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戦う総合商社マン、異世界の大森林でスライム商会を興す  作者: 蒼月佳奈美


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第12話「大雨と増水」

嵐は、夜明け前に本気を出した。


小屋を揺らす風と、屋根を叩く雨の音で目が覚めた。外はまだ暗い。だが川の音が、おかしかった。いつもの清らかなせせらぎではなく、低く重い、地面そのものが唸るような音。


「ワカバ、起きろ。川を見てくる」


――はたけ。……はたけ、危ない。


言われるまでもなかった。懐中電灯の代わりにマナアローの光を掲げて外に出ると、草原の様子が一変していた。セイラ川は茶色く濁り、水位は普段の倍近くまで上がっている。そして悪いことに、畑へ水を引くために作った水路が、増水した川の水をそのまま畑へ流し込む「逆流の入口」になっていた。


設計ミスだ。水路に、増水時の逃げ道を作っていなかった。


「ワカバ、土だ。土を運んで、水路の入口を塞ぐぞ」


――わかった。わかば、早く運ぶ。


泥濘の中の作業が始まった。俺は鍬で土を掘り、ワカバは体に土を取り込んで水路へ何度も往復する。普段の何倍もの重さで平たくなりながら、それでも足――体を止めなかった。雨は容赦なく体を冷やし、十五歳の腕はすぐに悲鳴を上げた。


それでも、水路の入口に土嚢ならぬ土盛りが積み上がっていく。川の水の勢いが、少しずつ畑の手前で逸れ始めた。


だが、安心したのも束の間だった。今度は畑の反対側、森の縁から流れ込む雨水が、低い畝を襲い始めた。


「……排水も、甘かったか」


畝二つが水に浸かり、若い葉が泥水に沈んでいく。全部は守れない。優先順位を付けるしかなかった。種の予備を確保してある畝を捨て、収穫期の近い中心の畝を守る。土盛りの位置を変え、緊急の排水溝を一本、鍬で無理やり切り開く。


――めぐる。……て、血。


鍬の柄で擦れた掌が切れていた。気づかなかった。ワカバが心配そうに腕にしがみつく。


「大したことはない。それより、あと少しだ。――ここを守れば、畑は生きる」


明け方、雨脚が弱まった頃には、畑の中心部は無事だった。失ったのは、縁の畝が三つ。全体の二割弱。前夜の「嵐」の規模からすれば、最小限の被害だった。


泥だらけの二人で、畑の真ん中に座り込んだ。


――わかば、疲れた。……でも、守れた。


「ああ。お前のおかげだ」


その日の午後、雨は上がった。俺は濡れた手帳に、反省会の記録を書いた。


原因:水路に増水対策なし。排水設計の容量不足。対策:水路に入水調整の土堰を新設。排水溝を二本に増設。畝の高さを全体に五センチ上げる。――仕事でも農業でも、事故は「起きてから直す」のが一番高い。だが、直し方を記録に残せば、次は安く済む。PDCAは、畑でも回る。


雨上がりの午後は、復旧と改修に使った。水路の入口に、取り外しできる土堰と板の仕切りを作る。排水溝は掘り直して二本に増やし、畝の土も全体に盛り直した。失った三畝分は、予備の種芋を切り分けて植え直す。発芽は遅れるが、収穫の波が分かれる分、かえって出荷――いや、保存と消費の計画は立てやすくなる。損害を、仕組みの改善に変換するのが、商いの現場の常道だった。


夕食は燻製肉の切れ端を入れた、温かい汁物にした。冷えた体に、塩気のない汁でも染み渡った。ワカバは泥を落として丸くなり、満足そうに小屋の隅でうとうとしていた。農家は、嵐の日にもごはんが要る。当たり前のことを、嵐が教えてくれた。


聖域は安全な場所だ。だが、聖域でも雨は降り、川は増える。「魔物が入らない」ということと、「何も起きない」ということは、まったく別物だった。自然は敵ではないが、交渉相手としては一番手強い。その事実を、俺はこの嵐で骨身に刻んだ。


夕方、片付けを終えた頃だった。


森の奥――大森林の中心の方向から、遠く、腹の底に響くような地響きが、一度だけ伝わってきた。鳥の群れが、中心とは反対の方向へ、一斉に飛び立った。


「……何だ、今の」


――おおきい。……すごく、おおきい、なにか。


ワカバの双葉が、萎れるように伏せた。


聖域の中心に近い、あの奥。普段は近づかない、魔物の気配の濃い場所で、「何か大きなもの」が動いた気配だけが、残っていた。


嵐で森の様子が変わったのか、それとも嵐とは無関係に、あちら側の事情で動いたのか。判断材料がなさすぎた。俺は手帳に一行だけ書いた。


「中心方向、大型の気配。要警戒。近づかない」


今の俺達にできるのは、畑を守り、記録を残し、力を蓄えることだけだった。魔力上限は八六八。この数字が千を超える頃には、見える景色も変わっているはずだ。その日のために、明日からも稽古と畑と記録を続ける。それが、今の俺の仕事の全部だった。嵐の後の空は、嘘みたいに晴れていた。洗われた草原の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。だが、中心方向の森だけは、夕日の中でも暗く、静かに佇んでいた。その静けさが、かえって何かを待っているように感じられた。俺はその夜、柵の見回りを一回増やすことにした。気配は、二度と姿を見せなかったが、記録だけは残った。「気配」の項目も、手帳に増えた。これで、手帳の項目は五つになった。


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