第17話「カラム村の飢え」
川を下ること、半日と少し。
森の縁が切れ、開けた土地に出た瞬間、空の広さに目が眩んだ。そして、最初に目に入ったのは、畑だった。
痩せた畑だった。
土は色が薄く、作物は背が低くまばらで、畝の間には雑草が勝ち始めていた。前世で見た、干ばつの年の産地の風景に似ていた。違うのは、雨が少ないわけではないということだ。川は豊かに流れている。水はある。土に、力がないのだ。
下流へ進むにつれて、川魚の姿は小さくなっていった。泉の恵みが薄れるにつれて、生き物の育ちも細る。その単純な勾配が、この世界の「痩せ方」をそのまま示していた。下流の世界は、上流の聖域とは別の国だった。
畑の向こうに、家が二十軒ほど。カラム村。煙の出所はここだった。
村の入口で、子供と目が合った。頬のこけた、年端もいかない子が、俺と、俺の肩のワカバを、口を開けて見ていた。やがて、家の中へ駆け込んだ。
「――旅の者か」
現れたのは、初老の男だった。背筋は伸び、目は鋭い。村人たちがその後ろに集まってくる。警戒の空気は、予想通りだった。だが、この男の佇まいと物言いは、ただの村の長老のそれではなかった。言葉の選び方に、どこか「中央」の響きがあった。
「ご挨拶が遅れました。俺はメグル。川の上流の方で暮らしている、行商のような者です。今日は、品物の見本を持って、ご挨拶に」
「行商。……その年でか」
「見た目は、こういう事情で」
深くは語らない。決めておいた通りだった。男は俺を頭から足先まで値踏みするように見て、それから肩のワカバを見た。
「そっちの、喋る魔物は何だ」
――こんにちは、です。わかば、です。
練習の成果は、完璧だった。村人たちが一斉にざわついた。子供が母親の袖を引いた。長老の目が、初めて興味の色を帯びた。
「……ふむ。私はユーノ。この村の長をしている。まあ、上がれ。話くらいは聞こう。ただしメグル、期待はするな。この村には、買う金がない」
ユーノの家で出されたのは、薄い麦の粥だった。申し訳程度の量。だが、それがこの家の「客への精一杯」であることは、俺には分かった。
話は、村の現状だった。カラム村は代々、川の恵みで小麦と野菜を作ってきた農村だ。だが、ここ二十年ほど、作物の実りが年々悪くなっている。土が痩せ、保存も利かず、冬には買い付けの商人に高い食料を買わされる。若い者は街へ出ていき、残るのは老人と子供ばかり。
「備蓄は、冬の半分も持たん。今年は特に厳しいじゃろうな」
ユーノは淡々と語った。だが、その数字の並べ方、状況の整理の仕方は、やはり素人の村長のものではなかった。
「――見本を、見せてもらえるか」
俺は頷き、ワカバに合図した。収納から、芋の上物を三つ、燻製肉を一片、取り出す。
ユーノの目が、変わった。芋を手に取り、重さを確かめ、皮を爪で弾き、匂いを嗅ぐ。目利きの手つきだった。
「……この大きさの芋が、どこで採れる。川の上流の、あの森でか」
「場所は、申し上げられません。ただ、量は揃えられます。冬の分を」
沈黙が落ちた。ユーノは芋を静かに置いて、俺の目をまっすぐに見た。
「メグル。あんたの芋が本物なら、この村の冬が越せる。……だが、分かっているか。本物かどうかは、食べた者の腹が決めることじゃ」
その場で、見本の芋を囲炉裏で焼いた。皮が弾け、白い湯気と甘い香りが部屋に広がる。ユーノは一口、咀嚼して、目を閉じた。村の子供が、戸口からじっとこちらを見ていた。俺は残りの焼き芋を、その子に手渡した。子供は両手で受け取り、夢中で頬張った。
前世で俺が見ていた「食料不足」は、報告書の数字だった。不足トン数、価格指数、需給ギャップ。数字は嘘をつかないが、顔も持たなかった。
この世界で初めて見る飢えには、子供の頬の、こけ方という顔があった。
交渉の席は、こうして開かれた。条件の話は明日の朝、村の寄り合いで、と決まった。俺はその夜、村外れの納屋の隅に寝床を借りた。
――めぐる。……村のひとたち、痩せてる。
「ああ。だから、俺達の余りが要るんだ」
月に照らされた村の畑は、痩せて、静かだった。だが川の音だけは、豊かに流れていた。水はある。届いていないのは、水ではない。「実り」そのものの巡りだった。
明日の寄り合いで、俺は人生で何度目かの「新規開拓の条件交渉」に臨む。前世と違うのは、売る相手の冬の命が、数字の向こうに見えていることだった。値付けを間違えれば、信用も、来年の商いもない。慎重に、だが臆病にならずに。今夜のうちに、条件の腹案を固めておく必要があった。金がない村に、金の取引は成立しない。ならば対価は、別の形で設計するしかなかった。布、塩、労働、そして何より「信用」。その配分を、寝床の中で天井を見ながら組み立てた。ワカバはもう、丸くなって眠っていた。明日に備えるのが、相棒の仕事でもあった。初めての取引の日は、もう明けようとしていた。村の朝は、早かった。寄り合いの鐘が、静かに鳴った。




