第14話「泉の客、小さな異変」
その生き物は、小鹿のようだった。
青みがかった短い毛並み、細い脚、大きな耳。ただし耳の先はほのかに発光していて、額には小さな角の芽のようなものがあった。前脚の片方を引きずり、腹の毛は痩せて、肋の形が浮いて見える。魔物というより、「森の小動物が、魔力を帯びて少しだけ変わった姿」に近かった。
俺が両手を見せると、その子は震えながらも逃げなかった。正確には、逃げる体力がなかったのだろう。そのまま泉の縁に崩れるように伏せ、弱々しく水を舐め始めた。
「……魔力に、飢えているのか」
聖域の外は魔力が薄い。薄い場所で生きる小さな生き物は、こうして濃い場所の水に命を繋ぐことがあるのかもしれない。女神の言った「世界が痩せている」という言葉を、俺は初めて、生き物の姿として見た気がした。
殺す理由はなかった。畑を荒らしたわけでもない。かといって、飼う理由もなかった。野生の生き物の処遇について、前世の常識はここでは通用しない。だから決めたのは「水を飲んで、休んだら、帰るのを見守る」ということだけだった。
――わかば、この子、助ける?
「助けるというより、邪魔をしない、だ。……ただ、少しだけ、手伝いはする」
川魚の干したものを細かくほぐし、水に浸して柔らかくして、泉のそばに置いた。最初は警戒していた小鹿もどきは、しばらくして、震える首を伸ばしてそれを食べた。ワカバは隣に座り、自分の体から少しだけ魔力の霧のようなものを漂わせていた。スライムなりの、見舞いのつもりらしかった。
眠っている間に、一度だけ首輪を近くで見せてもらった。革は古く、留め具には小さな紋様が刻まれていた。葉と矢を組み合わせたような、簡素な印だった。擦れて読みきれない部分もあったが、俺は指南書の余白に、その紋様をできるだけ正確に写し取った。いつか、この印の意味を知る日が来る気がしたからだ。
その子は一日、泉のそばで眠った。傷ついた脚は、翌日の昼には引きずらなくなっていた。泉の水と、濃い魔力の空気が、回復を助けたのだろう。
回復してからのその子は、意外に人懐こかった。ワカバの後をちょこちょこと付いて歩き、畑の縁までは来るが、畝の中には決して入らなかった。躾が身についているような仕草だった。誰かに、大事に飼われていた生き物の振る舞いだった。
――わかば、この子、友達。
「ああ。……だが、帰る場所がある子なんだろう」
――うん。……ちょっと、さみしい。
ワカバの言葉に、俺は答えなかった。この拠点に「仲間」が増えることの意味を、相棒はまだ知らない。スキルレベルが上がれば、分裂という形で家族は増える。その日までは、この小さな客との出会いが、俺達のささやかな社会の広がりだった。
夕方、すっかり元気を取り戻したその子は、立ち上がって体を震わせた。そして帰る前に、俺の方を向いて、ほんの一瞬だけ、頭を下げた――ように見えた。
――お礼、言った。
「……そうか。元気でな」
小鹿もどきは、川の流れに沿って下流へ、森の薄暗がりへと姿を消した。来た道ではない。川伝いに、人の里のある方角へ。
そして、俺はその首元を思い出していた。
近づいた時に確かに見えた。古い革の首輪だ。擦り切れて、金属の小さな留め具が付いた、手作りらしい品。こんな大森林の真ん中で、小動物が人の首輪を付けて生きている。
考えられる説明は、限られていた。この子の祖先か、この子自身か――「人間のそばで暮らしていた」時期がある、ということだ。森のどこかで、人が生きていた、あるいは今も生きている痕跡。
手帳の新しい項目に、俺はこう書いた。
「首輪の小客。来訪一回。人の痕跡その一」
森はまだ、俺の知らない「過去」を抱えていた。
その夜、俺は決めたことが一つあった。泉の周りには、柵を作らない。畑は守る。だが泉は、この森で魔力に飢える小さな生き物たちの、水飲み場であり続けた方がいい。囲い込んで独占する商いは、巡りを止める商いだ。女神に選ばれた理由を思えば、それだけはやるべきではなかった。
――わかば、泉、みんなの。
「ああ。泉はみんなのものだ」
相棒の単純な言葉が、その夜の結論によく似合っていた。
季節は夏から、実りの色へ移りつつあった。芋の葉は畝を覆い尽くすほど茂り、地中では最初の収穫が静かに育っている。拠点の暮らしは、ようやく「守り」から「実り」へ軸足を移そうとしていた。だが実りが近づけば、次に考えるべきは「余り」の行方だった。畑の生産量は、俺とワカバの消費量をとうに超えようとしていた。余った食料は、腐らせれば無駄になる。届ける相手が、どこかに必要なはずだった。小客の去った下流の方向を、俺はその時、改めて見つめていた。川は、里へ繋がっているはずだった。収穫が終われば、一度、その先を見に行くつもりだった。商いの次の段階は、もう始まっていた。そのための準備も、畑の実りと一緒に進んでいた。秋は、もうすぐそこだった。実りの季節が、拠点にやって来ようとしていた。




