第13話「森の奥の気配」
嵐の三日後、俺は「調べる範囲」を決めた。
あの地響きの正体を追う気はない。だが、拠点の周囲のどこまでが安全で、どこからが危険域なのか。その境界線だけは、商いでも狩りでも、引いておく必要があった。知らない土地で遭難する商人は、たいてい「なんとなく大丈夫だろう」と根拠なく進んだ人間だ。
調査は、聖域の縁を越えて、中心方向へほんの少しだけ進む形にした。目印の紐を木に結び、三十歩進むごとに引き返す合図を決める。ワカバは留守番――と言ったのだが、肩に乗って離れなかった。
――わかばも、いく。……めぐる、ひとりは、ダメ。
「……分かった。ただし、俺が『戻る』と言ったら、文句なしに全速力だ」
――うん。
聖域の外の森は、空気が違った。湿っていて、重くて、魔力の粒子のようなものが肌を撫でる。鳥の声が、遠い。
五十歩ほど進んだ地点で、変化は現れた。巨木の幹が、根元からではなく胸の高さで折れていた。折口は新しく、木自体の重さで折れた形ではない。何かが、通りがけに体をぶつけたような折れ方だった。その脇の岩肌には、爪痕。長さは、俺の指を広げたよりも大きい。
鳥の声は、完全に止んでいた。虫の声すらない。森の中に、「音の穴」が開いていた。
――めぐる。……こわい。
ワカバが小さく震えた。その震えが、判断材料として何より雄弁だった。俺の魔力の上限は八七〇ほど。だが、この先に居るものの気配は、その数字を嘲笑うような重さで漂っている。今の俺の弓では、皮一枚傷つけることもできないだろう。
試しにステータスを開いてみた。魔力の回復速度が、拠点に居る時の倍近く速い。中心に近づくほど、環境の魔力が濃くなるのは、どうやら事実だった。濃いからこそ、強いものが生きていける。理屈は筋が通っていた。そして、理屈が通るということは、その先に進めばどうなるかも、理屈で予測がつくということだ。
「戻るぞ、ワカバ」
迷いはなかった。調査の目的は境界線の確認で、それはもう十分に果たされた。紐を辿って、足早に引き返す。背中から視線のようなものを感じたが、振り返らなかった。振り返って、目が合ってしまう方が怖かった。
拠点に戻って、手帳に「危険度マップ」のページを描いた。泉を中心に、川方向は人の里へ繋がる「緩衝」。畑方向は聖域の縁まで「管理域」。そして大森林の中心方向は、大きな×印を付けて「立入禁止。当分の間、絶対に近づかない」。
その日から三日かけて、畑の周りの防御を厚くした。枝の柵を二重にして、小屋の脇には丸太を積んだ簡易の見張り台。夜の見回りは、ワカバと交代制にした。ワカバは夜目が利くらしく、「なにか来たら、起こす」を約束してくれた。
――わかば、見張り、上手。
「頼りにしてる。……だが、無理だけはするなよ。お前も休むのが仕事のうちだ」
――わかった。……めぐるも。
見張り台は思いのほか役に立った。高いところから見渡すと、聖域全体が緩やかなお椀型の地形だと分かった。泉が底にあり、草原が広がり、縁の巨木の壁が風と魔物を遮っている。地形そのものが、天然の砦だったのだ。女神がこの場所を選んだ理由の一端が見えた気がした。
見張りの二日目には、夜行性の大きな鳥を魔物と見間違えたワカバに起こされる一幕もあった。謝るワカバに、「見逃すより、間違えて起こす方が正解だ」と伝えた。警報の鉄則は、前世の仕事でも同じだった。
四日目の夜だった。見回りの交代で起きた俺に、ワカバが静かに告げた。
――泉。……なにか、いる。
見張り台から泉の方を見ると、水面のそばに、小さな影がうずくまっていた。魔物の気配は弱く、震えているように見えた。大きな影ではない。だが、昨日の今日で、このタイミング。
俺は弓を手に、ゆっくりと泉へ近づいた。相手が何であれ、まず見ることだ。見る前に判断しない。商談でも、戦いでも、それは同じだった。
影は逃げなかった。小さく震えながら、泉の水を必死に飲んでいるようだった。大型の気配とは、まるで正反対の、頼りない影だった。
距離はあと十歩。月明かりの下で、影の輪郭が少しずつはっきりとしてきた。耳がある。四足で、痩せている。――そして、その首元に、何かが光っていた。
金の輪か、革の紐か。いずれにせよ、自然のものではなかった。人の手が作ったものが、こんな森の真ん中の生き物の首にある。その事実だけで、背筋が静かに伸びた。今日の「客」は、どうやら畑を荒らす小獣とは訳が違うらしい。弓を持つ手に、ほんの少しだけ力を抜いた。殺す場面ではない、という直感があったからだ。「大丈夫だ。……水を、飲みに来ただけだろう」という声が、静かな夜に小さく響いた。影が、びくりと震えてこちらを向いた。怯えた目が、月明かりに濡れていた。その目には、魔物の凶暴さよりも、助けを求める色の方が、濃く浮かんでいた。俺は弓を下ろし、両手を見せて、一歩だけ前に出た。交渉の第一歩は、いつも同じだった。敵意がないことを、示すことからだった。




