第30話 3ヶ月目
契約は今日で終わる。
12月の冷たい風が、夕方のソウルの街を静かに吹き抜けていた。
地下鉄を降り、駅の改札を出た瞬間から、ジミンの心臓は激しく鳴っていた。
ミンジェから来たメッセージは、ただこれだけだった。
>明日は、うちの近くまで来られるか。
(家……?課長の家にまた……?)
昨日の夜はなかなか寝付けなかった。
何度も服装を選び直し、いつもより大きめのバッグにコンタクトケースと最低限のメイク道具を入れては出してを何度も繰り返した。
万一に備えて……という思いと、「まさかそんなことないよね」という理性が、胸の中で何度もせめぎ合っていた。
ジミンはマンションに向かう道を歩きながら、バッグの中のコンタクトケースとメイク道具を何度も触っていた。
マンション前に着くと、ミンジェがすでに立っていた。
シンプルなコート姿。
街灯の光の下で、いつものクールな顔が少しだけ柔らかく見えた。
ジミンの身体は勝手に期待してしまった。
(部屋、上がるのかな……?)
でもミンジェは静かに言った。
「食事に行こう」
ジミンは一瞬、返事を忘れた。
(……上がらないんだ)
胸のどこかが、ほんの少しだけ落ちた。
自分でそれに気づいて、耳が熱くなる。
けれど同時に、別の場所が静かに温かくなった。
仕事ではない。
契約終了の確認でもない。
これは、たぶん。
ちゃんとした、デートだった。
近くの静かなレストランで食事をした後、二人は漢江沿いの遊歩道を歩いた。
冬のイルミネーションが、川面に揺れて輝いている。
ジミンはちらりと、ミンジェの横顔を見上げた。
ミンジェはゆっくりと口を開いた。
「仮の婚約者契約は、今日で終わりだ」
ジミンの胸が、跳ね上がった。
血が流れるどくどくという音が耳に響く。
ミンジェは立ち止まり、彼女の目を見つめた。
「だから、ここから先は、仮ではない」
彼はコートのポケットから小さい箱を取り出した。
中から出てきたのは、細めのシンプルなリング。
仕事中にも自然につけられる、控えめで上品なデザインだった。
ジミンは息を飲んだ。
「ジミン」
ミンジェの声は低かった。
「俺の婚約者になってほしい。今度は、仮ではなく」
ジミンは何度も瞬きをした。
涙で、目の前の光が滲む。
言葉にならず、何度も小さくうなずいた。
ミンジェは、安心したように小さく笑った。
それから彼女の左手をそっと取り、ゆっくりと指輪をはめた。
冷たい金属の感触と、ミンジェの指の温かさが同時に伝わってくる。
「……どうして、こういうのが好きだって分かったんですか」
ジミンの声が震えた。
ミンジェは少しだけ目を細めて、答えなかった。
それから、2人は手をつないだまま、しばらく川沿いを歩いた。
ふいに、ミンジェが言う。
「寒いな。戻るか」
「どこへ?」
「マンションに」
ジミンは小さく息を飲んだ。
「君が望むなら、ですか?」
ミンジェは足を止めた。
つないだ手に、少しだけ力がこもる。
「違う」
ミンジェは初めて、はっきりと彼女の目を見て言った。
「一緒に帰りたい」
その言葉は、低く、掠れていて、
これまで抑え込んできたすべての想いが込められていた。
ジミンは笑顔で答えた。
「……はい」
二人は並んで、冬の道を戻っていく。
ジミンの左手の指輪が街灯の光を小さく返した。
3ヶ月という契約は、今日で終わった。
そして、本当の始まりが、静かに動き出していた。
--- Fin ---




