第18話 朝がきても
ミンジェの腕がゆっくりと緩んだ。
「……すまない」
低く掠れた声。
ジミンは解放された瞬間、ようやく振り返った。
ミンジェは一歩後ろに下がり、視線を逸らしたままコートを手に取った。
「タクシーを呼ぶ。今日はもう帰ろう」
ジミンはまだ胸の鼓動が収まらず、小さく頷いた。
「……はい」
二人は無言でオフィスを後にした。
タクシーに乗り込んでからも、車内は重い沈黙に支配されていた。
ミンジェは窓の外を、ジミンは膝の上に置いた指を見つめていた。
アパートの前に着いた時、ミンジェはようやく口を開いた。
「おやすみ」
声は低くて、少し掠れていた。
ジミンが車を下りた後、ミンジェはタクシーの後部座席で目を閉じていた。
腕に残るジミンの体温と、彼女の震えが、まだ鮮明に残っている。
(……完全に、やりすぎた)
彼は静かに息を吐き、頭をシートに預けた。
抱きしめた瞬間、ミンジェ自身が一番驚いていた。
こんな場所で。
上司として。
まだ契約の途中で。
どの条件に照らしても、してはいけないことだった。
それでも、離せなかった。
あと1ヶ月。この「仮の契約」が終わるまでは。
ミンジェの指は、無意識に自分の腕を強く握りしめていた。
*************
翌朝、オフィスはいつもと何も変わらないはずだった。
「ジミンちゃん、昨日大変だったね。大丈夫?」
席に座ると、隣の先輩が心配そうに声をかけてきた。
「はい、ご心配をおかけしました」
ジミンは慌てて笑顔を作り、視線は自然とミンジェの席へ向かう。
PCのモニターに隠れて、ミンジェの表情は見えない。
(課長、今どんな顔してるんだろう……)
昨夜あんなに強く抱きしめておいて、平気な顔をしているのか。
ミーティングが終わった後、ミンジェがジミンのデスクの横を通りかかった。
ミンジェはいつも通り淡々と声をかけた。
「キム・ジミン」
目が合う。
「昨夜の対応、お疲れ様。
君の対応のおかげで先方も納得してくれた。
体調が悪そうなら、今日は早めに上がれ」
「……ありがとうございます」
ジミンは小さく頭を下げた。
でも心の中では全く別の言葉が渦巻いていた。
(早めに上がれって……
昨夜あんなに「限界だ」って言ったくせに、それだけ?
ずるい……本当にずるい……)
ジミンはデスクの下で、指をきつく握りしめた。
その日から、二人の間には
これまで以上に重くて、甘くて、息苦しい「気まずさ」が漂い始めた。
ジミンは毎日、ミンジェの視線を感じるたび、あの夜を思いだして胸がざわついた。
(……どうしよう。
これからどう顔を合わせればいいの?)
一方、ミンジェは——
(……完全に、やりすぎた)
ジミンを抱きしめてしまった感触が、まだ腕に残っている。
この仮の契約が終わるまで、あと1ヶ月。




