第五巻『深淵の怠惰』
第一章:咀嚼拒否の神託と、全宇宙食材強奪戦
一:朝の虚無と、スプーン一杯の怠惰
全次元を恐怖と勘違いで完全平定し、神々と悪魔を私兵の「空調係」へと格下げしてから二週間。
ヴァルハイト公爵邸の最上階寝室は、全宇宙の歴史上、最も静謐にして最も狂気に満ちた「絶対聖域」として君臨していた。
午前十時四十分。
世界樹ベッドの真ん中、エルフ族が丹精込めて織り上げた摩擦ゼロのシーツの上で、ソラ・ヴァルハイトはカタツムリのような緩慢な動作で上半身を起こした。
「……んぁ……あぁ……」
寝起き特有の重たい頭痛。
喉の奥は砂漠のようにカラカラで、胃袋は昨夜の夕飯を消化しきって空っぽ。
絵に描いたような「空腹による脱力状態」である。
(……腹減った……。でも、ベッドから降りるのダルい……)
ソラは、パジャマの胸元をだらしなくはだけさせたまま、天板の木目をボーッと見つめた。
朝食を食べたい。エネルギーを補給しなければ、快適な「三度寝」へと移行できない。
だが、ソラの怠惰指数は、人類の限界デッドラインを遥かに下回るマイナス領域に達していた。
(……パン? 固い皮を噛むのが疲れる。
肉? 咀嚼するだけで顎の筋肉が乳酸でパンパンになる。
サラダ? 葉っぱを奥歯ですり潰す音そのものが頭蓋骨に響いて鬱陶しい……。
あー……噛むの、疲れるなぁ……)
ソラは、心底うんざりした表情で、ベッドサイドの絨毯の上へ視線を落とした。
そこには、前回の事件以来、常時直立不動で「ソラ様の目覚めの呼吸数」をカウントしていた筆頭監査官エレノアの姿があった。
ソラは、擦れた声で、喉の奥から乾いた息とともに「ただのワガママな愚痴」をポロリとこぼした。
「……おい、エレノア……」
「はっ! 御前に!」
エレノアが眼鏡のブリッジをキチ……と押し上げ、背筋をピンと伸ばす。
ソラは、だるそうに右手の親指と人差し指をスプーンの形に曲げて宙をすくい、心からの本音を垂れ流した。
「……なんか、噛むの疲れるんだよ。顎を動かしたくない。
喉の奥に……チュルッと流し込めるような、適当な朝メシ食いたい……。
スプーン一杯すくったら、噛まなくても勝手に溶けて胃袋に落ちていくようなやつ……あと、甘いのがいい……。
適当に……そこらへんにあるやつでいいから……作ってこいよ……zzz」
言い終えるや否や、ソラは再び世界樹の枕へと頭をダイブさせ、ミノムシのように掛け布団を被り直した。
「これで適当にお粥かプリンでも持ってくるだろ」という、完全なる思考停止の朝食リクエストである。
だが――。
その言葉を受け取ったエレノアの脳内で、全銀河を焼き尽くすレベルの超絶神託演算のビッグバンが炸裂した。
二:超次元神託「至高の完全流動食」
「……っ……!!」
エレノアの青い瞳が、限界まで見開かれた。
手帳を握る指先が、白く変色するほどの握力で震え始める。
(……『噛むのが疲れる』……!?
『スプーン一杯すくったら、噛まなくても勝手に溶けて胃袋に落ちるやつ』……!?)
エレノアの頭蓋骨の中で、知性の回路が超新星爆発を起こした。
(そうか……! そういうことだったのですね、マスター……!!
咀嚼という名の無駄な物理運動の完全拒絶!
食物を噛み砕くプロセスすら、神の肉体にとっては『エントロピーの浪費』に過ぎない……!
マスターが求めておられるのは、現世の粗末なお粥などではない……!
分子構造そのものが口腔の体温と同調し、細胞膜を直接通過して魂の深淵へダイレクトに高純度エネルギーを供給する、【全宇宙至高の絶対流動食】……!!
そして『適当にそこらへんにあるやつで作れ』……!
それはすなわち……『全次元のあらゆる銀河、天界、魔界、深海、古代樹海に存在する全食材をかき集め、極限の覇権を競い合って至高の一匙を差し出せ』という、全宇宙に対する総力動員令ッッ!!!!)
「全軍へ告ぐッッッ!!!!」
エレノアは手帳をバチンと閉じ、寝室の扉を蹴破る勢いで廊下へ飛び出した。
その声は、魔導拡声器を通じて公爵邸、帝都、そして天界と魔界の全軍へと光速で中継された。
「マスターより至高の神託が下されました!
『咀嚼の不要なる、全次元至高の完全流動朝食杯』の開戦です!
制限時間はマスターの三度寝が終わる正午までのわずか一時間!
マスターの御口に最も完璧な一匙を捧げた陣営には、全次元の『筆頭給仕役』の栄誉が与えられます!
ただし、マスターの顎の筋肉をコンマ一ミリでも緊張させた料理を差し出した陣営は……その銀河ごと、マスターのあくびひとつで消滅しますわよッッ!!」
「「「うおおおおおおおおおおおおおおッッッッ!!!!」」」
公爵邸の周囲に控えていた天界、魔界、エルフ、機巧都市、帝国の全軍から、大気を引き裂くような咆哮が轟いた。
三:全次元食材強奪大戦争、勃発
開戦の号令が鳴り響いた瞬間、全次元の均衡は音を立てて崩壊した。
常時適温空調の任務についていた神々と悪魔たちが、一瞬にして「血走った狂乱の料理人」へと変貌したのだ。
【天界陣営:主神ゼウスライラの強襲】
標高一万二千メートルの『天星郷アイテール』。
「全天使団、神聖突貫隊を編成せよッ!」
主神ゼウスライラは、エプロンを黄金の鎧の上から身に纏い、神剣を掲げて絶叫した。
「マスターは『甘いのがいい』と仰った! 狙うは天界最奥の禁足地――樹齢三万年の【太陽蜜蜂の女王巣】だ!
一滴舐めるだけで神の魂すらとろけさせる『至高のソーマ蜜』を、全巣ごと根こそぎ強奪せよ!
蜂の針で刺されようが構わん、ソラ様の喉を潤すためなら、天使の十万匹や二十万匹、喜んで養分にしてくれようぞォッ!!」
十万の天使軍団が、巨大な捕虫網と真空吸着キャニスターを抱え、神聖蜂の群れが渦巻く禁忌の巣窟へと特攻を仕掛けていった。
【魔界陣営:魔王ディアボロスの地底略奪】
地下三万メートル『奈落煉獄パンデモニウム』。
「どけえええええッ! そこをどかんか下等魔獣どもッ!!」
魔王ディアボロスは、割烹着のような黒布を巻き、巨大なフライ返しを振り回しながら溶岩の海を泳いでいた。
「ソラ様が求めておられるのは、胃袋に落ちた瞬間に熱核反応を起こす極上の滋養!
魔界のコアに眠る伝説の魔獣【冥府深淵牛】を屠り、その乳房から絞り出される『万年熟成・暗黒コンデンスミルク』を搾り取れ!
搾乳機を最大出力にしろ! 暴れる牛は角を叩き折ってでもミルクを一滴残らずバケツに集めるのだァッ!!」
十万の悪魔たちが、身の丈五十メートルの暴れ牛を取り押さえ、命がけの集団搾乳作戦を展開する。
【エルフ陣営:樹海の神話級収穫祭】
『大樹海ユグドラ・シルヴァ』。
「弓兵隊、散開! 枝の一本も傷つけるな!」
防衛指揮官ルーディスが、純白の割烹着姿で空中回廊を疾走する。
「世界樹の天頂、千年に一度しか実を結ばぬ奇跡の果実【星露の黄金桃】!
繊維質ゼロ! 果肉の硬度ゼロ! スプーンを入れた瞬間に液体へと崩壊する極上の果汁の塊!
ソラ様が前回のマッサージで整えてくださった聖樹の恩恵を、今こそお返しする時です!
一粒の落下も許されません、全員で布を広げて受け止めなさいッ!!」
千名のエルフたちが、樹海の上空へ向けて飛び交い、黄金に輝く巨桃を次々と収穫していく。
【機巧都市陣営:極限分子調理の暴走】
公爵邸の前庭。
「ギア比を最大にせよ! 遠心分離機の回転数を光速の十パーセントまで引き上げろッ!」
技師長ガリレオが、巨大な蒸気式ミキサーの前に仁王立ちし、歯車義眼から火花を散らしていた。
「我が機巧都市の誇る超音波ナノ・クラッシャー!
あらゆる食材の分子結合をナノメートル単位で粉砕し、摩擦係数をゼロにする『完全無抵抗・超流動ピューレ』を生成する!
天界の蜜も魔界のミルクも、我が遠心分離機の前にはただの構成物質!
究極の口溶け係数――『摩擦ゼロ・嚥下抵抗ゼロ』の流動食を完成させるのだッッ!!」
天が裂け、大地が割れ、全次元の生態系が「ソラ様の朝メシの一匙」のために徹底的に収奪・破壊・再構築されていく。
わずか数十分の間に、全宇宙の超常食材が公爵邸の厨房へと山のように集結した。
四:四方会戦の調理場と、完成した「怪物の一匙」
正午十五分前。
公爵邸の厨房は、もはや料理を作る場所ではなく、高次元の魔力炉心が臨界突破したかのような異様な光景となっていた。
集まったのは、
天界が十万の犠牲を出して採取した【太陽蜜蜂のソーマ蜜】。
魔界が溶岩の底から搾り取った【冥府深淵牛の超濃厚ミルク】。
エルフ族が命がけで収穫した【星露の黄金桃の天然果汁】。
そして機巧都市が分子崩壊レベルまで磨き上げた【摩擦ゼロ・ナノ氷晶】。
「混ぜなさい!」
セレスティーナが大十字架を振り下ろし、神聖魔力で巨大なミキシング・ボウルを包み込む。
「四つの神代食材を、マスターの神域の口腔温度――三十六度五分で完璧に融解する黄金比率でブレンドするのですわ!」
ガガガガガガッッッ!!!!
エレノアが神速のペンさばきで粘度と浸透圧をミリグラム単位で計算し、
ガリレオの超音波ミキサーが唸りを上げ、
ゼウスライラとディアボロスが焦げ付かないよう交互に魔力を注ぎ込む。
そして――。
出来上がったのは、琥珀色に淡く発光し、器を傾けるだけで自ら分子結合を解いてトロリと流動する、この世のものとは思えぬ甘美な香りを放つ、小さなクリスタルの器一杯のデザート。
料理名――【全次元合一・絶対怠惰プリン(通称:咀嚼拒否の神薬)】。
固形物ではない。
しかし液体でもない。
スプーンですくった瞬間は美しいプリンの形を保ちながら、唇に触れた瞬間に体温と同調して「一滴の抵抗もなく胃袋へ吸い込まれる」という、物理法則の特異点のような怪物スイーツであった。
「……で、できた……」
主神ゼウスライラが、エプロンの裾で涙を拭った。
「これで……これで我が天界の存続は守られたのだ……!」
「ああ……」
魔王ディアボロスもまた、フライ返しを取り落として膝をついた。
「俺たちの命を懸けた一匙だ……。ソラ様、どうか……どうか美味いと仰ってくれ……!」
全次元の命運を乗せた銀のスプーンが、クリスタルの器に添えられ、厳重な無音結界に包まれて、二階の寝室へと恭しく運ばれていった。
五:寝覚めの一口と、絶望の朝食レビュー
「……んぁ〜……あー、よく寝た……」
世界樹ベッドの上で、ソラがようやく二度寝から這い出してきた。
時間はちょうど正午。
お腹はペコペコ。喉の渇きも限界だった。
「おい、エレノア。なんか適当なメシ、できたか……?」
ソラが欠伸を噛み殺しながらベッドの縁に腰掛けた、その瞬間。
スッ……。
音もなく目の前に差し出されたのは、琥珀色に神秘的な燐光を放ち、湯気代わりに微細な虹色の粒子を立ち昇らせている、クリスタルの小鉢だった。
「……は?」
ソラは目を丸くした。
「何これ? 宝石? 食べるやつなのこれ……?」
「マスターのお望み通り、咀嚼を一切必要とせず、スプーン一杯で勝手に溶けて胃袋に落ちる至高の朝食でございます」
エレノアが、直立不動の姿勢で恭しく銀のスプーンを差し出した。
部屋の隅には、セレスティーナ、ゼウスライラ、ディアボロス、ガリレオ、ルーディスが、まるで死刑宣告を待つ囚人のような蒼白な顔で、息を殺して正座している。
(……なんか、みんなめっちゃ見てくるんだけど……。
まあいいや、腹減ったし。プリンっぽくて美味しそうだし)
ソラは銀のスプーンを受け取ると、琥珀色のプリンの表面へ、スッと差し込んだ。
スッ……。
手応えが、ゼロだった。
まるで空気をすくったかのような軽さ。
だが、スプーンの上には、プルプルと美しく揺れる一口分のプリンが確実に乗っていた。
ソラは、だるそうにそれを口元へ運び、ペロリと唇に乗せた。
その瞬間――。
ジュワァァァァァァァッッッッ!!!!
「――っっっっっっっっっっっっっっ!?!?!?」
ソラの目が、カッと見開かれた。
噛んでいない。
舌を動かしてもいない。
ただ唇に触れた、その刹那――スプーンの上のプリンが、ソラの体温に触れた瞬間、分子結合を完全消滅させ、極上の甘美な液体へと強制相転移したのだ!
信じられないほどの濃厚なミルクのコク。
舌の上を撫でる、世界樹の桃の瑞々しい酸味。
喉の奥をツルリと滑り落ちていく、太陽の蜂蜜の圧倒的な甘み。
ゴクン……と喉仏が一度だけ上下しただけで、胃袋の奥へ、まるで温かい光の奔流が直接注ぎ込まれたかのように、すぅーっと全身の倦怠感が吹き飛んでいった。
疲労度、ゼロ。
咀嚼回数、ゼロ。
消費カロリー、完全にゼロ。
「……う、う……」
ソラの口から、呆然とした声が漏れた。
「……うまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいッッッッ!!!!」
ソラは夢中になってスプーンを動かした。
すくう、口に当てる、溶ける、胃に落ちる。
すくう、口に当てる、溶ける、胃に落ちる。
わずか十秒。
咀嚼筋をミリ単位も使わないまま、クリスタルの小鉢はピカピカに空っぽになっていた。
「ふぅ……美味しかった……。何これ、甘くて冷たくて、全然噛まなくていいじゃん……。
最高だよ……毎日これにしてくれ……」
ソラは満足げに息を吐き、ベッドの上でゴロリと横になった。
お腹も満たされ、喉も潤い、胃への負担もゼロ。
完璧な幸福感の中、ソラは「あー、満足満足……」と目を細め、三度寝の準備に入ろうとした。
――だが。
その背後で。
床に額を擦り付けていた主神ゼウスライラ、魔王ディアボロス、ルーディス、ガリレオの四人は――。
「……た……食べた……!」
「『毎日これにしてくれ』と……! マスターが……我が陣営の結晶を……至高と認めてくださったァッッ!!」
全員が、声を出さぬよう必死に口を覆いながら、血反吐と嬉し涙をボロボロと床に垂れ流して抱き合っていた。
エレノアが手帳を開き、神速の筆致で歴史を刻み込む。
【全宇宙朝食協定:第一条】
全次元は、本日より『ソラ様の咀嚼ゼロ完全流動食の常時供給体制』へと移行する。
天界は毎日十万羽の蜂の巣を、魔界は百頭の深淵牛のミルクを、エルフは千の黄金桃を、機巧都市は分子ミキサーを……永久にマスターの朝の一匙のために稼働させ続けること。
これに違反し、マスターの顎に一ミリの筋肉疲労を与えた陣営は、その場で銀河ごと消滅とする。
「……よし」
エレノアが眼鏡を冷酷に光らせ、首脳陣を見下ろした。
「明日の朝食のメニュー選定会議を始めます。次は『塩味のある流動食』のコンペティションです。
全次元の海と大地から、奇跡の出汁をかき集めてきなさいッ!!」
「「「は、はいッッ!! 直ちに全銀河から出汁を絞り取ってまいりますゥッッ!!」」」
神と悪魔と技術者たちが、次なる朝食大戦争へ向けて、音もなく部屋から飛び出していった。
ベッドの上で、ソラは「……ん……次はしょっぱいお粥がいいな……zzz」と小さく呟きながら、深い深い三度寝の海へと沈んでいった。
本人はただ「噛むのがダルいからプリン食わせろ」と言っただけなのに、全宇宙の生態系が「究極の離乳食」のために永久徴発されることになってしまった――。
一歩も動かず、一回も噛むことなく世界を狂乱させる深淵の怪物の伝説は、またしても胃袋の底から宇宙を支配してしまったのであった。




