第5話 うわさ
オフィスでは少しずつ、妙な噂が広がり始めていた。
休憩スペースで先輩社員たちが小声で話しているのが、ジミンの耳にも入ってきた。
「ミンジェ課長、イ会長の姪と近々婚約するらしいよ」
「え、本当? あの超クールな課長が?」
「うん。社長がかなり推してるみたい。もう何度か家族ぐるみで食事会を開いてるって話だよ。相手は26歳で、海外帰りだって」
ジミンはコーヒーを淹れながら、思わず手を止めた。
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
(……婚約? 会長の姪……?)
一瞬、由布院の湯気の中で見たミンジェの広い背中と、 夢の中でエレベーターに押しつけられた熱い感触がフラッシュバックした。
――でも現実は冷たい。
ミンジェは相変わらず、ジミンに対しては淡々と対応する。
由布院の出来事についても、一切触れてこない。
その日の午後、チームの先輩がジミンに近づいてきて、からかうように言った。
「ジミンちゃん、課長のことどう思う? あの人、結婚したら絶対に浮気とかしないタイプだよね。真面目すぎるくらい真面目でしょ」
ジミンは無理に笑顔を作って「そうですね……」とだけ返した。
でも胸の奥がざわついて仕方ない。
(もし本当に会長の姪と婚約するなら…… あの出来事は、ただの事故として忘れられてしまうんだろうか)
あの背中で守ってくれたことも、私だけが毎晩夢で見て悶えてることも。
(……全部、なかったことになる?)
夕方、仕事を終えてエレベーターに向かうと、 ちょうどミンジェとばったり出くわした。
二人きりになる瞬間、ジミンは我慢できずに口を開いた。
「課長……最近、会長の姪との婚約の噂が立ってるって聞きましたけど……」
ミンジェはエレベーターのボタンを押しながら、表情一つ変えずに答えた。
「噂だ」
短い一言。
ジミンはさらに言葉を続けた。
「……本当じゃないんですか?」
ドアが開くのを待って、ミンジェはようやくジミンに視線を向けた。
その目はいつものように冷静で、ほとんど感情が読み取れない。
「今は、そんな話をするつもりはない。君は自分の仕事に集中していればいい」
エレベーターのドアが閉まる。
ジミンは壁に寄りかかりながら、唇を軽く噛んだ。
(自分の仕事……か)
ミンジェは、あの日のことは「業務の一環」だと言った。
(ただの上司としてってこと? 私だけが、あの背中の感触と夢で毎日ぐちゃぐちゃになってるのに……)
ミンジェの冷たい対応と噂が ジミンの胸の中で重く絡み合って、ますますわけがわからなくなっていた。
婚約、会長の姪、海外帰り。
断片的な単語が、意味を持たないまま並んでいく。
ミンジェはいつも通り態度を崩さない。視線も動かさない。何も説明しないまま、空気の中に距離だけを固定している。
それが、いちばん腹立たしい。
ジミンは自分でも気づかないまま、拳を軽く握っていた。
(私が気にすることじゃない)
そう思おうとするたびに、別の感情がその上に被さってくる。
由布院の朝。
湯気の向こうで一歩前に立った背中。
あのときの「守られた」という感覚だけが、一番鮮明に残っている。
そして夢。
あれは確かに自分の中で勝手に膨らんだものだ。
ミンジェが関与しているわけではない。
それは、分かっている。
分かっているのに、身体のほうが納得していない。
(また、今夜も夢を見そう)




