第11話「ワカバの言葉」
それは、夏の盛りの、ごく普通の朝だった。
畑の見回りを終えて小屋に戻る途中、背後で小さな音がした。
「……め、ぐる」
振り返る。ワカバが、俺を見上げていた。いつもの「頭に直接届く声」ではない。空気を震わせて出た、本物の声だった。
「ワカバ、今……声で言ったのか?」
「めぐる。……めぐる!」
まだ拙い。だが、はっきりと人の言葉だった。スライムが声帯もない体で、どうやって音を出しているのかは分からない。体の表面を震わせて、言葉の形を作っているのだろう。最初に覚えた言葉が、相棒の名前だったという事実に、胸の奥が少し熱くなった。
「……ありがとう。すごいじゃないか」
「めぐる。……ごはん」
「ああ、そうか、朝ごはんか」
次に覚えた言葉は「ごはん」だった。そして昼過ぎ、稽古に熱中していた俺の足元で、ワカバは三つ目の言葉を披露した。
「やすむ」
「……分かってるよ。あと五射だけ」
「やすむ!」
強い口調である。結局、その日は稽古を早めに切り上げた。部下の進言に負ける上司の図だが、まあ、悪くない関係だと思う。
その日から、俺は暇を見つけてはワカバに言葉を教えることにした。
「空」「川」「畑」「弓」。指さして、繰り返す。ワカバは音を真似て、体の表面を器用に震わせた。覚えの速さは単語によって露骨に違った。「ごはん」「おかわり」「おいしい」の習得は異様に早く、「つちづくり」「わくぐみ」のような作業の言葉は普通で、「数字」は苦戦していた。
――じゅう。……むずかしい。
「商いの相棒に数字は必須だぞ」
――わかば、かわりに、かぞえる。……いち、に、さん。……しち、はち。
「五と六が抜けてる」
――とばすと、はやい。
そういう問題ではない。だが、笑って教え直す時間は楽しかった。
不思議だったのは、言葉が増える速度だ。ワカバの言葉は、野菜みたいに「一週間で目に見えて」増えていく。その伸びと、俺の魔力上限の伸びが、妙に歩調を合わせている気がした。上限八六〇を超えたあたりから、二語文が始まったのだ。相関なのか、気のせいなのかは、まだ分からない。仮説として、余白に小さく書き留めておいた。スライムは魔力でできている。ならば、言葉も魔力で育つのかもしれない。
夜、小屋で俺は農業指南書の裏表紙を開いた。余白に、木炭の細い棒で小さく書き込んでいく。
――ワカバの言葉の記録。
一つ目「めぐる」。二つ目「ごはん」。三つ目「やすむ」。
書きながら、少し笑って、少し黙った。
俺が死んだ時、最後に口にした言葉は何だったか思い出そうとしたが、出てこなかった。メールの送信ボタンの音だけが、耳に残っている。それに比べて、この子の最初の言葉のなんと健やかなことか。生きる、という単語の重さを教えられるのは、死んだ後の方が多いらしい。
この子が覚えた最初の三つの言葉は、名前と、食と、休息だった。生きるために一番大事なものから、順に覚えている。偶然の並びかもしれない。だが俺には、この相棒が「何のために生まれてきたのか」を、そのまま表しているように感じられた。
言葉の数と一緒に、ワカバの意思疎通は日に日に滑らかになっていく。最近では、畑の状態を「つち、かわいた」「め、のびた」と、二語文で報告してくれる。俺はその報告を受けて、水やりの量を決める。立派な共同経営者だった。
夕食の後には、前世の話をするのが日課になっていた。ワカバは特に、「でんしゃ」の話が好きだった。
――でんしゃ。たくさんのひと、はこぶ。……たべもの、じゃない。
「ああ、乗り物だ」
――わかばも、いつか、のる?
「この世界にあるかどうか、分からないけどな。……物流の原点だ。たくさんの人と物を、決まった時間に、決まった場所へ」
――めぐるの、しごと。
「そうだな。俺の仕事、そのものだ」
相棒は、俺の前世の仕事を、誰よりも熱心に聞いてくれる聞き手になっていた。
夏は深まっていく。芋の葉は腰の高さまで育ち、畝の緑は波のように風に揺れた。収穫の足音が、少しずつ近づいてきていた。
だが、順調な季節ほど、自然は牙を隠し持っているものだ。
その夜。遠く、森の向こうの空の色が、ほんの少しだけ不穏に変わった気がした。
湿った風が、草原を一度大きく揺らして通り過ぎた。川の水かさも、朝より心持ち増えている。
「……雨の匂いだ。しかも、大きいやつだ」
――わかば、はたけ、しんぱい。
「明日は水の始末を先にやる。寝ろ、ワカバ」
小屋の屋根を叩く、最初の大きな雨粒の音がした。夏の嵐の、序章だった。
明日の仕事は、畑を守ること。それだけを手帳に書いて、俺は灯りを消した。ワカバはもう、俺の枕元で丸くなっていた。その小さな寝息のような震えを聞きながら、俺は目を閉じた。嵐の前の、静かな夜だった。明日は、拠点にとって初めての「守る日」になる。その予感だけが、胸の奥に残っていた。雨脚は、夜のうちに一段と強くなっていった。川の音が、遠くで低く唸り始めていた。嵐は、もうすぐそこまで来ていた。




