第9話 仮の関係
ミンジェは書類をまとめると、いつも通り無駄のない動きでカバンに入れた。
その動作に、さっきの「仮の関係」という言葉の余韻はほとんど残っていない。
まるで、既に処理済みの案件のように。
ジミンはまだその場に立ったまま、何も言えない。
「帰るぞ」
短い一言。
それは命令でも誘いでもなく、ただの区切りだった。
ジミンは反射的に「はい」と答えてしまう。
廊下に出ると、空調の音がやけに大きく感じられた。
エレベーター前。
いつもと同じ位置に並ぶ。
けれど、ジミンの心臓の音だけが違う。
数字のランプが点灯するたびに、ジミンの意識が少しずつ現実に引き戻される。
(仮の関係)
その言葉を頭の中で繰り返すたびに、現実感が薄くなる。
隣を見ることができない。
見たら、何かが暴走してしまいそうだった。
エレベーターが到着する。
ドアが開く。
ミンジェは一度もジミンを見ない。
ただ正面だけを見ている。
その姿勢が、妙に残酷だった。
下層階へ落ちていく途中、ミンジェが静かに言った。
「明日から通常通りでいい。表向きは今まで通り振る舞うように」
ジミンは少し遅れて返す。
「……はい」
それ以上、会話は続かない。
エレベーターが一階に到達する。
ドアが開く。
照明の光が流れ込む。
ミンジェは先に出る。
その背中を見ながら、ジミンは一歩遅れて続く。
(何も変わらないはずなのに)
そう思うのに、もう同じではいられない感覚だけが残る。
ビルの外に出る直前、ミンジェが一瞬だけ立ち止まった。
ジミンも止まる。
振り返りはしない。
ただ、低い声だけが響く。
「余計なことは考えるな」
それだけ。
そしてまた歩き出す。
ジミンはその背中を追いながら、小さく息を吐いた。
夜風が頬をかすめる。
(今さら考えるなって言われても)
境界は引かれたまま。
ただ、その線の上に立っている感覚だけが、妙に鮮明になっていった。




