに残っているのは、俺一人だった。
モニターには今期の売上集計が表示されている。食糧部門、関東ブロック。鷹野巡、達成率一三二パーセント。部門トップ。三期連続。
――数字は裏切らない。数字は、休まない。
「……よし」
最後の取引先への返信メールに目を通し、送信ボタンを押す。明日の商談資料は印刷済み。来週の地方出張の行程表も組んだ。サブで抱えている資源部門の見積もりも、今夜のうちに――。
立ち上がった瞬間、世界の端がぐらりと傾いだ。
胸の真ん中を、内側から何かが強く握りつぶす。息が吸えない。机の角に手をついたはずなのに、指先の感覚が遠い。
ああ、これはまずいやつだ。
三十五歳。健康診断の判定は毎年Dだった。医者には「このままだと本当に倒れますよ」と笑顔で脅されていた。部下には「鷹野さんみたいにはなれません」と言われ、上司には「鷹野がいるから大丈夫だ」と言われ。
大丈夫なはずの人間が、こうして床の冷たさを頬で感じている。
(……商談、明日の十時……資料は、机の上……)
視界が白く霞んでいく中で、最後に思ったのはそれだけだった。我ながら、救いようのない職業病である。
―――
「……ここ、どこですか」
目を開けると、白かった。
白い床、白い壁、白い天井。いや、天井があるのかどうかも分からない。どこまでも白い空間に、ぽつんと事務机と椅子が二つ。そして、向かいの椅子に腰かけた女性が、書類から顔を上げて微笑んだ。
「お目覚めですね、鷹野巡さん。初めまして。わたくしはフィオナ。農耕と豊穣を司る女神、と自己紹介しておきますね」
「……女神」
「ええ。あなたは先ほど、現世で生涯を終えました。過労による心停止です。三十五年間、お疲れ様でした」
丁寧に頭を下げる女神を前に、俺の頭は妙に冷静に回っていた。夢か、走馬灯か。それにしては、机の上の書類の質感がやけに生々しい。
「率直に申し上げます。今日は面接です」
「面接」
「ええ。わたくしどもの世界は今、困っていましてね。食料が慢性的に不足し、世界を巡る魔力そのものも痩せ細っています。技術も知識も足りない。……そこで、専門家を外部からお招きできないかと」
机の上に、契約書のような書面が滑ってくる。思わず姿勢を正したのは、営業の性だった。
「条件を、確認させてください」
「どうぞ。そういう方だと思って、お声がけしました」
女神は少しだけ、楽しそうに目を細めた。書面には、異世界で俺に与えられるものが、箇条書きで記されていた。
一、固有スキル「スライムパーティー」
スライムを召喚し、パーティーを編成できる。召喚したスライムは進化し、ジョブに就くことができる。スキルレベルが上がるとスライムが分裂して数が増え、スライム達のステータスが上昇する。また、レベルごとに新たなジョブが解放される。
一、農業支援特典「農の市」
農業用品に限り、異世界の品を購入できる市場への接続権。代金は魔力で支払う。
一、言語理解
一、ステータス閲覧
一、支度金に代わる初期装備一式
「転生先での地位や財産は、保証されないんですね」
「ええ。お渡しできるのは、道具と適性だけです。あとは、あなたの腕次第」
「任務のようなものはありますか。魔王を倒せ、とか、国を救え、とか」
「ありません。どう生きるかは、あなたが決めてください。……結果として世界が救われるような生き方を、あなたならするだろうと、わたくしどもは判断しただけです」
ずいぶんと買ってくれるものだ。だが、成果の決められていない仕事ほど、営業は燃える。いや――いけない。今の俺は、その燃え方で一度死んでいる。
「……ずいぶん正直ですね。普通、こういうのは良い条件だけ並べるものでは」
「騙して連れて行っても、長続きしませんから。それにあなたは、数字と条件を全部見てから決める方でしょう?」
見抜かれている。営業同士の会話に近い。いや、彼女は神で、俺は死人なのだが。
「最後に一つ。どうして俺なんですか。勇者とか、もっと向いた人間がいるでしょう」
女神は少しだけ視線を落とした。その横顔が、ほんの一瞬、ひどく疲れて見えたのが印象に残っている。
「この世界はね、足りないのではなく、巡らなくなっているんです。実りはあるのに、届かない場所がある。魔力はあるのに、行き渡らない土地がある。……それを直すのは、戦う人ではなく、巡らせる仕事のプロです」
「…………」
「鷹野巡さん。三十五年、あなたは食を人に届ける仕事をしてきました。その腕を、今度はわたくしどもの世界で振るってはもらえませんか」
巡らせる仕事のプロ。
前世の最後の瞬間まで、俺がやっていたのはまさにそれだった。安く仕入れ、無駄なく分け、必要な場所へ、必要な時に届ける。売上表の向こう側に、食卓があることを忘れたことは、一度もない。
断る理由は、なかった。そもそも、死んだ人間に選択肢はそう多くない。
「条件は悪くないですね。一つだけ、こちらの希望を足してもいいですか」
「何でしょう」
「今度は――定時、とは言いませんが。たまには、のんびりさせてください」
女神はきょとんとして、それからくすりと笑った。
「それは、わたくしではなく、あなた自身との契約ですね。……成立です」
彼女が手をかざすと、世界が白く弾けた。
眩しくて、目を瞑る。
――次に目を開けたとき、俺は見たことのない景色の中に立っていた。




